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今日も仕事だった. |
武道の話
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世にあるいろいろな武道に関する話です。K1とかプロレスなどの話はしません。
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今日は「プロフェッショナルの流儀」を観るために, 早く帰ってきた. 今日は,坂東玉三郎の特集. ぜひ見逃せないと思っていた. 坂東玉三郎. 歌舞伎を一度も観たことがない私ではあるが, とにかく舞台を一度目にしてみたいと思っている役者である. なぜか. それはつとにその身体操作がすごいと有名だからである. 彼の身体操作が達人の域に達しているというのは, 胴体力で有名な伊藤昇 氏の著作を通して一気に有名になった. 「誰でもピカソ」というTV番組にもそれが縁で出演したらしい. 伊藤昇という人は武道をかなり修行したとのことだが, その彼が玉三郎が近づくのを察知できなかったのだという. 玉三郎がが動くと後ろの書割が動いたように見えるというのは有名な話である. それを実現するのが,鍛えに鍛えられた動きなのだろう. (鍛えるというのはもちろん筋肉を鍛えるのではない. あくまでも動きを洗練するという意味で) 今回の放映でも,ところどころに異常な身体遣いが見られたように思う. 歩き方,振り返り方,車からの降り方,それらが何かしら違う. どこが違うというのがはっきりとわからないのが, 私の修行不足のためであると悲しくなるが, それでもなにかがおかしい. でも美しい.無駄が無い. あぁ,私もあんなふうに動けたら,そんな風に思わずにはいられない. だが本日の放映を観て, それが尋常の修練によって得られるものではないことが いやというほどわかる. この番組に出る人は皆,妥協というものをしない. 高い倫理観のもと,妥協することを自分に許さない. それは情熱に浮かされた努力ではない. もっと淡々とした生き様である. その積み重ねが高い修練を生むのだ. 玉三郎のような人が近くにいたら
私はきっとぞっとしてしまうだろう. でもきっと心を奪われて,目を離せなくなるだろう. そんな怖さを持っている特別な人なのだろうと,今日は思った. |
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先週の金曜日には,稽古に参加した. 最近はずいぶんと忙しいので, 身体を動かす時間はストレス発散のためにも 不可欠となっている. やはり人間は身体と心はひとつであるということだろう. 先日購入した「月刊 秘伝」. (こう表明することは,本当はすごく恥ずかしいことなのだけど) ひとつの言葉が稽古のヒントとなった. (たまにこうしたヒントがあるからこそ, ついつい買ってしまう雑誌なのだ) 黒田鉄山氏のコメントの中にあった次の言葉, 「柔術とは目に見えないほど速いものだ」 これが私の心にずっと引っかかっている. 体術である柔術が剣術と並行した修行される意味について, 黒田氏が答えたものである. 体術は剣術に伍すほどの速さを必要とするものであり, その修行の意味については全く同じであると答えている. 私も剣を稽古するけれど, それに比べると確かに体術の稽古は鋭くないような気がしていた. いや剣術の稽古において,自分に向けられる剣先の前に立てば, 否が応でも感覚は鋭くなる. やはり武器を用いるときに感じる危機感は, 無手の体術に比べると大きい. しかし,これは自分の甘さであったと気づかされた. 無手であっても「一撃必殺」 (私は「一技必殺」だと思うけれど)であるならば, 一瞬で死命を決するはずである. その緊張感においては変わりはないはずなのだ. そうした当然のことが私には真に理解できていなかった. 「目に見えない速さ」というのは,黒田氏のいうところの 「消える動き」,「等速運動」ということになるのだけれど, 私は別の意味のヒントとして受け止めた. 私が稽古している武道においては, 氣の練磨ということが重要視される. (中国武術ではなく,あくまでも日本の武道における「氣」です) 自分の氣をうまく制御し,相手の氣はうまく導く. 相手の氣が自分に影響を及ぼすことがないように, 自分の氣を強く出すことを修行する. しかし,この「出す」という行為が問題なのだ. 相手が敵として対峙してから氣を出すのでは遅い. 相手の氣が強ければ,すでに相手の氣が自分の中に入っているだろう. 相手の氣にのまれる,ということだ. その時点で勝敗は決している. ではいつから氣を出すのか. 敵を察知してから出す. それでは遅すぎる. 敵が居なくても氣は出ていなければならない. すなわち,いつも「氣が出ている」のが正しい. 実は,私が稽古している武道では, 「氣が出ている」と教わる. 「氣を出す」のは初歩の段階なのだ. その違いを改めて認識した. 敵が目の前に対峙したときには, すでに私の氣が相手を覆っている. そうでなければならない. 氣を出し続けることで疲れはないのか. 以前,私は私の先生にお尋ねしたことがある. そのときの答えは,「生きている限り氣は出続けるものだ, 氣を止めることなんてできない」ということであった. 「暗闇にろうそくがともるように」と教えを受ける. 氣はその光のように無意識的に空間に広がっている. その状態が,「天地と一体」となることであり, 私に対峙したときには既に相手が敗れるということになるのかもしれない. 体術であっても,剣術であっても,
