|
いつのまにか村上春樹ファンになっていた私は, 最近彼のエッセイ集にまで手を出し始めている. そのひとつが 「雨天炎天ーギリシャ・トルコ辺境紀行ー」村上春樹,新潮文庫 である. 村上春樹のエッセイは, 小説とは異なり,かなり内容・文体がカジュアルで, それはそれで大変楽しいものなのだけれど, 紀行文こそ,彼の人柄が実によく表れるのではないかと, 今回この本を読んで思った. 紀行文といいながら,あまり旅行ガイドの役には立たない. なぜならば,あくまでも個人的な,彼の主観によって 旅の道中が書かれているものだからである. それも,全然観光といった風ではなく,困難苦難の道のりである. 少なくとも私は,彼と同じ道を歩もうなどとは考えない. それほどにひどい旅の話である. 彼はなぜギリシャ正教に興味を持ったのだろう? 本を読んだことが直接のきっかけということになっているのだけれど, なぜ彼の心のなにかにそれが響いたのか. その理由にも興味が尽きないのだけれど, そうした高邁な興味はどこに行ったのやら, 彼の文章は,悪天候にたたられた話や, 修道院で出される食事,そしておかしな性格の隠遁者の話ばかりである. それらについて彼は,決して高尚なことを語らず, 一人の旅行者としての素直な感想となっている それらに触れた彼の正直な心情の告白に 私たちは共感する. ただ,この文章を読むと うっかり彼と同じ旅をしてみたくなる. これはいけない. 彼の文章はそれほどまでに素晴らしいのだけれど, そこにだまされてはいけない. 実はこの6月に仕事でギリシャに行くことになっている. 結局のところ,この紀行文は具体的なガイドとしては 全く役に立たなそうである. しかし,彼が示してくれた旅の楽しみ方は, 次の私の旅に大いに役立ちそうである. この本の後半は彼のトルコ紀行である.
これもまたすごい旅である. それを読んでやっぱりトルコへの旅は 遠慮したいものだと思ったのである. |
いろいろな評2008
[ リスト | 詳細 ]
|
ようやく生活が収束しつつある. なんとか普通に休日も過ごせるようになってきた. とにかく忙しかった. 職場で半分仕事としているブログは ウィークデーの更新で,なんとか続けているのだけれど, この個人的なブログはとうとう1ヶ月以上, 更新がなかった. 毎日書くということの難しさを感じる. このブログはもともとは私が日々感じたこと, 考えたことを記録に残しておくために始めたのである. この多忙な日々にいくつもの考えが浮かび, そして消え去っていってしまった. もうそれらは取り返すことができない. せめて,これまで多忙の中にも すきま時間を利用して なんとか読んだ本についての記録だけは 時間をとりもどすように, 考えをとりもどすように, 残しておこうと思う. 今回は 「文章のみがき方」辰濃和男,岩波新書 について. これは,元「天声人語」の筆者が, 文章力をつけるヒントを, 文筆家の具体的な例を挙げながら解説していくというもの. 筆者には「文章の書き方」という著作もあるらしい. こうした文章の書き方については, ビジネスにおいては必要だと思うけれど, 一般的なエッセイや小説などにおいては, そのマニュアル化は必要ないのではないかと思う. それでも,こうした本が気になるのは, 自分の文章の稚拙さを痛感しているからである. この本には,確かにいろいろなヒントがある. 私も気をつけてみようと思うことが多々あった. しかし,最も印象に残ったのは,第1章に紹介されていた よしもとばななの文章である. 「旅行に行って10日くらい書かないことはありますけど, そうすると10日分へたになったなと思います. ピアノと一緒なんでしょうね. 書くというベーシックな練習は毎日しないといけません」 よしもとばななにして,この厳しさである. まるで体育会系のトレーニングと一緒のことを言っている. 例えば,私で言うならばしばらく剣を持たないと やはりその微妙な感覚が薄れてしまう. イチローは他人のバットを握らないのだそうである. それを握ることによって感覚がずれるのを怖れているのだとか. しかし,それくらい一度得たと思った感覚は失われやすい. それは理解できる. しかし,それが文章の書き方にもあるとは, 初めてそんなことに思いが至った. やはりプロのレベルまでくるとそうなのだろうか. 私にそうしたレベルは必要ないけれど, 毎日書くということの大切さを改めて感じさせてくれた. この本には,こうした文章を書くことに関しての ヒントが数多く紹介されている. しかし,そうした文章の磨き方よりも, 紹介された文筆家たちの文章を読むことによって, この人の文章をもっと読んでみたいと思わせる, いろいろな作家への良きガイドとなっている. 少なくとも私は,今度読んでみたいと思った作家が10人以上あった. 素敵な文章に触れることの贅沢.
