ここから本文です
心のままに〜私の中のインド〜(今野美咲)
インドで出会った運命の人。そこには厚い文化の壁がまちうけていた…。(写真Taj Holiday Village, Goa)
 
イメージ 1
                (タージ・マハル インド・アーグラー )
 
●著者からひと言

『心のままに〜私の中のインド〜』をご覧いただきありがとうございます。
この作品では様々な角度からインドを紹介しています。
単なる国際恋愛小説ではなく、インドの紀行を織り交ぜながら
今日国連でも取り立たされている花嫁持参金殺人にも言及しています。
また、主人公が夢に向かって歩き出すまでのノンフィクションでもあります。
感想などお寄せいただければ幸いです。
 
今野美咲
  
イメージ 1
  マハラジャ宮殿ホテル『ラクシュミ・ニワス・パレス』(インド・ビカネール
 
第 1章 出会い 
第 2章 初めてのインド人
第 3章 価値観の違い 
第 4章 ジャイプールの占い師 
第 5章 独身を通す理由 
 
第 6章 恋の嵐 
第 7章 夢の扉 
第 8章 運命の人 
第 9章 別れの手紙 
第10章 お見合い 
 
第11章 彼の秘密
第12章 忘れられない人 
第13章 インドへ 
第14章 思わぬ結末 
第15章 インドの恋愛事情 
 
第16章 弟 
第17章 新しい恋 
第18章 突然のプロポーズ 
第19章 葛藤 
第20章 結ばれて 
 
第21章 理想と現実の狭間で 
第22章 文化の違い 
第23章 果てしなき闘い 
第24章 悲しみのディナー 
第25章 似た者同士 
 
第26章 すれ違う思い 
第27章 さようならインド 
第28章 育った環境 
第29章 二度目のプロポーズ
第30章 インドの女性差別と結婚持参金 
 
第31章 アレンジメント・マリッジ 
第32章 マナーリーの雪 
第33章 愛しい人々 
第34章 母の思い 
第35章 ジャイプールへ続く道 
 
第36章 迷い疲れて… 
第37章 彼の事情 
第38章 二人の父 
第39章 不思議な縁 
第40章 苦しみの果てに 
 
第41章 夢に向かって 
あとがき 

第1章 出会い

イメージ 1
                  (インド門 インド・デリー) 
 
 眼下にはオレンジ色の夜景が広がっていた。私は手元にある入国カードに記入を済ませると、視線を再び窓の外に戻した。機体の高度がぐんぐん落ちていき、私を乗せた日本航空471便は、ほぼ定刻通りにデリーのインディラ・ガンディー国際空港に降り立った。
 
 機内から出ると、むっとした熱気が襲ってきた。空港内に入って少し歩くと、右手にエスカレーターがあり、その下が『入国審査』となっている。機内が満席ということもあって、長蛇の列だ。ようやく自分の番が来て、パスポートにスタンプを押してもらう。その先の手荷物受取所では、たくさんのスーツケースを載せたコンベアーが、音をたてて勢いよく回っていた。
 
 カートにスーツケースをのせて出口に向かうと、その手前左側に両替カウンターがある。ここでも日本人観光客が列をなしていた。この列に並ぶのも、1万円を両替して戻ってきたルピー札の分厚い束を数え、「いくら足りない」などと言うことも面倒くさい。ホテルのレートの方が高くつくかもしれないが、たかが知れている。朝6時30分に家を出て、タクシー、新幹線、成田エクスプレス、そして飛行機と乗り物漬けで、現在日本時間で2330分。疲労は極限に達していた。早くホテルで休もうと決め、そのまま出口へと進んだ。
 
 空港の待合ロビーでは、客の名前を書いた画用紙を掲げたガイドらしき人、ターバンを巻いた人や家族連れなど、たくさんのインド人がたむろしていた。私がロビーに足を踏み入れた時は、ちょうど人が切れて一人だったせいもあり、それら出迎えの人達の視線をいっせいに浴びることになった。インド人特有の幾つもの大きな目が、私を凝視しているのがよくわかった。周りを見回しながら前に進むのだが、その誰もと目が合ったからだ。
 
 現地旅行社のガイドが迎えにきているはずだった。しかし、インド人達が掲げている画用紙やメモに、私の名前を見つけることはできなかった。
 
 まだ来ていないのだろうか。それにしてもここにいるガイドらしき人はおじさんばかりだ。今回は4日という短い滞在だが、観光とはいえ一日一緒にいるのだ。別に深い意味はないのだが、若い男性にこしたことはない。私は38歳という自分の年齢を棚に上げ、願望が現実になるように祈った。
 
 すると、左前方に若い男の子が一人、こちらを見ているのに気がついた。初めてインドを訪れた時には男性は皆、髭をはやしていたものだが、彼には髭がない。そういえば、女性もサリーオンリーではなくなっている。ここ数年で、インドも変わったのだろうか。
 
 彼は特別ハンサムではないが、愛嬌のある顔立ちをしていた。白いワイシャツに紺のズボン。清潔感があり、どこかのお坊ちゃんといった感じだ。かわいいなと思いながら、しばらく眺めていた。向こうも、同じように私の顔を眺めている。私は胸に旅行社のバッジをつけ、スーツケースにも同じマークのシールを貼っていたのだが、何も言ってこない。ということは、彼は私のガイドではないということか。がっくりと肩を落として、彼の前を通り過ぎた時だった。
 
 「今野さんですか?」
 
 振り向くと、その彼が目の前にいた。
 
 「すみません。ぼーっとしていて。『ヤシュ・トラベル』の者です。お迎えにあがりました」
 
 そう言って、彼は私のスーツケースをとると、待たせてあるタクシーの所へ私を案内した。運転手がスーツケースをトランクに積み込んでいる間、私は後部座席、彼は助手席に腰を落ち着けた。彼が、振り返って言った。
 
