>西都原古墳群は3世紀半ばから7世紀前半にかけて築造されたものですよ。 西都原古墳群に行って調べてきましたしそのあたりのことは詳しく知っています。ここは本当に行って見たいんだが、凄く行きにくいところにあったんだよね〜。高千穂旅行とセットにできなかった。 「神武が天皇になる前に前方後円墳があった」と言っているわけではありませんし、私も「西都原古墳群の前方後円墳」をニニギの墓などとは考えていません。 (ただ「卑弥呼の墓?」と今話題の「箸墓古墳」の原型ではないかとされる「同時代で全く同型で半分の大きさの生目古墳」もこのあたりにありますし、神武が船出したのは「都濃」の目の前の「美々津」ですし、ここの近所には「さざれ石でできた海岸」が広がっています。) 生目古墳神武天皇は日巫女さまのお孫様とどこかで読んだが。 日巫女さまのお墓が西都なんだろうね〜、n_o_i_s_e_m_a_n 氏の受け売りだったが。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm 「ニニギの伝承」は「都濃」や「耳かつて日向国(ひむかのくに)と呼ばれた南九州は、記紀によれば皇祖発祥の地である。
これらを批判したところで真実が見えてくるはずが無い。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は日向の高千穂峰に降臨、そのひ孫が神武天皇である。 こうした神話や伝説にもっともらしさを与えているのが、宮崎平野や志布志湾沿岸に分布する九州最大、全国でも有数の古墳群だ。 戦後の記紀批判と考古学の成果によって、天孫降臨や神武東征は否定され、
ヴぁ〜〜〜〜か。 これら古墳の被葬者も5世紀にヤマト政権に服属した地方首長とされてきた。
未発掘?やる気無いのね〜。ところが近年の考古学の成果は、こうした定説にも見直しを迫っている。 というのは南九州の前方後円墳の出現が、畿内とほぼ同じ3世紀後半にさかのぼることがわかってきたからだ。 古墳の年代は周溝などから出土した土器や円筒埴輪(はにわ)の形式によって推定されるが、未発掘の古墳がほとんどで、 発掘されていても遺物が少ない南九州では、こうした手法が採用できない。
同じ文化圏か。このため柳沢一男・宮崎大教授(考古学)は古墳の墳形に注目した。 「その結果、奈良県大和盆地東南部に分布する前期古墳をそのまま縮小したと思われる相似形の古墳が存在することがわかってきたのです」 箸墓古墳の2分の1規格である生目古墳群1号墳(宮崎市で、本社機から) 例えば宮崎市の生目(いきめ)古墳群1号墳(墳長130メートル)は箸墓(はしはか)古墳(墳長280メートル)の2分の1、鹿児島県高山町の塚崎古墳群10号墳(墳長40メートル)は行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵、墳長240メートル)の6分の1の平面規格という。
崇神天皇陵もあるの?もそうやって否定していた訳??前方部と後円部の長さの比や、古墳中央部のくびれ具合までぴったり相似することを偶然と見なすわけにはいくまい。 「これらは畿内の大型古墳の規格に従ったもので、築造時期はモデルの古墳とほぼ同時期と考えられる。定型化した最古の前方後円墳とされる箸墓や、これより古いとされる纒向(まきむく)型古墳と同タイプのものもあり、古墳の出現は畿内とほぼ同時期といえる」
ほほ〜〜〜〜〜。九州王朝派が息巻く訳だ。 前方後円墳という共通のシンボルを持つヤマト政権は、畿内勢力が武力で他を従えたというより、初期の古墳が分布する畿内、吉備、讃岐、豊前などの各勢力がヤマトの大王を盟主に抱いた連合政権と考えられている。
n_o_i_s_e_m_a_n 氏と同じです。これが今の趨勢でしょう。九州王朝が突出しているって言うのは無理だよ。スサノオ系もやっぱ統合されたんだ。 南九州に初期の古墳が存在する事実は、ヤマト政権成立当初から、日向がその構成員であったことを物語っている。
規格が同じ古墳だなんて、そうですよね。 こうした勢力は古墳時代に突如出現したわけではなく弥生時代にその萌芽(ほうが)を見いだすことができる。
僻遠の地?九州が弥生文化から遠い訳ないだろうが。南九州はこれまで弥生文化の僻遠(へきえん)の地とみられていたが、近年の発掘で宮崎市の檍(あおき)遺跡、下郷遺跡など、北部九州や畿内同様に環濠(かんごう)集0619落が存在することが明らかになってきた。 なんか戦後ぶ左翼に九州は恨みでも買ってたのか?天孫降臨の地だから? 柳沢さんは日向のヤマト政権参画の目的を「朝鮮半島からの安定した鉄資源の確保にあった」とみる。
これがスサノオ系の鉄なんだな。 農具や武器の素材として欠かせない鉄が国産となるのは5世紀末以降でそれまでは朝鮮半島南部(弁辰)からの輸入に頼っていた。
