倭人伝を解く

日本史の謎を解いていきたいと思います

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龍駕帝服

龍駕帝服鳴鍾傳鼓於清渭之上南面而朝單于朔易無復匹馬之蹤六十餘年矣

龍駕帝服して清渭の上に鳴鍾伝鼓し、南面して単于(王)を朝(政治をとる)し、朔、易には、復匹の馬の蹤(あしあと)の無くなること六十余年。

後王莽陵篡擾動戎夷續以更始之亂方夏幅裂自是匈奴得志狼心復生乘凌佚害流傍境

後、王莽が陵篡し、戎夷を擾動(みだす)し、続くに更始の乱を以てした。方(まさに)夏は幅裂(分裂)した。是(これ)より匈奴は志(ねらい)を得て、狼心が復(また)生まれ、乘間(てすきに乗じて)侵佚(侵し攻める)し、害は傍境に流れた。

及中興之初更通舊好報命連屬金幣載道而單于驕踞益內暴滋深世祖以用事諸華未遑沙塞之外忍愧思難徒報謝而已

中興の初めに及んで、旧好を更通(改めて通じる)し、報命(使者が命ぜられた仕事の結果を帰って報告すること)は連続し、金幣は載道(道に満ちる)し、而して単于は驕踞(おごり)益横(ますます勝手気ままになる)し、內の暴(あらあらしい)は滋深(ますます深くなる)した。世祖(後漢光武帝)は諸華に用事を以てし、沙塞の外に未だ遑(いそがしい)せず。忍愧(はじをしのぶ)思難(なやむ)し、徒(ただ)、報謝(恩に報いること)にしてそれ已(のみ)。

因徙幽并之民瘤監崘径患晨霤趁陳褓蜀已清其猛夫扞將莫不頓足攘手爭言衛霍之事

因りて幽、并の民を徙(うつす)し、辺屯の卒を増した。関東が稍定(次第に定まる)するに及んで、隴、蜀は已(すでに)清まると、其の猛夫、扞将(勇敢な将軍)は、頓足(じだんだをふむ)攘手(手をまくりあげる)せずはなく、衛(衛青)、霍(霍去病)の事を争言(争い言う)した。

帝方厭兵嶺文政未之許也其後匈奴爭立日逐來奔願脩呼韓之好以禦北狄之衝奉藩稱臣永為外扞

帝は方(まさに)兵(戦い)を厭わんとし、間(しばらく)文政を脩(おさめる)し 未だ許に之(いたる)さずなり。其の後、匈奴が争い立ち、日逐(比)が来奔し、呼韓の好を脩(おさめる)することを願い、北狄の衝(つきやぶる)を禦(ふせぐ)するを以てし、藩を奉り臣を称え、永く外扞(外のまもり)と為った。


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