 「ようこそインドへいらっしゃいました。私はジャイ・クマールといいます」
 
 「じゃいくまーるさん…」
 
 「ああ、ジャイでいいです。これからよろしくお願いします」
 
 「これからってことは、あなたがずっと私のガイドをしてくれるってこと?」
 
 「はい、そうです。よろしくお願いします」
 
 手元の控えを見ると、現地旅行社の名前は『ヤシュ・トラベル』で間違いない。だが、ガイド名は『ジャイ・クマール』ではなかった。その人に何か事情ができ、彼に急きょ変更になったのだろうか。しかし、そんなことはどうでもいい。一緒に行動するなら、若くてかわいい子にこしたことはないのだ。見たところ、25歳くらいだろうか。
 
 運転手がエンジンをかけ、エアコンのスイッチを入れた。車が走り出した。
 
 しばらくすると、ライトアップされたインド門が見えてきた。道路脇の芝生に、懐かしい牛の姿が見える。インド人口の80%はヒンズー教徒であり、そのヒンズー教の神々はそれぞれ動物の乗り物を持っている。その中でも代表的な神は三人に絞られ、その一人であるシバ神の乗り物が牛なのだ。そのため、インドで牛は聖なる動物とされ、街中を公然と闊歩している。
 
 宿泊先の『アショカホテル』に到着した。宮殿を思わせる建物は1956年の建造だが、内装や設備は申し分ない。ジャイさんにパスポートを渡し、チェックインの手続きをしてもらう。
 
 ロビーを見渡すと画家の個展が行われていた。国営ホテルでやるくらいだから、名の通った画家に違いない。戻ってきたジャイさんに促され、書類にサインをする。その後、朝食をとるレストランの場所を教えてもらい、エレベーターで部屋に向かった。
 
 室内は淡いオレンジ色のカーペットが敷き詰められ、照明や家具にも品の良さが感じられた。ジャイさんがバスルームに行き、お湯がちゃんと出るか確認してくれる。
 
 「他の部屋もご覧になりますか?」
 
 「ありがとう。でもいいわ。疲れているから早く休みたいし。この部屋も気に入ったから」
 
 「わかりました。翌朝はロビーでの待ち合わせとなりますが、何時がよろしいですか?」
 
 「そうね…デリーの観光名所だけなら半日あれば充分だし。9時でいいかしら」
 
 「わかりました。もし変更されたいというのであれば、私の携帯に電話して下さい。ご希望の時間にお迎えにあがります」
 
 そう言って、ジャイさんは私に電話番号の書かれたメモを手渡した。
 
 「それから、ホテル内はかまいませんが、一人でホテルの外には絶対に出ないでください」
 
 「わかりました」
 
 「モーニングコールはどうされますか?」
 
 「7時…にしようかしら」
 
 「わかりました。そのように言っておきます」
 
 ホテルマンがスーツケースを運んできた。
 
 「じゃ、私はこれで失礼します。ゆっくり休んでください」
 
 「いろいろとありがとう。明日からよろしくお願いします。気をつけて帰ってください」
 
 「はい。じゃ、おやすみなさい」
 
 ジャイさんはそう言って部屋を出ると、軽くおじぎをして、外から静かにドアを閉めた。私はこの礼儀正しい青年に好感を覚えた。
 
 翌朝はモーニングコールで目が覚めた。朝風呂を済ませ、8時にレストランで朝食をとった。食事はバイキング形式になっており、なかなか美味しかった。
 
 その後、ロビーの個展とホテル内の豪華な装飾を見てまわった。したくを整え、約束の時間より早めにロビーに降りていくと、ジャイさんはすでに来ていて、ソファーで新聞を読んでいた。
 
 午前中はオールドデリーにあるジャマー・マスジットに出掛けた。インドの首都であるデリーは、ニューデリー、オールドデリー、そして郊外の三つのエリアに分かれており、オールドデリーは、ニューデリー駅の東側にあるデリー門を中心に広がっている。大通りとして名高い『チャンドニー・チョーク』は、乗用車、トラック、オートリキシャー、自転車、牛、人がひしめき、混沌とした雰囲気が漂う。ジャマー・マスジットはイスラム教のモスクで、規模はインド最大と言われている。赤い砂岩と白い大理石のコントラストが美しく、デリーで見ることのできる代表的ムガル朝建築の一つだ。
 
 昼食はニューデリーにある『モティ・マハル・デラックス・エンド』で、豆カレーとチキンカレー、じゃがいも入りナンを食べた。このレストランは閑静な大使館街にあり、場所柄外国人客が多い。料理は北インドの代表的料理が中心で、アルコールもある。
 
 ニューデリーは、デリーの銀座とも言うべき『コンノート・プレイス』から南に広がるジャンパト通りを中心とした区域で、広々とした道路や、整備された町並みが特徴だ。食事の後は、各州の手工芸品や土産物を扱うショッピングゾーン、『デリ・ハット』で買い物を楽しみ、コンノート・プレイスにある『ピザ・ハット』で、夕食のピザを買った。
 
 その日は早めにホテルに戻り、部屋からフロントに電話を入れた。
 
 「私あての電話がありませんでしたか?メッセージとか」
 
 「いいえマダム、お電話は入っておりませんが」
 
 「そうですか…」
 
 空港に来てくれなかったところをみると、会う気はないのかもしれない。 
イメージ 1
                  (ガートの様子 インド・バナラシ) 
 
