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「へうげもの」にだだはまり、映画の向うを見て、日ごろの時事にもろもろ感想を言う生活

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 結局、「日本書紀」には推古天皇&聖徳太子が「唐」と交流を持ったということが書いてあるのである。これは驚天動地の結論だ。
 なんで?
 しかしその確かな証拠は「大唐皇帝からの国書」の本文中にある次の一節にある。

 「朕、宝命を欽承し、区宇に臨御す」
 もすもす?この朕てもすかして唐の皇帝?
 「宝命」は天命のことであり、「宝命欽承」とは「天命を直接承った」という意味であるが、
 もすもす〜〜〜〜〜〜?誰が天命を授かったって〜〜??
これはある王朝の初代皇帝しか使えないフレーズなのである。
 初代「皇帝」って言っている時点でもうアウトだろうが。
 天命は「皇帝」にはくだらないんだよ。
 いくら待ってもな。
二代目以降は「纂(つ)ぎて宝業をなし」とか「宝暦を粛膺し」とかいった言い方で「前代から受け継いだ」という意味合いが表されるはずなのである。
 受け継ぐも何も「天命」はくだっておらんがな。誰が言ったんだ、朕か。
 今の2つの例は、まさにここで問題になっている隋の第2代皇帝・煬帝のものである。
 「第二代皇帝」なんて地位も隋が勝手に作ったものだろうが。
 だから日本は隋を相手にしなかったんだろうな。 
 これを見ても「隋代と唐代に裴世清が二度やってきた」と推論している基盤は「そこで仮に十二支1巡分「日本書紀」の年代を繰り下げてみる。」であって、これでは「推論のための推論」であって「根拠(データ)」とは言えません。
   スサノオ系を抹消するために日本書記は改組されたというのを読んだ事はあるが。
 あの文書を送ったことを取り合う為に、日本書記が改組されたって考えるのは無理がないかえ??
 「宝命」は天命のことであり、「宝命欽承」とは「天命を直接承った」という意味であるが、これはある王朝の初代皇帝しか使えないフレーズなのである。
 二代目以降は「纂(つ)ぎて宝業をなし」とか「宝暦を粛膺し」とかいった言い方で「前代から受け継いだ」という意味合いが表されるはずなのである。
 今の2つの例は、まさにここで問題になっている隋の第2代皇帝・煬帝のものである。
 さて、そうなると「日本書紀」の年代に誤りがある、ということになる。

 原史料に誤りがあるなどということは軽々には言えないことではあるが、「日本書紀」の記述自体に、「大唐」の連発、「宝命」問題といった矛盾があるため、やはりそのように結論づけざるを得ない。
 
 そこで仮に十二支1巡分「日本書紀」の年代を繰り下げてみる。
 っぶ。
 すると西暦608年(=推古16年)の裴世清の大和朝廷訪問が、620年、すなわち唐の成立から3年目、聖徳太子の死の2年前のことになるわけである。
 こんな仮説が許されるのか。
 隋(ずい、英Sui Dynasty、581年 - 618年[1])は、中国の王朝。
 唐が618年にできたとして日本書記には遣隋使は607て書いてるんでしょうに。
 繰り下げで620にしたらハイセイセイが二回来たってことになるの?ほんまかいな。
 読めば読むほど意味がわからんな。
 原文がチャンと読めて為になるが。
 九月・・・則ち復た小野妹子を大使となし・・・唐客に副して之を遣わす。爰に天皇、唐帝を聘う。

 その辞に曰く「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。
 日本書記原文だそうだが。
 この文て…もうしゃ〜〜〜ないな、支那が「皇帝」「皇帝」言うから「皇帝」というのは、認めたげるは。しかし「天皇」とは言わせまへんで…、って言うオーラが感じ取れるのは私だけか?
使人鴻臚寺掌客裴世清等至りて、久しき憶い、まさに解けぬ。・・・」と。
 憂いが解けましたってか?
 また「鴻臚寺掌客」という呼び方は「外国使節謁見の儀礼を受け持つ役所の応客官(外交官)」といった意味で、厳密な上下関係を明文化したものではありません。
「鴻臚寺掌客(=隋の煬帝期では正九品下、唐では正九品上)」といっても「厳密性」はほとんどなく「位として明確化する」必要がある場合は「鴻臚寺掌客」などは用いず「正九品上」等の方を用います。(隋の煬帝期に「鴻臚寺掌客=正九品下」なら、「正九品上」の名称は何ですか?)
 隋事態がすぐ滅んでますもんね。581〜618です。
 さらにそれは「隋や唐の記録」にあるものではなく「日本書紀」の記述であって、なおのこと「鴻臚寺掌客」は単に「外交官」といった意味でしかありません。
 そしてこれはすでにお分かりのように「隋の煬帝期に鴻臚寺掌客という呼び方があった」というデータでもあります。
 ただの「お客さん」という意味でしょう(ニベモナイ・爆)。どうしたら品格の違いだなどと読み取れるのか。
>なぜ推古紀には「唐、大唐」と記されているのか

 「唐国公」の爵位を与えられていた太原留守(総督)の「李淵」は、隋末期に各地の司令官が反乱するようになると、大興城(長安)を掌握し、隋の煬帝を太上皇帝(前皇帝)にまつりあげてその孫「恭帝侑」を「隋の正統」として立てました。
 またやってるで。
 隋も唐も同じだと支那が言うからオモンパカて大唐といってやったまでじゃろうが。
 いつもと同じじゃ。
 今でも中華って言ってやってるだろうが。
 今度はどんな名をつけるんだよ。
 漢も夏もつかったら次は何?
 そして煬帝が死ぬと恭帝に帝位を禅譲させ「隋の政権を継いで長安に唐王朝を建国」し各地を平定しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
 つまり、建前上は「唐」は「隋」を正統に「引き継いだ」王朝ということです。
 ぐぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「建前」。
そして「日本書喬  
 切れてる。
 それよりおいおい隋。
 琉球を侵略したな。
 明年(608)、帝(=煬帝)、復た、寛(=朱寛)をして之(=流求国)を慰撫せしむ。流求従わず。寛、その布甲を取りて還る。時にタイ国の使、来朝す。之(=布甲)を見て曰く、「此れ、夷邪久国人の用うる所なり」と。

 隋が流求国を侵略したのは、ちょうど隋とタイ国と交流していた時で、タイ国使が、隋が流求国から持ってきた戦利品を見て「夷邪久国(=屋久島か?)で使っているものだ」と言ったのを記録しているのである。この時タイ国使は、隋が流求国を侵略したことも知らされたことであろう。それがまたタイ国も隋と国交断絶することになった伏線となっていたのではないか。だとすれば、これは実に生々しい史料である。
 608に隋が琉球を侵略ってことはだよ、620に「日出処の天子」とかいって日本が支那の冊封を突破しても相当遅いんだよね。 
 とっくに侵略されていたかもね。
 

 だから607か608に隋に「日出処の天子」文は届かなきゃ遅いんだよ。

 

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旧日本軍が中国や朝鮮におこなった仕打ちを考えれば、日本人は何も言えないような気がする。

2009/8/11(火) 午前 7:13 [ nanking_atrocities ]


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