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一昨日は大阪工業大学 大宮キャンパス, そして昨日,今日と同志社大学の京田辺キャンパスに 仕事の関係で出かけてきた。 どちらも私立大学であり,キャンパスの建物が近年新設されている。 大阪工業大学は大阪市内にあるため,キャンパスの広さは大きくないが, 建物の高層化により講義室などの面積を確保している。 駐輪場などはなんと地下にある。 驚いたのは講義室がとにかく広いこと。 私は国立大学だったので,小さな講義室ではたかだが20〜30名しか入らないものもあった。 しかし,ここでは最低でも200名は入る講義室となっている。 200名くらい入らないと採算が取れないのだという。 この講義室で講義するのは大変だろうなぁ,と思う。 しかし,キャンパス脇を流れる淀川を8階の会議室から見下ろしていて, 学生の立場だったらこんなキャンパスで学生生活を送るのも悪くないと思ってみたりもした。 一方,同志社大学のキャンパスは京田辺の郊外にある。 こちらのキャンパスはぐっと広い。 そしてレンガ色に統一された西洋風の建物があちらこちらに立っている。 芝生がしかれた広場の周りを歩く学生たちの雰囲気もなにかしら明るい。 いいなぁ。まるで絵に描いたような学生生活が送れそうな気がする。 キャンパスを見学に来た受験生は希望をもって帰っていくんだろうなぁと思う。 内部の講義室は,やはり素敵なものだった。 国立大学のような古くて汚い講義室で4年間過ごすのと, こうした私立大学の素敵な講義室で過ごすのでは, 実は気づかないうちに学生たちの勉学(その他も!)に対する モチベーションに差がでるのではないか,と思った。 そしてそれは毎日のことなので,その差は積分されていき, 卒業をする頃にはずいぶんと大きなものになるのかもしれない。 それが充実した学生生活を送れたかどうかの実感となって残るのではないだろうか。 以前に訪れた立命館大学も素晴らしいキャンパスだった。 やはりそこで自分が送る素敵なキャンパスライフを夢見させてくれる。 そして実際にも,無意識のうちにモチベーションを高めてくれる。 私もこんなキャンパスで学生生活を送りたかったなぁ,とちょっぴり思う。 *東京新宿の工学院大学は,駅からすぐ近くのビルの中に講義室がある。
アクセスの良さと繁華街の近さでそれはそれで,アリだと思う。 |
学校の話
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若い人を指導するという場合に, 非常に はがゆい思いをすることがある。 "笛吹けども踊らず"といった風で,手を尽くしても動いてくれない。 私の指導力不足は認めるけれども, それでも少しくらいは動いてくれても…,と思うことが多々ある。 彼らのモチベーションの低さには,呆れるほどである。 "人を変えることはできない"ということは十分認識している。 人は自分自身によってしか自分を変えることができない。 牛を水辺に連れて行っても,牛に水を飲ませることはできないのだ。 そうはわかっていても,心が届かないときには本当に悲しくなる。 それでいて,強く指導するとすぐにへばる。 "私はほめられると伸びる人間なんです"などとのうのうと言う。 どういう教育を受けてきたんだ!と怒りが込みあがることもしばしばである。 指導をすればするほど,"なぜ私だけこんなに言われるのか"などとひねくれていく。 本当に手がかかる。 ポテンシャルがあるからこそ,指導を行うというのに。 こんな話を思い出す。 昔,墨子が弟子の耕注子を厳しく叱りつけたことがあったという。 それでへこんだ耕注子が, "僕はとりえのない人間なんでしょうか…"と墨子に尋ねたそうである。 そこで墨子は,"もし私たちが大行山に登る大旅行をするとして, 駿馬と羊とに車を引かせるとしたら,君だったらどちらに鞭をあてる?"と尋ねた。 耕注子は,"駿馬に鞭をあてます"と答えると, 墨子は"なぜ駿馬に鞭をあてるのかい?"とまた尋ねた。 耕注子は,"駿馬だったら,鞭をあてられて山を登る責務を果たすことができるからです"と答えると, 墨子は,"私の場合も,君のことをその責務に足ると思うからこそ叱るのだよ"と言ったという。(墨子 耕注篇) 相手のことを真に考えていれば,自ずとその言葉は相手の心に届くという。