 私が初めてインドへ行ったのは7年前だ。デリー、バナラシ、サールナート、アーグラー、ジャイプールをめぐる8日間の旅だった。海外旅行は三度目で、一度目は失業中に行ったエジプト、二度目は会社の社員旅行で行った台湾。比べるには無理があるが、初めての海外旅行があまりに衝撃的だったため、正直言って台湾旅行は味気なかった。 
                       
 そんなわけで、次の海外旅行はインパクトがある国に行こうと決めていた。服装や顔立ちも全く日本と異なる国、それでいて世界遺産がある国…。そうして思い浮かんだのが、アーグラーの『タージ・マハル』とバナラシの沐浴風景だったのだ。
 
 エジプト旅行の時のように、ツアーには一人で参加した。友人のほとんどは長期休暇をとれる会社で働いておらず、仮に休暇がとれたところで、ヨーロッパにしか興味がない彼女達に、同行を頼むことはあり得なかった。
 
 出発一週間前に旅行会社からスケジュール表が送られてきた。そこに書かれたアジア旅行の定番とも言うべき『現地集合』の文字に、私はドキドキした。ガイドも観光も、提携している現地の旅行会社が担当するため、一人でインドに向かうのだ。当時は成田からデリーへの直行便はなく、タイのバンコクを経由していた。乗り換えを危惧して旅行社に問い合わせたところ、成田で乗ったら最後、飛行機から降りることはないということだった。
 
 そんなわけで、私は現地旅行会社のガイドと同様、デリーのインディラ・ガンディー国際空港で同じツアーのメンバーと対面、合流することになっていた。初めて降り立った当時の空港は、薄暗い上に冷房も効いておらず、国際空港とは思えないほど貧弱な印象を受けた。ここに比べたら、日本の地方空港はパラダイスだと思った。
 
 「今野さん!」
 
 誰かに呼ばれた気がした。その呼び方は明らかに日本人のそれだったが、インドに日本人の知り合いなどいなかった。ガイドブックの『不思議大陸インド』という言葉を、必要以上に意識しているに違いない。緊張しているのだろう。気のせいだ。
 
 「今野さんっ!」
 
 「はいっ!」
 
 私は思わず姿勢を正し、その大きな呼び声につられて返事をしてしまった。振り向くと、出迎えに来ているインド人達の中央二列目、さらにその真中のインド人男性と目が合った。
 
 「こっちです」
 
 その人はそう言って私を手招きした。
 
 人混みの中、その人からはぐれないように必死で後をついて行く。ひと気のない場所に出て、ようやく一息つくことができた。そして、私はそのインド人の顔をまじまじと見た。
 
 インド人を間近で見るのは初めてだった。周りのインド人男性同様、その人も鼻の下に髭をはやしていた。肌の色は褐色。インド人というと目が恐ろしく大きなイメージがあったが、彼の目の大きさは普通だった。二重瞼でほりが深く、長い眉に薄い唇。肌の色が白かったら、イギリス人と言っても通る顔だ。体形はスリムで足も長い。身長は170 cmくらいだろうか。よく見ると若い男性で、同年代のような印象を受けた。その人も私をまじまじと見ていたが、きりのいいところで口を開いた。
 
 「私は今野さんの観光を担当する『アショク・トラベル・サービス』の者です。すみませんが、同じバッジの男性を二人、捜してもらえますか?一緒に捜してもらえると助かります」
 
 「わかりました。で、その男性二人はペアですか?」
 
 「そうです」
 
 「年はどのくらい?」
 
 「わかりません。私のリストには性別と名字だけなので」
 
 そう言って、その人は私にそれを見せた。それはリストというより単なるメモで、ローマ字で名字が走り書きしてあるだけのものだった。その横にある大文字のMとWが、性別を表しているのだろう。しかし、こんなメモ1枚でよく当てられたものだ。インド人って大雑把な民族なのかしら。
 
 「一緒に捜すのはかまいませんが、スーツケースを持ってあの人混みに戻るのは…」
 
 「荷物は私達が見ていますから、安心してください」
 
 振り向くと、背の高い初老の男性がそこにいた。
 
 「はじめまして。千葉から参りました山田と申します。8日間、よろしくお願いします」
 
 「あっ、今野と申します。静岡県から参りました。じゃ、お願いします」
 
 「行ってらっしゃい」
 
 その男性に寄り添うように立っていた白髪混じりの女性が、そう言って私とそのインド人を送り出してくれた。
 
 それから数分後、私とそのインド人は男性二人を捜し当てた。
 
 ツアーのメンバーは、ソニーの若きエンジニアである永井さんと野田さん、ご主人がNTTにお勤めの山田さんご夫妻、それに現地旅行社のインド人ガイドとターバンを巻いたインド人運転手がついた。たった五人なのに、大型バスを使う気前の良さには驚いた。ただ冷房調節ができないため、早朝や夜の車内は冷蔵庫に閉じ込められているように寒かった。
 
それを除けば、楽しく、申し分のない旅だった。エンジニア二人組とは年が近いせいかすぐに打ち解けたし、山田さんご夫妻は一人の私を気遣って、朝食は必ず同じテーブルでとってくださった。私はいつのまにか山田さんのご主人を「お父さん」、奥さまを「お母さん」と呼んでいた。
 
人数の都合上、二人一組になる場合は、私はどうしてもガイドのアーミルさんと組むことになった。そのせいで、彼とはいろいろな話をした。アーミルさんはなかなかのハンサムで、私より3歳年上だった。物腰にも品があり、私は知的という言葉は、こういう人のためにあるのかもしれないと思った。女性には、当然ながらもてると思うが、男性にも一目置かせるような独特の雰囲気が漂っていた。
 
観光初日は8時にホテルを出発した。まず、オリッサ建築として名高いヒンズー教寺院、『ラクシュミー・ナラヤン寺院』を参拝した後、インド門で写真を撮り、ニューデリー駅へ向かった。ここからバラナシのムガル・サライ駅までは、列車で12時間だ。
 
