倭人伝を解く

日本史の謎を解いていきたいと思います

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如此則醜類

如此則醜類可服國家無事矣帝從之乃詔續招降畔虜

此れの如くすれば、醜累は服すことができ、国家に事無し」と。帝は之に従った。乃ち馬続に詔(みことのり)して畔虜を招降(降伏をすすめる)させた。

商又移書續等曰中國安寧忘戰日久良騎野合交鋒接矢決勝當時戎狄之所長而中國之所短也

梁商は又、書を馬続らに移して曰く、「中国は安寧で、戦いを忘れる日は久しい。良騎は野合し、鋒(ほこ)を交え、矢を接(まじえる)し、当時(そのとき)に勝ちを決めるのが、戎狄の長ずる所であり、而して中国の短する所である。

強弩乘城堅營固守以待其衰中國之所長也而戎狄之所短也

強弩(強いいしゆみ)を城(城壁)に乗せ、陣営を堅め、守りを固め、その衰弱を待つを以てするのが、中国の長ずる所であり、而して戎狄の短する所である。

宜務先所長以觀其變設購開賞宣示反悔勿貪小功以亂大謀

宜しく先の長ずる所に務め、その変を観るを以てし、購を設け、賞を開き、反悔を宣示し、小さな功績を貪って大謀を乱すこと勿れ」と。

續及諸郡並各遵行於是右賢王部抑鞮等萬三千口詣續降

馬続及び諸郡は並びに各々遵行(したがいおこなう)した。是(ここ)に於いて、右賢王部抑鞮ら一万三千口が馬続に詣でて降伏した。

龜以單于

龜以單于本不能制下逼迫之單于及其弟左賢王皆自殺

陳亀は 単于は本(もとより)、制下することができないのを以て、之に逼迫(さしせまる)し、単于及び其の弟の左賢王が皆、自殺した。

單于休利立十三年龜又欲徙單于近親於內郡而降者遂更狐疑龜坐下獄免

単于休利が立って十三年、陳亀は又、単于の近親を内郡に徙(うつす)することを欲した。而して、降者は遂更(いよいよ)狐疑(ひどく疑う)した。陳亀は坐(罪にとわれる)して獄に下されて免ぜられた。

大將軍梁商以羌胡新反黨眾初合難以兵服宜用招降乃上表曰

大将軍梁商は羌胡が新(あらた)に反したのを以て、党衆は合わせることを初め、兵を以て服するは難(むずかしい)で、宜しく招降(敵を説得して降伏をすすめること)を用いるべきであると、乃ち、上表して曰く、

匈奴寇畔自知罪極窮鳥困獸皆知救死況種類繁熾不可單盡

匈奴は寇畔し、自ら罪極を知る。窮鳥困獣(おいつめられた鳥や獣)は皆、救死(死をふせぐ)を知る。況や、種類が繁熾(盛ん)すれば、単尽(ことごとくつくす)することはできない。

今轉運日畛扱拡莇虛內給外非中國之利竊見度遼將軍馬續素有謀謨且典邊日久深曉兵要每得續書與臣策合

今、転運は日に日に増し、三軍は疲苦し、内を虚(から)にして外に給するは中国の利では非ざる。窃(ひそかに)見る、度遼将軍馬続は素(もとより)謀謨(はかりごと)を有し、辺境を典(つかさどる)する日は久しく、兵要に深曉(非常に明るい)し、馬続の書を得る毎(ごと)に、臣(わたし)の策と合致する。

宜令續深溝高壁以恩信招降宣示購賞明其期約

宜しく馬読に令して溝を深くし壁を高くして、恩信を以て招降(敵を説得して降伏をすすめること)し、購賞を宣示し、其の期約を明らかにすべし。

單于拔立四年

單于拔立四年薨弟休利立

単于抜は立って四年で薨し、弟の休利が立った。

去特若尸逐就單于休利永建三年立

去特若尸逐就單于休利は永建三年(128)に立った。

四年龐參遷大鴻臚以東平相宋漢代為度遼將軍

四年(129)、龐参が大鴻臚に遷り、東平相宋漢を以て代わり度遼将軍と為した。

陽嘉二年漢遷太僕以烏桓校尉耿曄代為度遼將軍

陽嘉二年(133)、宋漢が太僕に遷って、烏桓校尉耿曄を以て代わって度遼将軍と為した。

永和元年曄病徵以護羌校尉馬續代為度遼將軍

永和元年(136)、耿曄は病で懲(やめる 徴=懲?))し、護羌校尉馬續を以て代わって度遼将軍と為した。

五年夏南匈奴左部句龍王吾斯車紐等背畔率三千餘騎寇西河因復招誘右賢王合七八千騎圍美稷殺朔方代郡長史

五年(140)夏、南匈奴左部句龍王吾斯、車紐らが背畔(そむく)し、三千余騎を率いて西河を寇し、因りて復(また)、右賢王を招き誘い、合わせて、七、八千騎が美稷を包囲し、朔方郡、代郡の長史を殺した。

