ラジャスタン州の州都ジャイプールは、駅周辺の新市街と『ピンク・シティ』と言われる旧市街とに分かれている。かつて街の建物の色は灰色であったが、1883年、アルバート王子(イギリス)の来訪をきっかけに、歓待を表すピンク色に塗り替えられた。今日もそれは続けられている。
ジャイプールの旧市街は約13kmの壁と8つの門に囲まれ、通りはすべて碁盤の目のように交差している。主な見所としては、石造りの測定器が並ぶ天文台『ジャンタル・マンタル』、マハラジャの宮殿『シティ・パレス』、かつて宮殿の女性が姿を隠しながら外を見るために建てられたという『風の宮殿』、全体が白大理石で造られ、その彫刻の美しさで知られるヒンズー教寺院『ビルラー・ラクシュミー・ナラヤン寺院』などがある。
昼食後、ジャイプールから北へ11km先にあるアメール村へ向かった。途中、右手に連なる山並みの下に、土のひび割れた平原が広がっていた。その中央に建つ建物は『水の宮殿』と言われ、かつてのマハラジャの夏の別荘である。この平原はじつは湖で、今は乾季のために干上がっているのだった。
アメール村の小高い丘の上に築かれた『アンベール城』は観光のハイライトであり、観光客のほとんどが象のタクシーを使って城まで登る。
最初は象乗り初体験に浮かれていたのだが、さすがののろさに日焼けした腕がひりひりと痛み出し、うんざりしてしまった。半袖のTシャツにしたのは失敗だった。ようやく城内に辿り着くと、手を振るアーミルさんの姿が見えた。
私達を象に乗せて見送っていたアーミルさんが、どうして先にそこにいるのか。何のことはない。ジープで先回りしたのだった。
城内は、象の頭を持つガネーシャ神が描かれたカラフルで美しい門『ガネーシャ・ポール』、天井や壁に無数の鏡をはめ込んだ鏡の間『シーシュ・マハル』、王の寝室である『スーク・ニワス』など見所も多く、展望も素晴らしかった。帰りはジープでバスまで戻り、一路デリーに向かった。
デリーでの宿泊ホテルは初日に泊まったホテル・カニシカだった。その日の夕食は16階にあるレストラン『マンダリン・ルーフ・トップ』で、市街の夜景とライヴ音楽を鑑賞しながらのディナーだった。
お父さんの提案でアーミルさんも一緒にということになり、楽しい晩餐になった。アーミルさんは私達に自分の夢を熱く語った。
「まずは日本に行く飛行機代を貯めないと。片道で40万ですからね。今、一生懸命貯金してます」
「インドに格安航空券ってないんですか?」
野田さんがアーミルさんに尋ねた。
「ありません。インドではまだ、生まれてから死ぬまで自分の生まれた土地を出ることがないのが普通です。海外旅行なんてひと握りの金持ちしかできません。その人達だって、旅行というよりはビジネスで行くのがほとんどです」
「日本の物価の10分の1だからなあ、インドは。日本でならともかく、インドで40万はきついよな」
永井さんがそう言ってため息をついた。
「でも、どうして銀座なの?店舗を借りるだけでもすごい額よ」
「わかっています。でも夢は大きい方がいいと思って」
お母さんの質問に、アーミルさんは笑顔で答えた。
「そりゃそうだ。男ならそうこなくっちゃな。いざ日本に上陸する時は必ず連絡しなさい。たいしたことはできんかもしれんが、それまで私もヘソくりを貯めておこう」
お父さんがそう言って、となりに座っているアーミルさんの肩を力強く抱く。
「あら、あなた。どうやってヘソくるの?大好きなお酒をやめて、その分をアーミルさんへのご祝儀に充てるのかしら?だとしたら感心だわ。ぜひそうしてちょうだい」
「い、いや。それは…」
一同にドッと笑いが起こった。そうして時間は過ぎていった。
「じゃ、私はこれで失礼します。今日は家に帰りますので、何かあったらフロントに電話してください。そうしたらホテルから私の所に連絡が入って、すぐにとんできますから」
そう言って席を立ったアーミルさんに、お父さんがお金を渡した。
「山田さん、何ですか、これは」
「今日、君は家で夕食をとるつもりだったんだろう?私のわがままで、君を引き止めてしまった。これは今日の君の夕食代だよ。取っておいてくれ」
「そんな…私の意思でご一緒したんです。私もすごく楽しかった。だから受け取れません」
「アーミルさん、主人はみんなの前でカッコつけたいのよ。受け取ってあげて」
「でも、これは多すぎます」
「じゃあ、こうしよう。君が銀座にインドレストランをオープンしたときは、タダで私を招待してくれ。だったらいいだろう?」
「そういうことなら」
「じゃ、明日もよろしく頼むよ」
「はい」
そう言って、お父さんはアーミルさんの手を強く握った。野田さんと永井さん、そして私は思わず拍手してしまい、お互いに顔を見合わせてしまった。
私達はそれぞれの部屋に戻った。私は翌日の支度を終え、のんびりとバスタブに浸かった。
明日でインドともお別れ。あっという間だった。夢を追うアーミルさんが羨ましい。私も自分の夢を見つけ、あんなふうに誰かの前で熱く語ってみたい。アーミルさんは与えて生きることで夢に出会えると言ったけれど、与えて生きるってどういうことかしら。どうも彼の言うことって難しい…。
バスタブのお湯を抜き、シャワーでシャンプーを済ませ、お湯を止めようとレバーを下に引いた。だが、お湯が止まらない。上にしたり下にしたり、交互に動かしている間にレバーはグラグラになってしまった。
