>ただ「天皇」の名称を採用した聖徳太子以降の政治家は、中国皇帝をイメージしたとは思いますが。 問題はその「政治家」が、「摂政たる聖徳太子の立場」か「推古天皇の立場」かで全然違ってくるということで、 聖徳太子にせよ中大兄皇子にせよあくまで「朝廷の長」であって、「天皇」ではなかったということです。 こんな「チャイナの皇帝」とは誰のことでしょう?こんな控えめな皇帝、支那におらんぜ。 >天智天皇は、皇太子時代も天皇時代も、同様に強権を振るっていますが。白村江で負けておられますが?? 天智天皇は668年に即位後4年で崩御しており、左大臣蘇我赤兄ら「四天王」がおり、「庚午年籍」等の「国家強化策」も元々即位する前から準備されてきたものですし、大友皇子(弘文天皇)も天智天皇の太政大臣となり政務を行っています。 そもそも「白村江の戦後の非常体制」であり、そうっす、そうっす。 その張本人である中大兄皇子(天武天皇)が「けりをつける(親政する)のが当たり前」の緊急事態です。白村江の前、か後に、琉球は支那に滅ぼされているのだよ。 琉球の苦悩はここに始まったといっていい。 社民党ごときになにができるんじゃい。 私は沖縄の味方です面は、きもいんじゃ。 しかし「与党」でいながら結局「何も、何も出来なかった」。 社民党のレゾンデートル、ここに潰ツイえたりだな〜〜〜。 あの『どや顔』連中、意味解ってンのかね〜〜〜。 おおっぴらに記者会見しちゃって。 よう辞めた、それでこそ社民党だ!!ってまた、うつけが票入れるんかね。 度し難い連中だな。 救いがたいよ。 そんなうつけが300万人居るなんてナ。 中大兄皇子ナカノオオエノオウジは結局弟君(天武天皇)に託された形になりましたが。 >そうでしょうか?孝徳天皇は難波長柄豊碕宮に都を作っていましたが、中大兄皇子は都を主張し、ついに孝徳天皇を無視して飛鳥に遷都しましたが なるほど確かに。難波は危なすぎるんじゃないの? 海のま〜〜はただし。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
「孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。」お気の毒ですね。 しかし非常事態です。 琉球は既に唐(だったか?)に滅ぼされていたか滅ぼされる寸前だったんだよ。 公式には「その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世のいうところの大化改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。」とあるように、「難波長柄豊碕宮が都」であり「実質的には倭京」ということでしょう。ふむ。 ちなみにこの出来事は、五帝代から夏代に到る「禅譲」の逸話にそっくりですね。 (「作り話」というのではなく「それを実際にやった」ということでしょうが)禅譲?? 譲るっていういみすかね。 ねむ〜〜〜。 寝るは。 久々勉学するとねむいぞよ。 |
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