倭人伝を解く

日本史の謎を解いていきたいと思います

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冬前畔五骨都侯子

冬前畔五骨都侯子復將其眾三千人歸南部北單于使騎追擊悉獲其眾

冬、前に畔(そむく)した、五つの骨都侯の子が復(また)、その衆三千人を将(ひきいる)して南部に帰り、北単于は騎を遣わして追撃した。悉くその衆を獲った。

南單于遣兵拒之逆戰不利於是復詔單于徙居西河美稷因使中郎將段郴及副校尉王郁留西河擁護之為設官府從事掾史

南単于は兵を遣わして之(これ)を拒み、逆戦(出迎えて戦う)して不利になった。是(ここ)に於いて復(また)、単于に詔(みことのり)して、西河美稷に徙居(移り住む)させた。因りて、中郎将段郴、及び副校尉王郁を使わして西河に留め之(これ)を擁護させた。官府、從事、掾史の設置を為した。

令西河長史歲將騎二千弛刑五百人助中郎將衛護單于冬屯夏罷自後以為常及悉復緣邊八郡

西河長史令して歳に騎二千、弛刑(強弓或いは弩弓の兵士? 弛(チー、タ)=強(チアン)=弩(ト)? 刑(ケイ)=弓(キュウ)?)五百人を将(ひきいる)させ、中郎将を助け単于を衛護させた。冬に屯し、夏に罷(帰る)した。後より常と為すを以てし、及び、尽く縁辺八郡を復した。

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匈奴俗

匈奴俗歲有三龍祠常以正月五月九月戊日祭天神

匈奴の俗は、歳に三龍祠が有り、常に正月、五月、九月の戊日を以て天神を祭る。

南單于既內附兼祠漢帝因會諸部議國事走馬及駱锓為樂

南単于が既に内附してから、漢帝を兼祠(かねてまつる)する。諸部を会するに因りて、国事を議し、馬及び駱锓(ラクダ)を走らせて、楽を為す。

其大臣貴者左賢王次左谷蠡王次右賢王次右谷蠡王謂之四角次左右日逐王次左右溫禺鞮王次左右漸將王是為六角皆單于子弟次第當為單于者也

その大臣の貴者は左賢王,次は左谷蠡王、次は右賢王、次は右谷蠡王、これを四角と謂う。次は左右日逐王、次は左右溫禺鞮王、次は左右漸将王、これを六角と為す。皆、単于の子弟で、次第(順序)は当に単于と為るべき者である。

異姓大臣左右骨都侯次左右尸逐骨都侯其餘日逐且渠當戶諸官號各以權力優劣部眾多少為高下次第焉

異姓の大臣は、左右骨都侯、次は左右尸逐骨都侯、その余(ほか)は日逐、且渠、当戸で、諸官の号はおのおの権力の優劣を以てし、部衆の多い少ないは、高下の次第(順序)と為す。

單于姓虛連題異姓有呼衍氏須卜氏丘林氏蘭氏四姓為國中名族常與單于婚姻

単于の姓名は虛連題。異姓には呼衍氏、須卜氏、丘林氏、蘭氏の四姓が有り、国中の名族として、常に単于と婚姻を為す。

呼衍氏為左蘭氏須卜氏為右主斷獄聽訟當決輕重口白單于無文書簿領焉

呼衍氏は左と為し、蘭氏、須卜氏は右と為す。獄を主断し、訟(うったえ)を聴き、軽重を当決する。□が単于に白(申す)すは、文書、簿領(記録簿?)は無い。

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詔賜單于冠帶

詔賜單于冠帶衣裳黃金璽盭緺綬安車羽蓋華藻駕駟寶劍弓箭鄒畛駙馬二黃金錦繡喇梭濾ゅ沿澡壗朶鏝歇棨戟甲兵飲食什器

詔して単于に、冠帯、衣裳、黄金璽、盭緺綬、安車羽蓋、華藻駕駟、宝剣弓箭、黒節三、駙馬二、黄金、錦繡、喇柬匹、絮万斤、楽器鼓車、棨戟甲兵、飲食什器を賜った。

又轉河東米糒二萬五千斛牛羊三萬六千頭以贍給之

又、河東の米糒(干し飯)二万五千斛、牛、羊三万六千頭をに転(おくりとどける)し、これに贍給(足してやる)するを以てした。

令中郎將置安集掾吏將弛刑五十人持兵弩隨單于所處參辭訟察動靜

中郎将に令して、安集掾吏を置かせ、弛刑(強弓の兵士? 弛(チー)=強(チアン)? 刑(ケイ)=弓(キュウ)?)五十人を率いて、兵弩を持たせ、単于の処するところに随し、辞訴(うったえ)に参(たずさわる)し、動静を察(しらべる)させた。

單于歲盡輒遣奉奏送侍子入朝中郎將從事一人將領詣闕漢遣謁者送前侍子還單于庭交會道路

単于は歳尽(年のおわり)に輒(そのたびごとに)に奉奏を遣わし、侍子の入朝するもの、中郎将の従事の一人の将領(将軍)を送って闕に詣でさせた。漢は謁者を遣わし、前の侍子を送り、単于の庭に還(かえ)し、道路で交会した。

元正朝賀拜祠陵廟畢漢乃遣單于使令謁者將送賜綵喟乕ざ啝傭雫盻酋埖栖姥羶醬及橙橘龍眼荔支

元正(元旦)に朝賀し、陵廟に拝祠して畢(おわる)と、漢はそこで、単于の使者を遣わして、謁者に令して将送(送る)させ、綵喟乕ぁざ啝傭次ざ盻酋圈ぢ栖姥羶醬及び橙、橘、龍眼(果樹)、荔支(レイシ(果樹))を賜った。