なんということだ。お湯があふれる心配はないが、一晩中出しっ放しというのもおちつかない。フロントに電話するには何番を回せばいいのだろう。電話の横に置いてある案内表を開いたが、『フロント』という言葉がない。ああ、もっと英語を勉強しておくんだった。
私は服を着ると、髪に軽くタオルドライをした程度でロビーに降りていった。フロントマンに伝えようにも、英語でどう言うのかわからない。ゼスチャーを交えながら「ホットシャワー」と繰り返すだけだった。強引に手を引いて彼らを連れて行き、部屋に入れるのも危ない気がした。
「どうしたんですか?」
アーミルさんだった。
「帰ったんじゃなかったの?」
「ああ、帰ろうとしたら知人とバッタリ会って。あんまり久しぶりだったんで、ロビーで話しこんでしまったんです。今帰るとこ」
「そうだったの。でも、ちょうどよかった。大変なの。お湯が止まらなくなっちゃって」
「じゃ、今も出っ放し?」
「そうなのよ。上げたり下げたりしていたら、レバーがばかになっちゃったみたい。こわしてしまったかもしれない。弁償って言われたらどうしよう」
アーミルさんはふき出した。
「弁償はありえませんから安心して」
アーミルさんはそう言うと、フロントマンにヒンディー語で何やら話した後、私に一緒に部屋に戻るよう促した。二人で部屋に入り、バスルームのドアを開けると、中は霧が立ち込め、サウナと化していた。アーミルさんは私がやったようにレバーを上げたり下げたりしたが、結果は同じだった。
「どうかしら?」
「大丈夫ですよ。こういうことはたまにあるんです。すぐになおりますよ」
部屋のインターホンが鳴り、アーミルさんが出た。修理工らしき男性が二人、ペンチとドライバーを持って立っていた。アーミルさんは彼らをバスルームに入れ、ヒンディー語で話をしたあと、一人で出てきた。私はベッドに、アーミルさんは机の椅子に腰掛け、修理が終わるのをまった。
「あの人たちがいる間は…アーミルさん、ここにいてね」
「もちろんです。私はあなたのボディーガードですから」
「帰るの、遅くなっちゃうわね。ごめんなさい」
「どういたしまして。あとでタップリ残業手当もらいますからね」
「えっ」
「冗談ですよ。今野さんはすぐ本気にするんだから」
男達がバスルームから出てきた。アーミルさんが中に入って確認をし、私を手招きした。レバーは元通りになっていた。彼らが帰るのと入れ違いに、ホテルマンが新しいタオルとバスタオルを持ってきてくれた。
「はっくしょん!」
私が軽くくしゃみをすると、アーミルさんは乾いたバスタオルを私の頭にかけ、ごしごしと髪を拭き始めた。
「ちゃんと乾かしてから来ればよかったのに」
「だって、バスルームは湿気がすごくて、ドライヤーなんて使えないでしょ」
「ドライヤー、日本から持ってこなかったんですか?」
「持ってきたけど」
「だったらそれをテレビとか机の照明とかのコードを抜いて、つなげばいいことでしょ?」
「ああ、そうね。そうよね。私って何てばかなのかしら」
「ほんと、抜けているんだから」
「抜けてなんかいないわ。慌てていただけよ」
「素直じゃありませんね」
「言ったわね!」
私はそう言って、アーミルさんの腕を叩こうと勢いよく手を振り上げた。だが、アーミルさんにうまくかわされてバランスを崩し、それを支えようとした彼の腕にすべり落ちてしまった。
どのくらいそうしていたのかわからない。おそらく数分だったと思う。だが、私にとっては時が止まったかのようだった。
彼を強く抱きしめたわけではない。そのまま彼の腕の中にいただけだ。彼も私を強く抱いたわけではない。ただ、私の肩にそっと手をのせ、支えていただけだった。
彼の白いワイシャツから心臓の音が伝わってきて、私はなぜかむしょうに悲しくなってしまった。
涙が、頬を伝って落ちた。
「なぜ、泣いているんですか?」
アーミルさんは身体を離し、私の顔をのぞき込むように笑顔でたずねた。
「わからない」
私はそう言って目をそらした。
「自分のことなのに、わからないんですか?」
「そうよ。悪い?」
「悪くないけど…」
しばらく沈黙が続いた。
「友達が…」
「えっ」
「友達が日本の女性と結婚して、今九州にいます」
「九州に?」
「日本に行って…彼はインドを嫌いになっちゃった」
アーミルさんはそう言うと、何やら考え込んでしまった。
「アーミルさん?」
アーミルさんは足元に落ちていたバスタオルを拾うと、私の頭にかぶせた。
「あなたにはきっとサリーが似合う」
「そう思うならプレゼントしてくれてもいいけど…」
彼はそれに対して静かに笑っただけだった。そして、そのまま戸口に向かった。
「アーミルさん!」
私の右手はアーミルさんの左腕をつかんでいた。アーミルさんはその手を取ると、両手で強く握りしめた。そして、私を見て言った。
「ありがとう」
その目は悲しそうだった。なぜかはわからないけど、ただ悲しそうだった。
「帰ります」
アーミルさんが部屋を出ていった後、私はその場に立ちつくしていた。
私はたまらなくなって部屋を出た。廊下に、彼の姿はなかった。
ようやく上がってきたエレベーターに乗り込み、減っていく数字をじっと見つめる。5、4、3…。私は何をしているの?追いかけてどうするつもり?わからない。自分が何をしようとしているのか。ただ、朝まで彼と一緒にいたい。彼から離れたくない。
ロビーに到着したエレベーターが開いたとき、アーミルさんはちょうどホテルを出ていくところだった。そして、その白い後姿は夜の闇に消えた。
あなたがほしい―。
彼の背中にすがりつき、そう言いたかった。でも、言えなかった。