|
少し前,テレビでNHKで「トップランナー」を見た。 劇団主宰者であり,小説家でもある本谷有希子さんが出演していた。 インタビューが面白かった。 子供のころに凝っていたこと。 それは,クラスにブームを作ることだったそう。 クラスにリリアンなどを流行らす。 みんながそれに夢中になっているときに, これを流行らしたのは自分だと悦に入るというのである。 思わず吹き出した。 素晴らしい趣味だ。 俄然興味が湧いてきた。 その美しい容貌も素敵だが(今週のAERAの表紙も飾っている), とにかく話すことが面白い。 私が好きなOutstandingなタイプ。 彼女の劇団の立ち上げの話なども ひとりの女の子がどうやって成功への切符をつかんだのか, 少々反則技を使ったりしていて, こんな女性と知り合いだったら(。。。恋愛関係ではなく(笑)), どんなに楽しいだろう, いやどんなに振り回されるのだろう,などと思いながら見ていた。 彼女が書いた小説が映画化されるのだという。 「腑抜けども,悲しみの愛を見せろ」 (本谷有希子,講談社) 早速読んでみた。 当初,(あとがきにも高橋源一郎氏が書いていたが) 劇団の人が書く小説というのは, 劇をそのまま小説にしたものだろう,という先入観があった。 正直,あまり期待していなかった。 しかし,確かに場面の描写から入っていく手法などは 戯曲の脚本という感じはするが,それとは違い, ちゃんとした小説で読ませてくれた。 ところどころ,不自然な感じがあるのだけれど, それがゴツゴツとした手触りとなって, 逆に読み応えを感じる。 内容は,しみったれた田舎に両親の交通事故をきっかけに, 東京から女優志望の姉が帰ってくる。 この姉というのが「自分は特別だ」という自意識過剰な女性で, 妹と兄はいつも振り回されている。 だが妹も兄も,この姉には弱みを握られていて, 彼女に従わざるをえない。 そして,ある出来事が家族に変化を与えていく。。。 この変化によって,姉も妹も兄も本当に自分を直視しなければならなくなる。 そのことによって不幸になるかもしれないのだが, 彼らはそれを避けることができない。 登場人物たちは,一昔前だったらありえないような性格設定であっただろうけど, 現在では逆にリアリティを持って感じられる。 虚構の世界に虚構の登場人物。 けれどだからこそリアリティを感じることができることってある。 (オペラなんかもそんな感じなのかもと思う) とにかく印象に残ったのは,登場人物たちが ギラギラと輝いていること。 若さをもって絶望に向かって疾走していく。 後味が悪い結末なのだが,不快感があまりない。 むしろ疾走している爽快感が,その結末を必然のものと感じさせている。 この辺が著者の才能なのだろう。 (別作品で芥川賞候補にもなっているのをあとで知った) 物語の最後, 女優志望の姉が,自分が特別でないと認めたとき, 彼女はなにをしたのか。 ・・・彼女は全身全霊で世の中を呪うのである。 一番現実離れした登場人物の,
このありえそうにない結末に, 実は私は一番共感できた。 そうした自分の心の嫌な部分を ナイフで抉るような, そんな快感がこの小説にはある。 |
本の話
[ リスト | 詳細 ]
読書感想文的文章。
|
「李陵・山月記」(中島敦,新潮文庫)を読む。 以前,私が前の職場の同僚に「日本の弓術」(オイゲン・ヘリゲル,岩波文庫)に出てくる 弓道の師範の超絶的な技を紹介したところ, それは中島敦の小説の「名人伝」のような話だ,と言っていたのが ずっと気になっていたのだ。 「名人伝」もそれはそれで面白かったけれど, この本に収められた小説はすべて素晴らしく, 私の愛読書のひとつとなった。 中島敦というのは,漢文的な小説を書く。 その短く力強い文体の美しさは,本当に素晴らしい。 ワープロが無かった時代にこの簡潔さを持って小説を書いていたのだから, この人の才能には舌を巻く。 どれも素晴らしい小説なのだけれど, もっとも心に残ったのは,「弟子」という 孔子とその弟子の子路との関係に焦点をあてた作品であった。 ここに描かれた子路というのは,本当に単純な一本気の男で, 同じ弟子の顔回や子貢に比べれば,比べ物にならないくらい学問に劣っている。 しかし師を思う心は愚直にして暖かく,誰よりも孔子の身を案じている。 ただその心だけで修行を続け,衛の国に仕えた際には, ついには孔子をして「善い哉,由(子路)や」と 感嘆させるほどの善政を行う大夫となる。 