インドの列車は特急、急行、普通の3種類があり、車両は6段階に分かれている。私達が乗る『シャタブディー・エクスプレス』という列車は特急列車で、日本でいう新幹線だ。車両は2Aと言われるエアコンつき二段ベッドの寝台車両。四人用のコンパートメントの上下に山田さんご夫妻と、永井、野田両氏、そしてその向かいの通路側二段ベッドの下がアーミルさん、その上が私ということだった。
 
困ったことに、この二段ベッドには梯子がなかった。しかもその高さはなかなかのもので、身長153cmで足の短い私に、どうやってよじ登れというのか。アーミルさんに交換してくれとお願いしたのだが、「下でみんなを見なければいけないから」と断られてしまった。スーツケースは下の寝台の下に置くしかないので、着替えることもできない。そんな私を気遣って、私の寝台にはお父さんが移ってくれた。
 
 四人用コンパートメントの上2寝台に永井さんと野田さん、下2寝台に私とお母さんという形でおちついた。昼食は昨夜の宿泊ホテルである『ホテル・カニシカ』のサンドイッチ弁当が、アーミルさんから配られた。食事が済むと、みんなは配布された毛布を被って寝てしまった。
 
私は寝台に腰掛け、窓から見える景色を眺めていた。どこまでも続く乾いた肌色の大地。時折現れる緑の森。そこかしこに咲きほこるブーゲンビリヤ。民家の外に干してある燃料(牛糞)や駅のチャイ(熱いインド紅茶)売り。色鮮やかなサリーをまとい、壷を頭上にのせて歩く女性達。お釈迦様の国インド、カレーの国インド、動物と人間が混在する国インド、私は今、インドにいるのだ。ガイドブックで見た風景が、そのまま目の前に展開していく。
 
 いつの間に眠ってしまったのだろう。気がつくと窓の外は真っ暗だった。毛布はたたんであったはずなのに、誰かがかけてくれたようだ。だが、四人ともイビキをかいて眠っていた。アーミルさんだけが寝台に腰掛け、本を読んでいた。
 
 「アーミルさん」
 
 「ああ、お目覚めになりましたか?でも、まだ着くまでに時間があります。寝てください」
 
 「アーミルさんは寝ないの?」
 
 「起きて皆さんの荷物の番をするのも私の仕事ですから。それに…」
 
 「それに?」
 
 「お客さんの中に若い女性がいますからね。今回の仕事はボディーガードも兼ねています。おかげで一睡もできません」
 
 「眠れないのを私のせいにするつもりね。いいわ。私はもう眠れそうもないし、今度は私が荷物の番とあなたのボディーガードをしてあげます」
 
 「私のボディーガードを、ですか?」
 
 「そう。あなたはハンサムですからね。眠っているうちに女性に襲われたら大変じゃない。ヘンな虫がつかないように、私がしっかりと守ってあげます」
 
 「危なっかしくて、ますます寝られませんよ」
 
 「どういうこと?」
 
 「だって、今野さんに襲われるかもしれないでしょ」
 
 「なんですって!言っておくけど、私は独身よ!襲うなら同じ独身の男性をねらうわ!アーミルさんは既婚でしょ!」
 
 「襲うなら独身、ですか。すごい趣味を持っていますね」
 
 「わ、私は純粋にアーミルさんを休ませてあげようと…」
 
 「私も独身ですよ」
 
 「えっ?」
 
 「ほら、指輪だってしてないでしょ」
 
 「結婚していても、指輪をしない人はいっぱいいるわ。それにどこの国の男の人も、旅先ではみんな独身って言うものよ。アーミルさんだって信用できないわ」
 
 「一人でインドへ来るくらいだから、今野さんが独身だというのはわかります。でも、結婚したことはあるでしょ」
 
 「失礼ね!私は結婚もしたこともなければ、男性と暮らしたこともないわ」
 
 「うそでしょ?今野さんが男性と暮らしたことがないなんて絶対うそ。信じられない」
 
 「それ、どういう意味?」
 
 「べつに怒ることないでしょ」
 
 「誰だって、失礼なこと言われたら怒るでしょ!」
 
 「…今野さんは愛する人がいたら、夫にしたいですか?それとも友達にしますか?」
 
 「そんなの、夫に決まっているじゃない」
 
 「私は…友達の方がいい」
 
 「どうして?」
 
 「奥さんっていうのは、いつも一緒にいるわけでしょ?一緒にいたくないときも、一緒にいなきゃならなくて…。だからいやになっちゃうし、飽きちゃいます。だから、私は友達の方がいい」
 
 「ふーん、そうなの?私、男の人と暮らしたことないから、そういうのってよくわからない。好きな人と飽きるくらい一緒にいてみたいものだわ」
 
 「また、そんなうそついて。隠すことないのに」
 
 「隠してなんかいないわ!勝手に決めつけないでくれる?」
 
 「どうして怒るんですか?私はあなたをほめているのに」
 
 「ほめている?アーミルさんの言っていることってメチャクチャよ。そうして永遠に寝ないで起きているといいわ。もう頼まれたって、荷物番もボディーガードもしてあげないから!」
 
 私はそう言って、勢いよくカーテンを閉めた。毛布を被って横になったが、眠ることはできなかった。しばらくしてカーテン越しにアーミルさんの方を覗くと、彼は腰掛けたままだった。だが、もう本は手にしておらず、床に視線を落としたまま、何やら考え込んでいる様子だった。
 