こうした状態を招いている原因は, 私の相手を思いやる気持ちが足りないということなのだろう。 それにしたって…と思わずにはいられないのは,やはり私の修行不足のせいか。 |
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"小中学校時代を思い出してみてください。 あなたの好きな科目、嫌いな科目はなんでしたか。 その理由も教えてください。" これは、ある会社の面接試験の際の質問のひとつだそうである。 あなたは答えられるだろうか。 最近、ある大手企業の役員の方の講演を聴く機会があった。 その役員の方は長年面接試験を自ら担当され、 冒頭の質問を学生に訪ね続けてきたそうである。 なんと、この質問にまともに答えられる学生が非常に少ないのだそうだ。 それでこの方は、日本の将来について非常に危機感を持ったそうである。 私はなぜ学生たちがこの質問の答えに窮するのか理解できなかった。 そしてある学生の回答が紹介されて、ようやく納得することができた。 "私たちは、好きな科目、嫌いな科目を持ってはいけないと教えられてきた。 好きな科目の得点の80点を90点に伸ばすよりも、 嫌いな科目の50点を70点に伸ばすことが大切だと教わってきた。 その方が、受験に有利だからだ。 そして、その結果、好きな科目も嫌いな科目も無くなった。"のだという。 私もこの明快な答えを聞いて、背筋が寒くなった。 この役員の方も、こんな教育では日本の将来は危ないと思うきっかけになられたという。 最近の学生への不満は、 "基礎学力が無い" "リーダーシップ、自主性、積極性がない" "他人の目を気にしすぎる" "コミュニケーション能力が無い" "専門知識が狭すぎる" など、どの企業も共通しているが、最も問題としているのは、 "彼らから意思、意図を感じることができない" というものである。それが冒頭の質問への回答に如実に現れている。 同様に挙げられる深刻な問題として、最近の学生、新入社員には、 "なぜ?という思考が抜けている" というものも紹介された。 一般に偏差値が高いといわれる大学に入学してくる学生たちは、 予備校や進学塾などに通っている率が高い。 そうした予備校などでは、"なぜ?"と考えることを止めるように教育する。 そんなことを考えているようでは、 短い時間に正しい答えを求めることができないからだそうである。 彼らは短時間で正確な答えを計算する機械を製造しつづけているのだろうか? このような講演を聴いて、私はため息ばかりが出た。 たしかに大学入試には、"なぜ?"と考えさせる問題が少ないのだ。 では、大学が"なぜ?"と考えさせる創造性、思考の柔軟性を求める問題を 出すようになったらどうなるだろうか? その大学の学生のレベルは上がるだろうか? 答えは逆で、レベルは下がるのである。 その理由は簡単。 予備校で対策ができない問題を出す大学は、難関大学として学生たちが敬遠する。 実力がある学生ほど選択肢は広くとれるので、そうした学生たちがまず逃げていく。 もちろん、そうでない学生たちも受けることを避ける。 そうして、倍率は下がり、レベルは下がっていくのである。 今年もある国公立の大学で、大学入試の科目数を増やしたために、 ずいぶん受験者が減り、倍率が下がってしまったという事例がある。 入試問題が公開されるようになり、どんなケチもつけられないシンプルな問題が求められるようになってきた。それに従い、柔軟な思考を求める問題が確かに少なくなった。
そして、それに伴って予備校や進学校では機械的に解答を導くHow Toだけが教授され、 Why?と問題の本質を追求しようという学問本来の姿勢が 省みられなくなってきてしまった。 しかし、大学には問題を難しくすれば学生に逃げられるというジレンマがある。 あぁ、なんと悲劇的な学力低下のスパイラル。 世の中には、公式を当てはめて解ける問題など、 本当に数少ないということを知らないのだろうか。 楽をして成果をあげるなんていうことができると思っているのだろうか。 こうした講演を聴くたびに、私は悲観的になり、ため息を繰り返すのである。 |