だが衛の政争に巻き込まれ,殺されてしまうのだ。 しかし,殺される際にも冠をなおして, 「君子は冠を正しうして死ぬものだ」と 孔子の弟子であることに誇りをもって死んでいく。 政変の知らせを聞いて孔子は即座に, 「柴(子羔)や,それ帰らん。由や死なん」といった。 同じ衛に仕えていた別の弟子 子羔は帰るだろうが, 子路は,その性格からして死ぬだろう,と予言したのだ。 果たしてその言葉通りとなったとき, 「老聖人は佇立瞑目すること暫し,やがて潸然として涙下った」 と中島はその孔子の哀しみを描いている。 この箇所を読んだとき,こちらの胸も熱くなった。 それまでに孔子が子路の性格をどれだけ愛していたかを 丹念に描いてきただけに,このくだりにはぐっときた。 涙が出そうになるくらいに。 なぜここまで感動するのか,その理由を考えた。 結局自分を子路に投影しているということに気づいた。 先日の富山の学会,そして名古屋の国際学会でも 私の恩師にお会いして,いろいろとお話しすることができた。 この恩師が育てた学生には, 現在第一線で活躍している人がきらぼしのように数多くいる。 そのなかで私は末席を汚しているのだ。 そんな私にも親しく先生は声をかけてくださる。 そのお心遣いがうれしくもせつない。 私はいつも申し訳なく思っているのだ。 先生を思う気持ちは,子路には到底及ばないだろうが,
そんな私でも,先生への感謝の気持ちはずっと持ち続けている。 いつかご恩返しをしたい。 こんな不肖の弟子あることを恥ずかしく思うが, 自分にできることを愚直にやっていくしかない。 そう,子路の生き方は私の憧れなのだ。 |
|
また子供たちとともに図書館に行った。 絵本を見ているとあっという間に時間が過ぎてしまう。 また小川未明の絵本を棚から取り出してしまう。 哀しい話がまた読みたくなったのである。 「金の輪」(小川未明 作,吉田 稔美 絵,架空社) 病気で長く臥していた七つの男の子,太郎が 少し身体がよくなったのか,ようやく家の外に出ることができるようになった。 そこで,金の輪を二つ,たいそう上手に回す不思議な少年に会う。 二つの金の輪がふれあって,たいへん美しい音が鳴っていた。 彼は何もいわずに微笑をうかべて走り去っていった。 彼には見覚えも無いのに,妙に懐かしさを覚える。 次の日もその不思議な少年に会った。 彼はいっそう懐かしそうな笑みを浮かべて,しかし何も言わずに去っていく。 太郎は,いったい誰だろうと思いつつも彼に親しみを感じる。 太郎は彼と友達になりたいといろいろな空想にふける。 そしてその夜,太郎は彼と金の輪をわけあって, ともに回しながら走っていく夢を見る。 そしていつしかふたりは赤い夕焼け空の中に入っていく。 そして太郎は... やはり哀しい結末である。 長く臥せっていた太郎の心情を思うと本当に切ない。 彼が不思議な男の子と出会うことによって, 少しは救われたのだと思いたい。 どうして小川未明はこのような話を書いたのだろう。 子供たちに,なにを感じ取って欲しかったのだろう。 夢のように世を去っていく太郎の命のはかなさ。 それが不思議な男の子の登場,美しい金の輪とそれが奏でる音色など, そうした舞台装置によって,一層際立つ。 そしてそれは心の中に,強くはかないイメージとして焼きつく。 こうして大人になっても,ふとしたことでそのイメージは浮かび上がり, また作品にふれたくなるのだ。 あまりにもの哀しく,美しい物語。
せつないという情感が 小川未明の作品には存在する。 |
|
小川未明の童話集(新潮文庫)が手元に見つからなくなって久しい。 一体どこに行ったのだろう。 ときどき無性に読みたくなるというのに。 子供と図書館に行ったときに,「眠い町」の絵本を見つけた。 「眠い町」 (小川未明 作,堀越千秋 絵,架空社) 小川未明の童話は,どこか陰鬱である。 人間の明るさだけを題材としていない。 心の陰を肯定している。 この暗さが私の好みである。 丁寧な語り口の中に, ゾクゾクするような暗い情感がそこにある。 それに惹かれて,どんどん読み進めてしまう。 「眠い町」も決して明るい話ではない。 少年ケーは,好奇心から「眠い町」を訪れる。 そこは,誰でもしぜんと身体が疲れ眠ってしまうという不思議な町だ。 少年ケーも我慢しきれずに眠りに落ちてしまった。 誰かに揺り起こされてみると, そこには,大きな袋を担いだじいさんが立っていた。 じいさんはこの世界に昔から住んでいた人間で, 今の新しい人間がやってきて,鉄道を敷いたり, 汽船を走らせたり,電信をかけたりして 自然を破壊しているのを憂いている。 