 変な人―。
 
 私は彼のことを単純にそう思った。私たちを乗せた列車は、定刻より30分遅れてムガル・サライ駅に着いた。
 

第3章 価値観の違い

イメージ 1
                          (朝焼けのガンジス川 インド・バナラシ)
 
 翌日は日の出前にガート(沐浴場)に向かった。ボートに乗って、対岸の火葬場や沐浴風景を見学するのだ。
 
 暗闇の中、細く迷路のような路地をアーミルさんの後について歩く。狭い路地は牛糞だらけで、踏まないで進むのは不可能だった。乾いている牛糞を捜し、踏んで進む。暗闇のせいか、大通りからガートまでの道のりがとても長く感じた。
 
  ガンジス川に辿りつくと、雲の間から小さな太陽が顔をのぞかせていた。私達を乗せたボートは岸からどんどん遠去かっていく。
 
 完全に夜が明け、朝がやってきた。ガートは、あっという間に沐浴をする人でいっぱいになった。火葬場にも布にくるまった遺体が、次々と運び込まれていた。遺体の灰は骨壷のような物に入れ、後で遺族が静かに川に撒くものだと思っていたが、火葬場のおじさんが、炭と化した薪ごと箒で掃き落とすのには驚いた。
 
 私達はボートで川を漂いながら、静かにその風景を見つめていた。アーミルさんが足元にあった真鍮の小壷を手に取り、蓋をとってガンジス川に浸した。それは彼の個人的な持ち物で、その水で毎朝沐浴をするということだった。身体をガンジス川に浸さずとも、その水を頭髪にかけるだけで、沐浴したことになるという。ヒンズー教徒は沐浴をすることで、その罪が洗い清められると信じているのだ。
 
 彼はその壷を川の水で満たしたあと、蓋をきつくしめ、再び足元に置いた。そして川の水を右手の人差し指と中指で少しだけすくうと、こめかみと頭髪のつけ根くらいの場所に、3回に分けてかけた。
 
 「アーミルさん、観光とは関係ないことを聞いてもいいですか?」
 
 沐浴を終えたアーミルさんに永井さんが話しかけた。
 
 「私でわかることでしたら何でもお答えしますよ。遠慮なくおっしゃってください」
 
 「インドの男性はどうしてみんな髭をはやしているんですか?」
 
 「そう言えばそうね。イスラム圏の男性は顔中が髭だらけの人が多いけど、インドではまちまちのような気がするわ」
 
 お母さんが会話に加わった。
 
 「アーミルさん、髭剃ったら?せっかくの美形が台無しよ」
 
 私が口をはさんだ。
 
 「絶対だめです!」
 
 「それはどうしてかね?」
 
 お父さんが聞いた。
 
 「インドでは、髭を生やしている男性がカッコいいとされているのです。インドで髭がない男性は、日本でいうオカマみたいなもんです」
 
 「じゃ、ハンサムで髭のない男性と、髭はあるけどハンサムでない男性とでは、どちらがもてるのかしら?」
 
 お母さんが尋ねた。
 
 「当然、髭がある方です。髭は男のクンショウみたいなもんなのです」
 
 私たちは呆気にとられ、目を見合わせた。突然ムキになり、真顔で『勲章』という日本語を選んだ彼に、私はふき出してしまった。
 
 「そこまで言うのなら徹底的にやらなきゃ。アーミルさんも、その髭を運転手のシンさんみたいにアゴまで伸ばすべきよ。中途半端はよくないわ」
 
 アーミルさんは私の言葉にムッとしたようだ。ばかにされたと思ったのだろう。
 
 「彼が髭を剃らないのは宗教的な理由からで、私達ヒンズー教徒みたいに単純ではありません。彼はシィク教徒です。シィク教には『男性は頭髪や髭を切ってはいけない』という掟があります。彼のターバンの下には長く束ねた髪が渦を巻いているはずですよ」
 
 「僕の中にあったインド人男性のイメージは、『黒々と髭を蓄えた顔にターバン姿』でした。でも、今回の訪印にあたって本とか読んで、それは一部の人だということを知りました」
 
 野田さんのその言葉に、アーミルさんの表情が和らいだ。
 
 「シィク教徒はインドの人口の2%くらいで、大半が交通、運輸、軍関係の仕事についています。私達ヒンズー教徒が食べる肉は鶏肉とマトンだけですが、シィク教徒は何でも食べます。だから、体格も立派な人が多いんです」
 
 「なるほどね。じゃ、僕も今日からアーミルさんに習って髭を伸ばそう。野田、おまえはどうする?」
 
 「もちろん伸ばすよ。インド女性にオカマだと思われたくないもんな」
 
 その言葉に、一同は笑い転げた。
 
 バラナシ観光の次は、仏陀が初めて説法をしたという仏教の聖地、サールナートへ行った。この地で仏陀の説法を聞いた五人の僧侶が、世界に仏教を伝えたと言われている。
 
 整備された遺跡公園には、ストゥーパ(仏塔)や寺院が立ち並んでいた。アーミルさんの説明を聞いた後、一時間ほど自由時間になった。私はざっとひと回りして、木陰の遺跡に腰掛けているアーミルさんの所に行き、となりに座った。
 
 「もういいんですか?」
 
 「ええ。暑くて干上がっちゃうわ。帽子もバスに忘れてきちゃったし…。ここでアーミルさんと一緒にみんなをまちます」
 
 「一人でツアーに参加するなんて、それもインドなのに、度胸ありますね」
 
 「そうですか?インドがそれほど特別だとは思えないけど。もっとも、フリーで旅行するとなれば話は別でしょうけどね」
 
 「ええ。インドでの女性の一人旅は勧めません」
 
 「アーミルさん、あの、突然だけど、アーミルさんはなぜ今の仕事を選んだの?目指していた仕事だったんですか?」
 
 「…というと?」
 
 「私、自分が本当にやりたいことが何なのかわからないの。ずっと捜しているんだけど、見つからないのよ。今の仕事はそれなりに楽しいし、充実しているし、向いているとは思うけど、一生の仕事だとは思えないの。そんなこんなで30歳になっちゃった」
 