馬續與中郎將梁並烏桓校尉王元發緣邊兵及烏桓鮮卑羌胡合二萬餘人掩擊破之

馬続は中郎将梁並、烏桓校尉王元と縁辺兵及び烏桓、鮮卑、羌胡、合わせて二万余人を発して、掩擊(不意打ちをする)し之を破った。

吾斯等遂更屯聚攻沒城邑天子遣使責讓單于開以恩義令相招降單于本不豫謀乃脫帽避帳詣並謝罪

吾斯らは遂に聚を更屯し、城邑を攻没した。天子は使者を遣わして単于を責讓(せめる)し、開(さとす)するに恩義を以てし、招降(敵を説得して降伏をすすめること)すること相(みちびく)させた。単于は本(もとより)謀(はかりごと)に豫(関与する)しておらず、乃ち脱帽して帳(陣営)を避(離れる)し、梁並に詣でて謝罪した。

並以病徵五原太守陳龜代為中郎將

梁並は病を以て懲(やめる 徴=懲?)し、五原太守陳亀が代わって中郎将と為った。

烏稽侯尸逐鞮單于

烏稽侯尸逐鞮單于拔延光三年立

烏稽侯尸逐鞮単于抜が、延光三年(124)に立った。

夏新降一部大人阿族等遂反畔脅呼尤徽欲與俱去

夏、新降の一部の大人の阿族らが遂に反畔(むほん)して、呼尤徽を脅かして俱(ともに)去ることを欲した。

呼尤徽曰我老矣受漢家恩寧死不能相隨眾欲殺之有救者得免

呼尤徽は曰く、「我は老いており、漢家の恩を受け、安寧に死にたい。相随することはできない」と。衆はこれを殺すことを欲したが、救う者が有って免れるを得た。

阿族等遂將妻子輜重亡去中郎將馬翼遣兵與胡騎追擊破之斬首及自投河死者殆盡獲馬牛羊萬餘頭

阿族らは、遂に妻子、輜重を将(ひきいる)して、亡去(逃げ去る)した。中郎將馬翼が兵を遣わして胡騎とともに追撃し、之を破った。斬首、及び自ら河に投じて死んだ者で殆ど尽くされ、馬牛羊万余頭を獲った。

冬法度卒四年漢陽太守傅眾代為將軍其冬傅眾復卒永建元年以遼東太守龐參代為將軍

冬、法度が卒(死ぬ)した。四年(125)、漢陽太守傅衆が代わって将軍に為った。その冬、傅衆が復(また)卒(死ぬ)した。永建元年(126)、遼東太守龐参を以て代わって将軍に為した。

先是朔方以西障塞多不脩復鮮卑因此數寇南部殺漸將王

是(ここ)に先んじて、朔方以西の障塞は多くが修復しておらず、鮮卑は此れに由りて数(たびたび)南部を寇し、漸將王を殺した。

單于憂恐上言求復障塞順帝從之乃遣黎陽營兵出屯中山北界畸緣邊諸郡兵列屯塞下教習戰射

単于は憂い恐れ、上言して障塞を復することを求めた。順帝は之に従った。乃(そこで)、黎陽営兵を遣わし中山北界に出でて屯させた。縁辺諸郡兵を増置し、塞の下に列屯させ、戦射を教習させた。

元初元年

元初元年夔免以烏桓校尉遵為度遼將軍遵皇太后之從弟故始為真將軍焉

元初元年(114)、夔が免ぜられて、烏桓校尉遵を以て度遼将軍に為した。遵は、皇太后の従弟(年下のいとこ)で、故(ゆえ)に始めは真将軍に為った。

四年逢侯為鮮卑所破部眾分散皆歸北虜五年春逢侯將百餘騎亡還詣朔方塞降遵奏徙逢侯於潁川郡

四年(117)、逢侯は鮮卑の破る所と為った。部衆は分散し、皆、北虜に帰った。五年(118)春、逢侯は百余騎を将(ひきいる)して亡還(逃げかえる)し、朔方の塞に詣でて降伏した。遵は逢侯を潁川郡に奏徙(進め移す)した。

建光元年遵免復以耿夔代為度遼將軍

建光元年(121)、遵が免ぜられて、復(また)、耿夔を以て代わり度遼将軍に為した。

時鮮卑寇邊夔與溫禺犢王呼尤徽將新降者連年出塞討擊鮮卑還復各令屯列衝要而耿夔徵發煩劇新降者皆悉恨謀畔

時に鮮卑が辺を寇し、耿夔は溫禺犢王呼尤徽とともに、新降者を将(ひきいる)して連年(毎年)塞に出でて、鮮卑を討撃した。還って、復(また)、各々、衝要に屯列させた。而して耿夔は徴発すること煩劇(はなはだしい)で、新降者は皆、悉く恨んで畔(そむく)を謀(はか)った。

單于檀立二十七年薨弟拔立耿夔復免以太原太守法度代為將軍

単于檀が立って二十七年で薨し、弟の抜が立った。耿夔は復(また)免ぜられて、太原太守法度を以て代わり将軍に為した。


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