賜單于母及諸閼氏單于子及左右賢王左右谷蠡王骨都侯有功善者嚆醜艾濟歲以為常

単于の母、及び諸閼氏、単于の子、及び左右賢王、左右谷蠡王、骨都侯の功善の有る者に、嚆宗合わせて万匹(四=匹?)を給わった。歳に常と為すを以てした。

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二十六年遣中郎將段郴

二十六年遣中郎將段郴副校尉王郁使南單于立其庭去五原西部塞八十里

二十六年(50)、中郎將段郴、副校尉王郁を遣わして南單于に使いさせた。その庭を立てるは、去ること五原西部塞八十里(一里150m換算で約12辧法

單于乃延迎使者使者曰單于當伏拜受詔單于顧望有頃乃伏稱臣

單于は乃ち、使者を延迎した。使者は曰く、「單于は当に伏して詔を拝受するべきである」と。單于は顧みて有頃(しばらく)望み、そこで、伏して臣を称えた。

拜訖令譯曉使者曰單于新立誠慚於左右願使者眾中無相屈折也骨都侯等見皆泣下

拜が訖(おわる)し、使者に訳暁を令して、曰く、「單于が新に立ち、誠に左右に於いて慚(はじる)した。使者に願う、衆中で相(あい)屈折すること無きように」と。骨都侯らは見て、皆、涙を流した。

郴等反命詔乃聽南單于入居雲中遣使上書獻駱锓二頭文馬十匹

段郴らが反命(使者がもどってきて報告すること)し、詔して、乃ち、南單于が雲中に入居することを聴き入れた。使者を遣わして上書し、駱锓(ラクダ)二頭、文馬十匹を献じた。

夏南單于所獲北虜薁鞬左賢王將其眾及南部五骨都侯合三萬餘人畔歸去北庭三百餘里共立薁鞬左賢王為單于

夏、南單于が獲った所の北虜の薁鞬左賢王がその衆、及び南部五骨都侯合わせて三万余人をひきいて畔帰した。北庭を去ること三百余里(一里150m換算で約45厖召蝓法薁鞬左賢王を共立して單于と為した。

月餘日更相攻擊五骨都侯皆死左賢王遂自殺諸骨都侯子各擁兵自守

一ヶ月と余日、更(こもごもに)相(互いに)攻撃しあい、五骨都侯は皆、死んだ。左賢王は遂に自殺し、諸骨都侯の子は、おのおの兵を擁して自ら守った。

秋南單于遣子入侍奉奏詣闕

秋、南單于は子を遣わして、入侍して奏を奉らせに闕に詣でさせた。

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二十四年春八部大人共議立比為呼韓邪單于以其大父嘗依漢得安故欲襲其號於是款五原塞願永為蕃蔽扞禦北虜

二十四年(48)春、八部の大人は共に議して比を立て、呼韓邪單于と為した。その大父(祖父)が嘗て漢に依りて安を得たのを以て、故(ゆえ)にその号を襲(つぐ)することを欲した。ここに於いて、五原塞に款(いたる)し、永く蕃蔽と為って、北虜を扞禦(ふせぐ)することを願った。

帝用五官中郎將耿國議乃許之其冬比自立為呼韓邪單于

帝は五官中郎将耿国を用いて議し、そこでこれを許(ききいれる)した。その冬、比は自ら立って呼韓邪單于と為った。

二十五年春遣弟左賢王莫將兵萬餘人擊北單于弟薁鞬左賢王生獲之又破北單于帳下并得其眾合萬餘人馬七千匹牛羊萬頭

二十五年(49)春、弟の左賢王莫を遣わし、兵万余人をひきいさせて、北單于の弟の薁鞬左賢王を撃ち、これを生獲(いけどり)にした。又、北單于帳下を破り、併せて、その衆を得て、万余人、馬七千匹、牛羊万頭を合わせた。

北單于震怖卻地千里初帝造戰車可駕數牛上作樓櫓置於塞上以拒匈奴

北單于は震怖して、地を一千里(一里150m換算で約150辧紡犁僂靴拭初(以前)、帝は戦車を造り、数牛を駕(つける)することができ、上に楼櫓(やぐら)を作り、塞の上に置いて、匈奴を拒むを以てした。

時人見者或相謂曰讖言漢九世當卻北狄地千里豈謂此邪及是果拓地焉

時に、人の見た者は、或いは互いに謂った、曰く、「讖(予言)して言う、漢は九世(武帝の後の九世の後漢光武帝)で、当に北狄の地を千里(一里150m換算で約150辧紡犁僂気擦襪世蹐Α△函l院覆△法法∈,譴魄發Δ里世蹐Δ?」と。是に及んで、果たして地を拓(おしひろげる)したのである。

北部薁鞬骨都侯與右骨都侯率眾三萬餘人來歸南單于南單于復遣使詣闕奉藩稱臣獻國珍寶求使者監護遣侍子修舊約

北部薁鞬骨都侯は右骨都侯と衆三万余人を率いて、南單于に来帰した。南單于は復(また)、使者を遣わして闕に詣でさせ、藩を奉り臣を称した。国の珍宝を献じ、使者の監護を求め、侍子を遣わし、旧約を修めた。

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