どれだけ多くのそうした美しい文章に触れるかということが, 自分の文章に対する審美眼に大きく資することは間違いないのだろう. |
|
どうも村上春樹と柴田元幸という組合せが 気になってしまう. なので,また二人の著書を読んでしまった. 「翻訳夜話」村上春樹,柴田元幸 (文春新書) これは小説ではなくて,翻訳について, 第三者を交えた対談をまとめたものである. 第三者というのは個人ではない. 対談は3回のセッションに分かれていて, それぞれが異なる集団である. ひとつは大学生のグループ, ふたつめは翻訳学校の生徒, そして最後は柴田氏が信頼するという 若手翻訳者たちのグループである. そのほかに,「海彦山彦」と題して, 二つの英文作品をふたりがそれぞれ訳して, 比較をするという試みがされている. ひとつは村上氏がほとんど全訳をしている レイモンド・カーヴァーの「収集」で, もうひとつは柴田氏の得意な ポール・オースターの 「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」である. まずこの翻訳比べが面白い. この本の最後には原文が紹介されているのだが, 確かにニュアンスの違いが感じられる. 第3部の若手翻訳者たちとのフォーラムの中でも 語られるのであるが,作品に対する作者の思い入れが 確かに翻訳に現れるところが興味深い. 村上氏も柴田氏も,作品を好きになること, 共感がもっとも大切だといっているけれど(当然といえば当然だけど), それがなければ翻訳された文章に力がなくなってしまうに違いない. 村上氏は,ポール・オースターの作品は好きだけれども, 翻訳しようとは思わないとはっきり述べている. 志向するところが違うのだという. またポール・オースターの文章からは学ぶものが 無いのだとも言っている. もちろん修辞学上の話ではなくて, 作品の主題の話なのだろうと思う. では,彼が学ぶべきものがあるという カーヴァーや,最近訳している古典, フィッツジェラルドやカポーティの作品や, さらには,"The Catcher in the Rye"や "The Long Goodbye"などは何が違うのか. また,彼の翻訳を読んでみたくなってしまった. (こうしてスパイラルに落ち込んでいく) また,村上氏,柴田氏の話を読んでみると 翻訳というのは余程好きでなければ務まらないのだ,ということは 良くわかった. 確かにお金になる仕事ではないだろうとは容易に想像がつく. しかし,なぜ翻訳が好きなのかという話には, 共感することができた. テキストがあり,それを翻訳していく. その作業は,自分で小説を書くこととは異なる. 私は,その作業は理工学的にいえば, 「最適化」というものに近いのではないかと思った. 「最適化」というのは,ある条件の下, 評価関数といわれるものを設定し, それを最大化,あるいは最小化する解を求めるものである. つまり翻訳で言えば,ある条件というのはテキストにあたる. これは絶対的な条件である. しかし,その文意を変えなければいろいろな解が存在する. どの日本語を使うかという自由度があるように. そして評価関数を設定する. これが一番の問題で,翻訳者によって それぞれの思考がそこに反映される. 「この作品はこうした雰囲気だから,こう訳すべきだ」 「ここにはこの表現がぴったりくる」 といった類の考えが,この評価関数にあたる. 実際の解析においても,評価関数の重みを どのように与えるかによって, 異なる解が導かれる. どうように同じテキストを訳しても, ことなる文章が生まれる. 翻訳と最適化は似ているのである. 私個人においても最適化を行うという作業は嫌いではない. ある条件の中で最適化を行うことは, 自分の工夫を反映しやすく,「凝る」ことができる. やりがいを感じる. 村上氏が翻訳が好きな理由とは異なるかもしれないが,
この本を読んで私はこうした考えに至った. だからというわけではないけれど, 今度英語のパワーエレクトロニクスのテキストを 訳してみようかなどと思った. 良い勉強になるだろうし. |
|
先々週の金曜日は,大雪の福井に出張してきた. 少し時間があったので, 福井市美術館で開かれていた 横尾忠則展を観に出かけたのだった. (今日, 美術館から案内が届いていて, それを思い出した) 美術館は郊外にある. 駅前から無料バスが出ていて. 30分かけて美術館へ向かい, 20分だけ作品を観て, 30分かけて駅へ戻るという行程だった. ちょっぴりせわしない. しかし,雪の福井の町を車窓から眺めながら, 心はずいぶん落ち着くことができた. また湿った雪道の匂いは,私の故郷を思い出させてくれた. 雪は,人の心もクールダウンしてくれるらしい. 横尾忠則の作品は,2階の市民ギャラリーにあった. 作品は20個も無い. 小さな展覧会である. しかし,平日の昼間というのに 私の他に鑑賞者が二人も居て,正直驚いた. 作品数は少なかったけれど, 逆にそれが幸いして,各作品に集中することができた. 作品は,彼が一時期発表したピンクガールシリーズや, Y字路シリーズなどである. 私はこのY字路シリーズが好きである. なぜ人は分かれ道に心惹かれるのだろうか. 夜の街灯に照らし出されたY字路. 商店の看板の上に影が落ちている. 