氣の動く速さは変わりがない. そしてそれは目に見えないほど速いのだ. いつからか氣が出るのではなく, 常に出ていて,敵が対峙したときには既に勝敗が決定している. そういう武道を私は修行している. |
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先週の金曜日,土曜日は連続して武道の稽古があった。 土曜日は,東京から先生がいらっしゃって杖の講習会であった。 その先生は私が学生時代からずっとお世話になっている先生で, 講習会は厳しいご指導になることが予想されたので, (いや,最近は本当にお優しいのだけれど, やっぱり先生にはいいところ見せたいので) 金曜日は,少しハードに稽古をした。 杖というのは,だいたい樫でできている 長さ四尺二寸一分(約128cm)、 直径が八分(約24mm)の丸棒の武器である。 機動隊が盾と一緒に持っている棒だといえば 見たことがあると思う。 (ただし機動隊の持っている杖はひとまわり太かったりする) 両端に境がないので,どちらも使える。 槍のようにも遣えるし,薙刀のように払うこともできるし, もちろん,剣のように打つこともできる。 自在にあやつれるようになると, まるで杖が伸びたり縮んだりしているように見えるので, 間合いがとりにくい。 例えば,神道夢想流杖術は夢想権之助が創始した武道で, 宮本武蔵に勝ったとも言われている。 私が稽古している武道においても杖を用いるわけで, それを用いて人を投げたり抑えたりもする万能な武器なのである。 しかし,得物が長いために扱うのに少々修練を要する。 ポイントは如何に身の近くで扱うかということなのだが, (つまりは腕ではなく身体全体で扱うということ) だんだん杖が自分で勝手に動いているような感覚になる。 結局のところ,杖が自然に動くのを如何に妨げないか,ということになる。 この身体操作を思い出すために, 金曜日,土曜日と稽古した。 そして,日曜日。 疲労困憊でフラフラしていた。 筋肉痛だけでなく,全身に疲労が停滞してけだるい。 家族に本当に申し訳なかった。 しかし,感覚だけはシャープになっている。 身体の中にずいぶんと砥がれた感覚が立ち上がっている。 それだけはわかる。 身体は真綿のように疲れているけれど, 内部には鉄の棒の芯が存在するような感じ。 しかしその棒には太さがない。 本当の線なのだ。 この感覚が嬉しい。そして大事にしたかった。 いつも思うのだけれど,こうした感覚はいつ消え去ってしまうのだろうか。 いつのまにか身体の中から消失している。 いや消え去るのではないのかもしれない。 身体の深い海の中に沈潜していくといった方が近い。 そして今回のようにハードな稽古によって
その感覚が呼び覚まされるのだ。 あぁ常にこの感覚を把んでいたい。 この少し光るものが再び得られるのであれば, またよろこんで厳しい稽古に臨みたい。 |
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久しぶりに稽古をした。 身体の軸がぶれていて(すなわち心が静まっていない), もうメタメタな技のキレ。 途中からあまりの情けなさに涙が出てきそうだった。 現在の私の課題は,「貫く突き」。 今までの私の突きはバチーンと衝撃を高めることを 理想としてきた。 サンドバッグを殴れば,サンドバッグが折れ曲がり, 縦に揺れるようにすること。 そのとき,自分の下半身は踏ん張らず, まるで氷の上を滑るように足には力がかからない。 これが私の理想だった。 この目標については残念ながらまだ10%の満足も得られていない。 しかし,それでも次の「貫く突き」に興味が移っている。 「貫く」というのは「刺す」と表現しても良いかもしれない。 相手にグサリと突き刺さる,突き抜ける突きが欲しい。 衝撃という威力よりも相手にトドメを刺す突き,それが欲しい。 「貫く」というのは,力だけでない。 突く前にすでに念が先行し,相手を貫くということが理想だ。 したがって,突く必要もない。 相手の心が動く瞬間,その隙間に突きを放つ。 その突きは物理的なものでなく,念が相手を貫く。 そのとき相手は身動きがとれなくなる。 それが今の理想だ。 相手のこの「隙間」というのがまた難しい。 まだ一,二度くらいしか見えたことがない。 だが,どうも人間の心の働きは連続的なものではなく, ところどころに断続点があり,そこに隙間が存在しているようだ。 その隙間にスキがある。 その隙間の予兆を感じ, 隙間ができる瞬間に突きで相手を貫く。 なんとかこれが実現できないものかと苦心している。 まずは貫手や開手で稽古するのが良いようだ。 突きは下から突き上げるように突く。 今までと違う突き方を稽古している。 とにかく稽古を続けてみようと思う。 この先に果たして金脈は埋まっているのか。
それはやはり,掘り進んでみなければわからない。 |