 「私の場合は別にガイドになりたかったわけじゃなく、成り行きで」
 
 「成り行き?」
 
 「ええ。実は、私は政府で働いていたんです。出世競争が激しくて、毎日、家と会社の往復だけ…。もちろんそういう生き方が悪いとは言わないし、それはそれでひとつの生き方です。でも私はそういうふうに生きたくなかった。で、やめたんです。日本からの援助のお金も、彼らのふところに入ります。だからインドはなかなかよくならない」
 
 「どうしてこの仕事に?」
 
 「知り合いにこの仕事をしている人がいて…。今の仕事は、当時の仕事に比べれば体力的にもハードだし、給料もそのときの四分の一です。でも、いろんな人に会えます。いろんな感動があります。だから楽しいですよ、とっても」
 
 「楽しい…。それだけ?」
 
 「仕事を目的にするから、苦しいんじゃないですか?」
 
 「どういうこと?」
 
 「人間と動物と、どっちが偉いと思いますか?」
 
 「はっ?」
 
 「うーん。どう日本語にしたらいいのか…。つまり、人間は死んだら灰になって終わりです。特に、私たちヒンズー教徒はその灰をガンジス川に流されて、何も残らない。でも、動物は死んだら人間の食べ物になります。死んでもなお、与え続けます。だから、人間より動物の方が偉いんです」
 
 「あの、仕事の話と動物がどう関係あるのか、よくわからないんだけど…」
 
 「…日本の平均寿命は今80歳でしょ?インドは50歳です。それからいくと私はあと15年ちょっとしか生きられません。私には日本の銀座でインドレストランを経営するという夢があって、今、そのためにいろいろと勉強してます。それは叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。でも、それに少しずつ向かっていく過程がとても楽しいんです」
 
 「それってあと15年でその夢が実現できる保証がないってことでしょ?そんなのんきにかまえてあせらない?」
 
 「実現するとかしないとか、それは人間の範疇ではない。私達に…人間にできるのは努力だけです」
 
 「決めるのは、神様だって言いたいの?」
 
 「そうです。だから私は途中で死んでも後悔はありません」
 
 「動物のように与えて生きれば見えてくるってこと?」
 
 「そうです。仕事自体はたいした問題ではない。もちろんそこから学ぶことは沢山あるでしょうが、それは人生の中の小さな一部分に過ぎないと思います」
 
 「私…難しく考えすぎていたのかしら。仕事は夢に近づくための手段なのね」
 
 「人によっていろいろな考え方がありますが、私にとっての今の仕事はそんな感じです。だから、この仕事をずっと続けるつもりはない。あと2、3年でやめますよ。そして、夢と仕事を一緒にさせます。あなたが考えすぎだとは思わない。私が大雑把なのかもしれません。こう見えても、あまり深くは考えないタチなので」
 
 他の4人が戻ってきて、私達はバスに乗り込んだ。バスは一路、アーグラーへ向かった。マイクを片手に説明を続けるアーミルさんを見ながら、私は思った。
 
 たった3歳しか違わないのに、この人間としての違いはなんだ。
 
 私は自分がなさけなくなると同時に、人として少しでもこの人に近づきたいと思った。それには自分を磨かなくてはならないだろう。でも、どうやって?
 
私は彼の「人間より動物の方が偉い」という言葉に感動していた。

イメージ 1
                                          (タージマハル正門 インド・アーグラー) 
 
 アーグラーのタージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛する妃ムムターズ・マハルのために建てた白大理石の美しい霊廟だ。街の東側に位置し、ヤムナー川に沿うように建っている。敷地内へは東、西、南門から入れるようになっており、赤砂岩造りの正門をくぐると、水路が十字に敷かれたムガル式庭園が広がり、その先に4本のミナレット(塔)に囲まれたタージ・マハルが建っている。内外の壁一面には、コーランの文字模様やチューリップ、ユリなどの花が刻まれ、廟の東には迎賓館、西にはモスクが建つ。
 
 アーミルさんは中に入らず、私達だけの自由観光となった。正門に入ったとたん、カメラを首にかけたインド人数人に取り囲まれた。タージ・マハルをバックに記念撮影をしないかというわけだ。値段は一枚1,000円。当然、無視を決め込み、庭園の中をタージに向かって歩き出す。「カメラ持込み料を払って観光しているのだから必要ない」と断っても、全く聞く耳を持たない。「シャッターを押しましょう」だの、「説明してあげます」だの、とにかくしつこい。周りを見回すと、静かに観光しているのはカメラマン付きの観光客だけだということに気がついた。
 
 そういうことなら仕方がない。「気に入らなかったら買わなくてもいい」と言われたが、一枚は買うと約束した。その代わり観光の邪魔はしないこと、また、邪魔してくる物売りがいたら追い払うこと、ポーズをとる気はないので勝手に撮影すること、と注文をつけた。
 
 タージ・マハルの次は、アーグラー城に出掛けた。ムガル帝国のアクバル大帝が築いた赤砂岩の城だ。ここにカメラマンはいなかった。城内が広すぎるため、たまたま遭遇しなかっただけかもしれない。
 
 その日は早めに観光が終わり、夕方5時にはホテルに戻ることができた。いつもはシンさんと食事をとるアーミルさんが、その晩は珍しく私達と一緒に食事をとった。
 
食事が終わった後も、アーミルさん、永井さん、野田さん、お父さんの四人は政治やビジネスの話で盛り上がり、そばで聞いていた私とお母さんは全然楽しくないので、二人でホテルの庭を散歩することにした。
 