路の行く手は暗くて見えない. あるいは夏の強い陽射しに照らされた住宅街のY字路. 木の葉陰が路の上に色濃く描かれている. 白い夏の光,住宅の赤い屋根,木々の緑との陰のコントラスト. そのひとつひとつが何か意味を持っているように感じてしまう. こうして季節や天候によって印象は変わるけれど, それらはただY字路をもつ街角に過ぎない. しかし,それだけの風景なのに, 私たちは何かを掴み取り,じっと絵を見つめてしまう. その何かは,これらの絵が鏡のように映し出す私たち自身の深層なのだ. そうした力がこの作品群にはある. その他にも,商業ポスターの作品などもあった. こうしたポスターに描かれた図柄・字面は なにか心にひっかかるものばかりである. 配色も蛍光色で,はっきりいってしまえば気持ち悪い色遣いなのである. それでも私は目を離すことができなくなる. 生理的に拒否するものであるはずなのに, その一方で無意識はなにかを感じ, 意識がそちらに向いてしまう. そんな不可抗力の魅力が彼の作品にはある. この生理的に拒否してしまう気持ち悪さこそが 彼の作品の魅力なのだろうと思う. その気持ち悪さは,私たちの心の暗部に起因している. 日常生活の中で無意識に目をそらしている部分, それを彼の作品は暴き出しているように思う. それを強制的に目の前に差し出す, それこそが彼の作品の目的ではないだろうか. ポップなアートではあるけれども,
グロテスクで,エロティックで 暴力的に私たちの心に引っ掻き傷をつける. この引っ掻き傷から注入される彼の作品の毒は 確実に私を中毒者へと変貌させてしまっている. |
|
私の職場には,工学専門書を中心とした書籍部があるのだけど, もちろん雑誌や新書,文学書も売っている. そこで私はよく本を買う. 私は一週間に何度かは本屋に行き, めぼしい本はないかと物色する. そして通う本屋は4〜5軒あり, そのひとつがその職場の書籍部なのである. 先週の木曜日もふらふらと書籍部に入った. いくつかの雑誌をパラパラとめくったけれども, その日は買おうと思うほどの本も無く, 書籍部をあとにしようとレジの前を通ったら, レジのおばさんが私に,指で,ある文庫本を指して 在りかを教えてくれていた.それが, 「死神の精度」伊坂幸太郎 (文春文庫) だった. 以前,他の本屋にはすでにこの本が並んでいたのに, この書籍部にはまだ並んでいなかったので, ちらりと「まだですか」と尋ねたのを おばさんは覚えていてくれたのだ. (まぁ,私は毎週のようにいろんなタイプの本を 買い続けているんだから,顔も覚えられて当然か...) 仕方がないので(というわけでもないけど),この一冊を購入する. しばらくは読まないかなと思っていたけれど, 東京への出張帰りの新幹線の中で読んでしまった. 新幹線の中ではPCを開いて仕事をすることも多いのだけれど, さすがにその日は疲れてしまっていて, ディスプレイをもはや見つめる元気もなかったので, ついつい読んでしまったのだ(ちゃっかりこの本は持っていた). と,前置きは終わりにして,本の話を. 文章のリズムが実は最初あまり気に入らなかった. しかし,読みすすめるうちに慣れてきたというか, すんなりと読み進めることができるようになった. 自然,物語にも集中できるようになる. この本は6つの短編から構成されているのだけれど, それぞれがよく練られたプロットでできているなぁ, というのがまずは第一の感想. ネタばれになるから詳細は書かないけれど, 死神が各短編ごとにある人間の最後の一週間を見取るという話である. (一週間の後に,生死の判断を行うのが,調査部に属する死神の仕事で, 手抜きをする死神もいる中で,彼は仕事はきちんとこなそうとする) 人とはちょっとずれた感覚の彼が, 人間にとって非常に重大な意味を持つ死について, 当人たちと語り合うことによって, 生きる意味ということがより明らかになってくる. そこにちょっとしたミステリー,あるいは謎解きの要素も加わって, すぐれたエンターテイメントとなっている. しかし,扱っているテーマが「死」であるために, やはりこちらはいろいろと考えてしまう. 人が死ぬ1週間前,本人はその死を予測できないとしたら, 何を考えているのだろう. もしかすると今考えていることが,そうかもしれない. 人間というのはあまりにも死に対して無防備である. いつそれが訪れてもおかしくはない. 小説の中の死にゆく人物たちは,それを教えてくれる. では,私は今,何をしているべきなのか. そんなことを考えてしまった, この小説はすでに映画化され,この3月に公開なのだという. 死神役は,金城武. こうした情報は罪である. 小説の中の死神のセリフは,私の頭の中では金城武の声で響いていた. 私は,金城武という俳優は非常に稀有な存在だと思っている. 台湾で育ったという経歴のためか, 彼の日本語はどこか薄い膜一枚向こうで話されている感じがする. だからセリフも心に直結しているようには思えないように聞こえる. そこが逆に私は気に入っているのだ. 一度日本語から離れて別の言葉で直し,改めて日本語を話しているような, そんな印象がある. この「死神の精度」という作品における「死神」は, まさに違和感を感じさせる彼にピッタリな役のような気がする. だからこそ,すぐに小説の中の死神は彼に同化してしまったのだ. 映画も観てみたい気がする.
|



