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[ 劇団ふたり ]
2018/12/16(日) 午後 8:08
[ 平和防災愛国 ]
2018/3/25(日) 午前 9:37
南京戦でも城門へ逃げ込もうとしたりする兵は督戦隊に撃ち殺されました。
陥落時には下関に近い門に城内から兵士が逃げようと殺到し、督戦隊に撃たれまくりました。ニューヨークタイムズのダーディン記者は「死体の高さは6フィートの小山を築いた」と書いています。(彼は日本軍の仕業と書いたが実はシナの督戦隊のしわざで後にそう書いている) 6フィートといえば、えーと、約2メートルです。死体の上を乗り越えようとして督戦隊に撃たれて、死体となって積もって、更に乗り越えようとするものが来て撃たれて・・・という感じでしょうか。督戦隊に阻まれて逃げられないので、ロープを使って城壁をよじ登ったり、便衣になって隠れたりしたのでした。
参考文献
「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二著
「『南京事件』国民党極秘文書から読み解く」東中野修道著
今日のn_o_i_s_e_m_a_n 氏【「三権分立」が立法・司法・行政をそれぞれ独立させるという画期的な素晴らしい方法であるように、「権威と権力の分離」は画期的で、日本ではそれが千六百年(そろらく】
日本
[ 奄美は人も自然も食物も良かった ]
2017/8/6(日) 午前 9:37
貝輪は縄文時代からあり、サルボウなど大型二枚貝に穴を開けたものが広く見つかっている。弥生時代になると、九州北部などで巻貝類のカサガイやオオツタノハなどに穴を開けたものや、イモガイ、ゴホウラ、スイジガイなどを切って作った貝輪が盛行し、当時の支配階級を表すものであったと見られる。
これらの貝の多くは奄美群島以南に産するもので、沖縄諸島などではこれらを大量に加工したとみられる遺跡も見つかっており、九州との間で盛んに取引されたと見られる。
山口県の土井ケ浜人類学ミュージアムや、種子島・薩摩半島・対馬における歴史民俗資料館などで多数保管展示されている。
例外的に北海道でも有珠モシリ遺跡(続縄文時代)でイモガイ製腕輪が見つかっている。
[ カンカンおじさん ]
2017/4/15(土) 午後 0:35
2017/3/11(土) 午前 9:17
2017/2/26(日) 午前 9:42
上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、1937年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。
それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。
便衣兵(ゲリラ)の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵達(督戦隊が撃ち殺したのは、逃亡中国兵であった。)であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布されたのである。
そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。
『本当の日本の歴史 理論近現代史学』より引用
2017/2/25(土) 午後 11:29
中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張しているが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。
しかも国民党中央宣伝部に雇われていた二人を除いて、欧米人など第三国の人が虐殺を目撃した日記も手紙も写真も、記録したものが一つもないことなど、更には、上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていないことなどから、いわゆる南京虐殺事件が中国側のでっちあげであり、存在しなかったことは明らかである。
そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。
2017/2/25(土) 午後 6:31
4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。
もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。
(所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。
それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか?
東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。
apa
[ yaj*lus**_8103 ]
2017/2/1(水) 午後 6:53
[ maguro ]
2016/8/21(日) 午後 6:33