 「美咲ちゃん、アーミルさんとだいぶ気が合っているみたいね」
 
 「逆ですよ。アーミルさんたら、私を怒らせるようなことばかり言って。今日もけんかしました」
 
 「でも、とても楽しそうに見えるわ」
 
 「アーミルさんと話していると、いろいろと勉強になります。考えさせられるというか…。あれでひと言多くなければ、最高なんですけどね」
 
 「最高の男性だと思うのね」
 
 「はい?」
 
 「余計なことかもしれないけど、アーミルさんはやめた方がいいわ」
 
 「どういうことですか?」
 
 「彼は魅力的よね。人間としてだけではなく、ひとりの男性としても」
 
 「ええ、まあ」
 
 「あれほどの男性を女性が放っておくはずがないわ。彼が独りなわけないでしょう」
 
 「独身、と言っていましたけど」
 
 「彼は結婚していると思うな」
 
 「あの…アーミルさんが結婚しているとか、していないとか、私と何の関係があるんでしょうか?」
 
 「気づいてないのね」
 
 「何がですか?」
 
 「気づいていないなら、その方がいいわ。あなたのためにもその状態が続くことを祈るわ」
 
 私は答えに詰まってしまった。
 
 お母さんの言い方だと、まるで私がアーミルさんに恋をしているみたいではないか。確かにアーミルさんと話していると楽しい。気は合うと思う。でも、それだけだ。好きならときめくはずだし、私だって最初から本性丸出しで接したりはしない。アーミルさんだってそうだ。年もたいして違わないくせに、話の最後にはいつも私を子供扱いする。男とか、女だとかいうレベルではない。それ以前の問題だ。
 
 「気に障ったのならごめんなさい」
 
 「あ、いいえ。でも大丈夫ですよ。本当にそんなんじゃありませんから」 
 
 「そうね。私の気のまわしすぎよね。私達は…部屋に戻る?彼らの話は終わりそうもないし」
 
 「そうしましょう。明日も早いですし」
 
 私とお母さんはエレベーターに乗り、それぞれの部屋に戻った。
 
 翌朝聞いたところによると、彼らは夜中の一時頃まで話をしていたそうだ。待っていなくて正解だった。
 
 ホテルをチェックアウトし、再び観光が始まった。午前中は、水不足と猛暑のため、わずか14年間しか使われなかったというかつてのムガル帝国の都、『ファテープル・スィークリー』を観光し、午後はラジャスタン州の州都ジャイプールへの移動に費した。
 
 ホテルに到着後、夕食までの空き時間を利用して、アーミルさんは私達を宝石店に案内した。ジャイプールは宝石の街として有名なのだ。
 
 お母さんはお父さんにスタールビーをおねだりしていた。エンジニア二人組は恋人募集中なので必要ないとのこと。二人は店内のソファーに座り、店員から出されたコーラを片手に、『地球の歩き方』をペラペラめくって話し込んでいた。
 
 アーミルさんは店のオーナーらしき年配の男性と話をしていた。私はと言えば、宝石は男性に買ってもらうものと決めているため、買う気はない。とはいえ、宝石が嫌いな女性などこの世にいるはずもなく、私とて例外ではない。私はケースの中にある宝石を、ぼんやりと眺めていた。
 
 「マダム」
 
 アーミルさんと話をしていたおじさんが、私をそう呼んで手招きした。おじさんはいそいそとやってきた私に、手前の椅子に座るよう促した。私が言われたようにすると、おじさんは向いの椅子に腰掛け、となりにいるアーミルさんに耳打ちをした。アーミルさんは一瞬眉をしかめた後、私に向かって口を開いた。
 
 「この人はこの店のオーナーです。今野さんにお勧めの指輪があるので、ぜひ見せたいと言っています。どうしますか?」
 
 「私、買う気ないからいいです」
 
 「このオーナーは、ジャイプールでも有名な占い師です。彼の占いはよく当たります。いいことも、悪いことも言ってくれます。そして、悪いことを避けられるように、宝石を持つことを勧めます。その人に合った宝石が魔除けの役割をするのは本当ですが、私は今野さんに無理強いする気はありません。今野さんが宝石を買うよう協力しろと言われましたが、私はそういうことはしたくありません。もちろん手相を見てもらったからといって、宝石を買わなければいけないということはありません。だから手相だけ見てもらって、宝石は断ればいい。でも、純粋に欲しいと思ったのなら、その時は買ってください」
 
 「わかったわ」
 
 「私の顔を立てて、彼の差し出す宝石箱には一通り目を通してもらえますか?」
 
 「もちろんよ」
 
 アーミルさんも椅子を持ってきて、腰を落ち着けた。オーナーはニッと笑って、私に両手を差し出すよう促した。私は指示に従った。
 
 「まず仕事のことですが、身体のあちこちがかなり悪いです。非常に疲れやすいですね」
 
 「ええ。肩こりがひどいです」
 
 「ハードな仕事は無理です。そうでなければ、どんな仕事もソツなくこなせるでしょう」
 
 「次に恋愛と結婚についてですが、今独身ですね?」
 
 「そうです」
 
 「あなたはまだ若い、20代前半に運命の男性と会っていますね」
 
 「えっ」
 
 「とても愛し合っていた。その人はとてもやさしい人でしたね」
 
 「はあ…」
 
 「でもその人とは悲しい別れをしましたね?」
 
 「えっ」
 
 「どうして結婚しなかったんですか?」
 
 アーミルさんが通訳がてら口をはさんだ。私は一瞬口ごもってしまった。
 
 この占い師はなかなか鋭いところをついている。このまま続けたら、通訳を通して私の過去を知られてしまうかもしれない。
 
 でも、だったらどうだというのだ。彼は単なるガイドで私は客。それも八日間一緒にいるだけの。日本へ帰れば二度と会うことはない人だ。それに、私とアーミルさんとはなんでもない。だから、知られたところで別にかまわないのだ。
 