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また、「最近の若い者は...」談義である。 なぜ最近の若い人は、謝ろうとしないのだろうか。 自分の非を認めようとはせず、とにかく言い訳をして 他人のせいにしたり、状況のせいにしたりする。 まずは謝ればいいのに。 相手は、謝罪の言葉を期待しているのだ。 自分に非があるのであれば素直に認めて謝ればよいのに。 そう思う。 彼らは自分たちが大変見苦しいということに気付いていないのだろうか。 そして、相手に輪をかけて失礼な態度でいることがわからないのだろうか。 なぜ彼らは謝ろうとしないのだろうか。 まず思うのは、彼らは自分に本当の自信が持てていないということ。 彼らはおだてられて育てられてきている。 だから、平気で"私はおだてられないとだめだ"などという。 また、"私は怒られると凹みます"と開き直って言う。 何がいいたいのだろうかと思う。 彼らは、叱られることが少なかったのだと思う。 誰が彼らを叱ることができるのだろう。 先生が体罰をふるうこともないし、先生に対する尊敬もない。 親も先生をバカにしている。 親も親で、おだてることが良い子に育てることの良薬と信じ、 多少のことには目をつぶってしまう。 家庭で一番偉いのは子供ということになっている。 このようにして、自分は偉い、あるいはスゴイと思い込まされて来ているため、 根拠無き自信をもって生きてきたのだ。 しかし、もちろん彼らの自信を裏付けるものはあまりにも、か弱い。 だから何かの拍子でガラガラとそれが崩れてしまう。 そして自分がナニモノでもなく、普通の人間の一人であるということを知ってしまう。 その可能性が怖くて自分の非を認めることができないのではないだろうか。 本当に自信があれば、謝ったところで自分の価値なの何ひとつ減らない、 いやそれどころか、価値はますばかりなのに。 彼らが所属する社会における人間関係の難しさもあるだろう。 少しでも弱みを見せると、そこにつけ込む友人(と呼べるのか?)がいるのかもしれない。 自分が他人よりも優れていなければならないと信じ込まされて育てられた彼らは、 他人の弱みを見ると、過剰に非難する傾向にある。 すぐに他人を馬鹿にして自分の優位性を思う。 だから、謝って弱みを見せることなんてできないのだ。 かわいそうに。そんな人間関係しか築けなかったら、この先の人生暗いものだろうに。 ただこうした状況を見ると、私も暗澹たる思いである。
なぜならば、このような悲惨な社会に自分の子供を送り出さなければならないからである。 昔は、謝る子供が偉かった。 今は、謝らず、自分の我を通す子供が偉いと思われる。 こんなおかしな世の中で子供たちが生きていかなければならないなんて。。。 親としては、本当に悲しくて悲しくて、 どうしたら救いがあるのかとすっかり悩んでしまうのである。 |
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■「2006年問題」をご存知だろうか? 「2007年問題」は、最近マスコミでよく目にするのでご存知の方も多いだろう。 団塊の世代が一斉に退職年齢を迎えるという問題だ。 では、「2006年問題」とは何か?2006年に何があるのか。 実は、これは教育問題である。 正確に言うと「教育2006問題」とか「大学2006年問題」などと呼ばれる。 2002年4月、ゆとり教育と呼ばれる教育改革(改悪?)が始まった。 何と学習内容を3割減らしたのだという。 私は当時現在の職場ではなく、ある研究所の研究の現場にいたが、 開いた口がふさがらなかった。 科学技術立国を目指すといいながら、なぜ学習内容を減らさなければならないのか。 その当時、"私は因数分解を使ったことがない"などと平気で行っていた政治家がいたが、 本当に腹が立ったものである。 現実に役に立つものばかりを学習するのが教育なのではないのである。 むしろ将来の仕事には役に立たないことの方が多いのかもしれない。 しかし、人間形成のため、人生を豊かにするためには、 これまで引き継がれてきた種々な知識と知恵が必要なのである。 (ちなみに増えた"ゆとり"で子供達はゲームや遊びに興じていたのだという) この学習内容3割減の学生達が大学に入学してくるのである。 大学の講義が崩壊するのではないかと、大学側は戦々恐々としている。 これが「2006年問題」である。 ■私が大学に入学したころ、すなわち20年前の状況と現在を比べてみよう。 私達の周囲を見回せば、20年前には想像もつかなかったハイテクに満ちている。 インターネット、携帯電話、デジタル放送、電気自動車、新エネルギーなどなど。 20年前に比べ科学技術は、恐ろしく進歩していることがわかるだろう。 しかし、大学で学ぶ内容はどうだろう。 なるべく最先端に近いところまで、頑張って紹介しようとする。 (実際、大学では最先端の研究を行っている) だが、講義時間の制約は厳然と存在する。 基礎から教えなければならないため、伝えられる内容は限られ、その量はこのハイテクの世界にあふれる膨大な知識に比べれば、あまりにも微々たるものである。 その一方で企業からは、もっと即戦力の学生を送ってくれと強い要望がくる。 企業も、昔のように、入社後にじっくりと人材を育てようなどという余裕が持てないのである。すぐに役に立つ人間が欲しいのだ。 基礎力はもちろん大事だが、応用力も兼ね備えた人材への要求は逼迫しているのである。 ■そこで迎える2006年問題。 20年前の最先端の科学技術レベルを100とすれば、現在のレベルは200位といえる。 これまで、高校までの教育によって50位のレベルをもった学生を、 大学の教育によって80位まで高めて、社会に送り出していた。 それが、2006年からは35位までしかない学生を、迎え入れなければならないのだ。 なぜ、科学技術は日進月歩で進んでいるのに、教育を縮小しなければならなかったのか? あまりのバカバカしさに、本当に腹が立ってくる。 詰め込み教育への批判があったのもわかる。考える力が足りない、と。 しかし、現実問題、知識がなければ考える力は育たないのだ。 知識がなければ、考えようにも材料が無いのだから。 ある程度、詰め込み教育は許容されるべきであると私は思う。 ■学校の先生は、何を考えているのかとときどき思うことがある。 競争がダメだから、運動会で手をつないで走るとか、 科学に興味を持たせるために、手品ばかりやるとか。 子供に媚びるのではなく、本当に子供の将来のために必要な教育を行うべきではないだろうか。それがある程度子供に学習を強要することになっても。 私の息子もこの4月から小学校に入学するが、そんな教育を行う学校だったらどうしようかと今から心配が絶えない。 ■最先端の知識は、どんどん進んでいる。 数学者の岡潔は、このままでは数学研究の進展はいつか頭打ちになるのではないかと危惧していた。 学ばなければならない知識の量は指数関数的に増大し、そのための学習期間は長期化してなっていく。 そしていつか最先端の知識にたどり着く頃には、数学者の旬である30〜40代を過ぎてしまっているのではないかというのである。 岡潔の危惧から見れば、"ゆとり教育"というのはあまりにも科学技術の進展に逆行した考えであることがわかるだろう。 ■実は2006年問題は、それほどシビアにならないだろうという憶測もある。 2006年入学の学生達は、自分達がそういう問題を抱えたジェネレーションであるという認識がまだあるからである。彼らは危機意識を持っている。 深刻なのは、その後に入学してくる学生達である。 彼らは危機意識が希薄であり、"ゆとり教育"を良しとした価値観をもつ人の割合も多くなってしまうからである。 ■最近、「下流階級」という言葉を良く聞く。 上昇志向が無く、"より良い"、よりも、"よりまし"、の選択を行う。 労働意欲が無く、多く働くことを望まない、そうした若者達が増えているという。 楽して、そこそこ暮らす。 それで十分という価値観。 その先に暗澹たる未来が待っていることに気が付かないのだろうか。 教育の場においても、あきらかに学生達の学習意欲は昔に比べ下がってきている。 昔に比べて講義内容ややり方は、ずいぶんよくなっていると思うのだが。。。 下流階級とゆとり教育。底流にあるものはつながっているような気がしてならない。 ■幕末の頃、福沢諭吉らは命をかけて知識を吸収しようとしていた。 彼らは夜通し勉強し、眠るときは机に突っ伏して寝たという(私はそこまでできないが)。 彼らは、これからの日本を背負っていこうという気概に満ち溢れていたに違いない。
現代社会においても、そうした時代を動かしていこうという大望をもった若者達の登場を 私は切に待っているのである。 |