今の人間がすこしの疲れも感じなくなったら, またたく間にこの地球上は砂漠になってしまうのだ,と嘆く。 そこで,疲労の砂漠から運んできた砂を 少年ケーに世界中で蒔いてきて欲しいと頼むのだ。 その砂を振りかけたなら,そのものはすぐに腐れ, さび,もしくは疲れ果ててしまうという。 ケーは頼みどおりに疲労の砂を世界中で蒔く。 砂の残りが少なくなり,彼はまた「眠い町」に戻ってきた。 そこで彼が見たものは... ここで小川未明が現在の世界を予見していたことがすごい,などというコメントは この作品の真価を評していないのではないかと思う。 この作品の凄さは,昔から住んでいたという人間の存在, 疲労によって世界の変化をとどまらせようとする発想, そして,それが無情にも徒労に終わるという結末。 そうした陰影をもった設定と結末の諦観にあるのではないか。 押しとどめようとしても, うち流されてしまう時代の変化に対する無力感,諦観。 そうしたものがこの作品に負のエネルギーを与えている。 それらが私の心をひっかき,深い傷を残す。 小川未明の作品は,読後に心に傷が残る。 そして傷が癒えたころ,また新たな傷跡を受けるためにこの作品を読む。 なぜなら心が傷つくたびに,また自分が少しはましになったような気がするからだ。 だから今,彼の作品集が手元に無いことは,たいへんに困る。 (追記)
心に傷をうけることが,感動だ,という話が 茂木健一郎氏のブログにそっくり出ていてびっくり。 まぁ,似たような考えなわけですが。 私ももう少し,人と違うような表現を書くべきと反省。 |
|
世はスピリチュアル・ブームである。 以前は人前で話すことが憚られた霊や前世のことが 理系の学生たちの間でも平気で話されているほどである。 以前にもこうしたブームがあった。 ユリ・ゲラーが巻き起こした超能力ブームである。 何人かのスプーン曲げ少年たちがマスコミをにぎわし, そして叩かれ,消えていった。 昨年,超能力少年の一人として有名だった清田氏の 大麻所持に関する刑事裁判が行われたという記事を読んだ。 私は, "職業欄はエスパー"(森達也,角川書店,旧書名:「スプーン」) という本を思い出した。 この本は,TVのドキュメンタリーのディレクターである著者が, 超能力者である清田氏と秋山氏,そしてダウジングの堤氏の三名について, 八年にわたって取材を続けた結果書かれたものである。 私は特にこの著者の彼ら,そして超能力に対するスタンスについて好意を持った。 著者は,取材を続けるうちに彼らとの信頼関係を築いていく。 そして,数々の信じられないような現象を目の前で見せられるのだが, それでも最終的に超能力の存在を素直に認められない自分を正直に告白している。 かといって彼らが嘘をついているとは考えられない。 そうした葛藤を抱えて,結論を保留している。 この著者の態度こそがこの本の魅力であり, 大切な一点であると思うのだ。 私のこうした超常現象に対する意見も,この著者と同様である。 残念ながら,著者のように超能力が行使されるところを目の当たりにしたことはないが, 超常現象を完全に否定するほどの根拠もない。 私の結論も保留されている。 しかし,現在のスピリチュアル・ブームに踊らされている人々はどうだろう。 多くの人が,なぜスピリチュアルな世界を信じるか,と問われて 理由を答えることができないのではないだろうか? ただ,TVに出ている人が言っているから,あるいは著名人が信じているから,などという理由がほとんどになるのではないか。 そんなことで,信じているなどという人を私は決して信頼することはできない。 スピリチュアルな世界を信じる人を信頼しない,ということではない。 以前にも書いたが,そうした体験を話してくれる人はいるし, 彼らは十分に信頼できる人々である。 そして,彼らはなぜ信じるか,ということにちゃんと答えることができる。 しかし,他人が言うから,権威が言うから,TVやマスコミが言うから。 そうした理由でこうした世界を信じる,などと言っている人は, 自分で考えることを放棄している。 なぜそれを信じるに足るのか。その理由を考えるべきである。 私が人を信頼するのは,
その人が何を信じているか,によるのではなく, その人がなぜそれを信じるようになったのか,その思考のプロセスの誠実さによる。 そして,私もその思考のプロセスの誠実さを持ちたいと思う。 |