ここがスサノオ系だと思う。「弥生時代まで半島との交渉を握っていた北部九州勢力 に頼らず鉄資源を入手するため、瀬戸内海沿岸と日向の勢力が構築した首長ネットワークこそがヤマト政権ではないか」
な〜〜〜〜〜ほど。 日向で当初最も有力だったと考えられるのが生目古墳群を造営した勢力だ。 ここでは前述の1号墳を始め、日向の古墳群の中では突出した墳長120―140メートル級の前方後円墳3基が4世紀末まで継続して営まれた。
これがね〜〜〜〜。なんすかね。ところが5世紀になると同古墳群の古墳は小型化し、代わって西都市の西都原古墳群に2基の巨大古墳が出現する。 日巫女さまの古墳と思われるといわれていたが。 「ニニギの伝承」は「都濃」や「耳川」などの宮崎北部に集中していますし、ニニギの日向は、すでに北九州ではなく「宮崎北部の日向」に移ったと考えています。 ニニギの墓として比定されているのは宮崎北部の「宮崎県北延岡市北川町にある可愛岳(えのたけ・かわいだけ)の東麓に経塚と呼ばれる古墳」と「天下(あもり)神社の南方古墳群」です。http://www.0503ak1025.net/minami.html 『日向の風土記に曰く、臼杵の郡の内、智鋪(高千穂)の里。
ホオリとはこの花咲くや姫のお子様ではないか?しかし「祝」とは。天津彦火瓊瓊杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて威稜の道別きに道別きて、日向の高千穂の二上山の峰に天降りましき。』 延岡市の市街地の西の方に、五ヶ瀬川が大瀬川と分かれるところがあり、その付近の地域を天下(アモリ)という。 この地域をなぜ天下(テンカ、ではなくて、アモリ)と呼ぶようになったのか、などとぼんやりとは考えたことはあるが、祝子(ホオリ)川の名前の由来と同じ ホ〜〜〜〜リ〜〜〜ナイトと被るではないか。 ように、ある日突然に謎が解ける。
訓読み(間違い音読み)は所詮支那からきたものだ。日向の風土記にせよ古事記にせよ、ニニギノミコトの天孫降臨は「アマクダリ(天降り)」、つまり文字を変えれば天下(アマクダリ)となる。 戦国時代のこの地方の武将が天下盗りを企てた故事によるものではなくて、天下りの伝承がそのまま地名となって、音はアマクダリからアモリとなったようだ。 公務員どもに「天下り」って、つかうのやめませんかね。 『生ごみだし』って言えば? あいつらが「天」とかかわりがある解釈事態が、おかしいんだよ。 たかが木っ端役人の「再就職」に使うな。 仰々しい。 反天の癖に「天皇の威」をかる狐どもが。 >天孫降臨のあとニニギは筑紫に居座ったのですから、その墓も当然福岡県の範囲内にあって当然ですね (宮崎北部の)「ニニギ」と「北九州」の接点は「コノハナサクヤヒメ(とイワナガヒメ)」ぐらいなものです。 「倭国=北九州地域(および朝鮮半島南岸)のみ」だったのは、そのはるか昔の「後漢」代の話であって、「ニニギの時代」には「筑紫島」すなわち「九州全域(のうちの支配地域)」を指していたでしょう。 「筑紫城」も「九州を統治する居城」のことであって、「もとは北九州」でしょうが、後期には「違う場所」だったでしょう。 (例えば日向には「大王谷」があります。行ってみると海のそばで、前に「河」後ろに「日知屋の丘」をひかえる高台にある「2つの球場(グランド)を含む広い公園」で、「不自然に切り立った丘の上」には高級住宅街が広がり高級住宅街は遺跡のあるところが多い。 「ここに大王(おおきみ)の居城があってもおかしくない」と思いました。http://townpage.goo.ne.jp/SearchMap.php?matomeid=KN4500060700073415&mapkind=1&latitude=116786707&longitude=473898927&mapscale=10&map.x=316&map.y=195 ) オオキミ谷って王の谷みたいでやっぱよさそうな地形ですね〜〜。 >天照大神の本家本元は対馬に現存する阿麻テ留(あまてる)神社 「倭国=北九州地域(および朝鮮半島南岸)のみ」の時代には「対馬、壱岐が重要な拠点であった」のは疑いようがありません。だから半島人はいまだに対馬を思うと涙が出るなどとわけのわからん事をいっているのだな〜。 後付けの知識だと思うがな。 支那に冊封されるまえの記憶がどこかにあるんだろ。 つうか当時の末裔が生きているとも思えんが。 支那同様、朝鮮民族なんてものは入れ替わってんだろうね〜。 おまいらの先祖は倭人だったって言ったらまた火病起こしますかね。 |
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旧日本軍が中国や朝鮮におこなった仕打ちを考えれば、日本人は何も言えないような気がする。
2009/8/3(月) 午前 7:04 [ nanking_atrocities ]