倭人伝を解く

日本史の謎を解いていきたいと思います

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旧唐書 新羅伝 始め

新羅國本弁韓之苗裔也其國在漢時樂浪之地東及南方俱限大海西接百濟北鄰高麗

新羅国は本(もと)、弁韓の苗裔である。その国は漢時、楽浪の地(おそらく京畿道の辺り?(其国(高麗)都於平壌城即漢楽浪郡之故地より(旧唐書))に在った。東及び南方はともに大海で限られ、西に百済(都はおそらく論山市の江景?)と接し、北に高麗(都はおそらく水原市?)に隣する。

東西千里南北二千里有城邑村落王之所居曰金城周七八里

東西は一千里(一里150m換算で約150辧法南北は二千里(一里150m換算で約300辧法城邑村落が有る。王の居する所は曰く金城(おそらく慶州(キョンジュ)?)と。周りは七、八里(一里150m換算で約1厖召蝓法

衛兵三千人設獅子隊文武官凡有十七等其王金真平隋文帝時授上開府樂浪郡公新羅王

衛兵は三千人、獅子隊を設ける。文武官は凡そ十七等級が有る。その王の金真平は隋文帝時、上開府、楽浪郡(韓濊郡公?)、新羅王を授けた。

武四年遣使朝貢高祖親勞問之遣通直散騎侍郎庾文素往使焉賜以璽書及畫屏風錦彩三百段自此朝貢不絕

武徳四年(621)、使者を遣わし朝貢した。唐高祖は親(みずから)これを労問した。通直散騎侍郎庾文素を遣わし使いに往かせ、璽書及び画屏風、錦彩三百段(端)を以て賜り、此れより朝貢は絶えなかった。

其風俗刑法衣服與高麗百濟略同而朝服尚白好祭山神

その風俗、刑法、衣服は高麗、百済と略(ほぼ)同じで、而して、朝服は白色を尚(とうとぶ)する。山神を祭ることを好む。

其食器作柳杯亦以銅及瓦國人多金樸兩姓異姓不爲婚

その食器は柳杯を作り、亦、銅を以て瓦を葺(ふく 及(チー)=葺(チー)?)く。国人の多くが金、撲(朴)の二つの姓名で、異姓は婚を為さない。

重元日相慶賀燕饗每以其日拜日月神又重八月十五日設樂飲宴賚群臣射其庭

元日を重んじ、相(あい)慶賀燕饗し、毎(いつも)、その日を以て日(太陽)、月の神を拝む。又、八月十五日を重んじ、楽飲宴を設け、群臣に賚(たまわる)し、その庭で射をする。

婦人發繞頭以彩及珠爲飾發甚長美高祖既聞海東三國舊結怨隙遞相攻伐以其俱爲蕃附務在和睦乃問其使爲怨所由

婦人の髪は頭に繞(とりまく)し、彩及び珠を以て飾りをつけ、髪は甚だ長くて美しい。唐高祖は既に、海東の三国(高麗、百済、新羅)は旧(むかし)、怨隙を結び、遞相(かわるがわる)攻伐していると聞き、そのともに蕃附と為るを以て、和睦に在ることに務め、そこで、その使者に怨みを作った理由を問うた。

對曰先是百濟往伐高麗詣新羅請救新羅發兵大破百濟國因此爲怨每相攻伐

応えて曰く、「先に是れ、百済は高麗に往き伐し、新羅に救いを請いに詣で、新羅は兵を発して百済国を大破しました。因りて此れが怨みに為り、毎(いつも)互いに攻伐しあい、

新羅得百濟王殺之怨由此始七年遣使冊拜金真平爲柱國封樂浪郡王新羅王

新羅は百済王を得て、これを殺しました。怨みはこれ由り始まりました。」と。七年(624)、使者を遣わして金真平に冊拝して柱国と為し、楽浪郡王、新羅王を封じた。

貞觀五年遣使獻女樂二人皆鬒發美色太宗謂侍臣曰朕聞聲色之娛不如好

貞観五年(631)、使者を遣わし、女楽二人を献じた。皆(みな)、鬒髪(黒くてつやのある髪)で、美色であった。唐太宗は侍臣に謂った、曰く、「朕は聞く、声色の娯(たのしみ)は徳を好むにおよばないと。

且山川阻遠懷土可知近日林邑獻白鸚鵡尚解思鄉訴請還國鳥猶如此況人情乎

且(まさに)、山川は遠くを阻(はば)み、土(ふるさと)を懐(おもう)くは知るべくである。近日、林邑が白鸚鵡(ワカケホンセイインコの白種?言葉が話せる 山海経より)を献じたが、尚(なお)郷(さと)を思うことを解(わかる)し、国に還ることを訴え請うている。鳥も猶(なお)このようであるのに、況(いわん)や、人の情はいっそうである。

朕湣其遠來必思親戚宜付使者聽遣還家

朕はその遠来、必ず親戚を思うを憫(あわれむ 湣(ビン)=憫(ビン)?)する。宜しく使者を付けて、家に遣還することを聴き入れるべし」と。

是歲真平卒無子立其女善爲王宗室大臣乙祭總知國政詔贈真平左光祿大夫賻物二百段

この年、真平が卒(死ぬ)した。子が無く、その女(娘)の善徳を立てて王に為し、宗室大臣の乙祭が国政を総知(総治(すべおさめる)?)した。詔(みことのり)して真平に左光祿大夫、帛布(絹布  賻(フー)=帛(ハク)? 物(ブツ)=布(ブー)?)二百段(端)を贈った。

九年遣使持節冊命善柱國封樂浪郡王新羅王十七年遣使上言高麗百濟累相攻襲亡失數十城

九年(635)、使持節を遣わし、善徳に、柱国を冊命し、楽浪郡王、新羅王を封じた。十七年(643)、使者を遣わし上言した、「高麗、百済は、累(たびたび)互いに攻襲し、数十城を亡失しました。

兩國連兵意在滅臣社稷謹遣陪臣歸命大國乞偏師救助太宗遣相里玄獎齎璽書賜高麗曰

両国(高麗、百済)は兵を連ね、意は臣(わたし)の社稷を滅ぼすことに在ります。謹んで、陪臣を遣わして大国に帰命(心からなついてしたがうこと)し、偏師(一部の軍隊)の救助を乞(こ)う」と。唐太宗は、相里玄獎を遣わし、璽書を齎(すすめる)し、高麗に賜って、曰く、

新羅委命國家不闕朝獻爾與百濟宜即戢兵若更攻之明年當出師擊爾國矣

「新羅は命を国家に委(ゆだ)ね、朝献を不闕(かかさない)する。爾(なんじ)は百済と、宜しく即(すぐに)、兵(戦い)を戢(やめる)するべきである。若し、更にこれを攻めれば、明年、当(まさ)に師(軍隊)を出して爾(なんじ)の国を撃つ」と。

太宗將親伐高麗詔新羅纂集士馬應接大軍新羅遣大臣領兵五萬人入高麗南界攻水口城降之

唐太宗は将(まさ)に親(みずから)高麗を伐し、新羅に詔(みことのり)して士馬を纂集(あつめる)させ、大軍に応接させた。新羅は大臣を遣わし兵五万人を領(ひきいる)して、高麗の南界に入り、水口城を攻め、これを降伏させた。

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