 「事故で亡くなったのよ。お姉さんの子供が道に飛び出して、その子をかばって自分が代わりに。彼は30歳だった」
 
 アーミルさんは絶句した。目を見開いたまま黙っている。オーナーがアーミルさんの腕をつつき、ヒンディー語で話を続けた。
 
 「あなたはそれ以来、運命を感じる男性とは会わずにきましたが、独りの生活もじきに終わるでしょう。35歳で結婚し、子供は2人生まれます」
 
 「ほんとっ?じゃあ、私は結婚できるのね?お母さんになれるのね?」
 
 「当たり前でしょ。どうしてそんなことを言うんですか?」
 
 「それ以来、本気で愛せる男性に巡り逢っていません。だから、もう無理だと。私は一生独りかもしれないと思っていたので」
 
 「そんなことっ!」
 
 アーミルさんは、怒ったように私を振り返った。
 
 「そんなこと?」
 
 私はアーミルさんの目を静かに見て問い返した。私達の目が合った。
 
 「そんなこと…ないですよ」
 
 アーミルさんはそう言って私から目をそらした。
 
 アーミルさんの言う通り、オーナーはその後、豪華な指輪が入った箱をいくつも店員に持ってこさせ、私に勧めた。私はエメラルドを持っていると幸せになれるのだそうだ。だが、私は丁重に断り続けた。店を後にする時、「気が変わったら連絡をください」と言って名刺をよこしたので、一応笑顔で受け取っておいた。
 
イメージ 1
                  (ビルラ寺院 インド・ジャイプール)
 
  その夜、私は昔のことを思い出していた。彼と交した言葉のひとつひとつを。いつまでもその幸せが続くと信じていた。そして、あの運命の日…。彼の眠ったような死に顔が、瞼の奥に浮かんで消えた。
 
 私はパジャマから洋服に着替え、ホテルのロビーに降りていった。時計は12時をまわったところだった。客の姿はなく、リチャード・クレイダーマンのBGMが流れていた。
 
 フロアーにはグランドピアノが一台置いてあった。フロントで弾いてもいいかと訪ねたら、オーケーしてくれた上に、BGMまで止めてくれた。ちょっと照れくさかったが、私とフロントマンの3人だけだ。
 
 私はノクターンを弾きはじめた。もう何年も弾いていないので、ひどい演奏ではあったが、おかげでだいぶ心がおちついてきた。演奏が終わると、フロントマン2人が拍手してくれた。私はスカートの両端をつまむ仕草をして、軽くおじぎをした。
 
 「上手なんですね」
 
 ふりむくと、アーミルさんが後ろのソファーに座っていた。
 
 「いつからいたの?」
 
 「弾きはじめたくらいから」
 
 「眠れないの?」
 
 「つらいこと思い出させてしまって…悪いことしました。ごめんなさい」
 
 「どうして?あなたはただ通訳しただけでしょ?占いなんだし、誰も何も悪くないわ。それにつらい思い出ばかりじゃない。楽しいこともたくさんあったのよ。幸せもたくさんもらったわ」
 
 「どんな人…だったんですか?」
 
 私はピアノから離れ、アーミルさんのとなりに腰掛けた。
 
 「私は高校を出てすぐに就職したの。彼は私が所属する部署の責任者で、私は彼から仕事を教わった。私は二人姉妹の長女だから、『お兄さん』という存在に憧れていて…。だから、彼は私にとって最初は兄のような存在だったの。私は彼に何でも相談した。仕事以外のプライベートなことも全て。彼の前では私は素直でいられたわ。出会ってから半年たって、私達はコンビを組んで仕事をすることになった。二人の距離はそれで急速に縮まったの」
 
 「とてもやさしい人だった?」
 
 「ええ。人にはいろいろな死に方があるけれど、人を助けて自分が代わりに死ぬなんて、あの人らしいわ。やさしいあの人に、最もふさわしい死に方だったと思ってる。だから、私はお姉さんの子供を恨んではいないの。あれが逆だったら、彼はそばにいて助けられなかった自分を一生責め続けたと思う。そういう人なのよ。どちらかが死ななければならなかったとしたら、あれでよかったのよ」
 
 「結婚の約束はしていたんですか?」
 
 「…プロポーズはされたけど、はっきりと返事はできなかった。私は社会に出たばかりで、これからの自分をいろいろと試してみたかった。当時は結婚したら女性が家庭に入るのは当たり前で、共働きなんて少数派だったし…。彼がそれを望んでいるのは何となくわかっていた。だから、私はまってくれと答えるしかなかった」
 
 「その人が亡くなってから、誰ともつき合わなかったんですか?」
 
 「まさか。食事をしたり、デートするくらいの人はいたわ」
 
 「どうして結婚しなかったんですか?」
 
 「にせものはいらないから」
 
 「にせもの?」
 
 「ええ。恋人でも夫婦でも、どちらかの気持ちの方が強いでしょ?最終的に同じ強さになる場合もあるけれど、最初から同じ強さで求め合う組み合わせって、なかなかないと思うの。私と彼はお互いに一目惚れだった。告白なんかしなくても、お互いの気持ちはわかっていた。別に亡くなった彼に義理立てして独身を通しているわけじゃないの。ただ、同じ強さで求め合う喜びを知ってしまったから、そんなふうに愛し合える人とでないとだめなのよ。あのときのように、あんなふうに誰かを愛してみたい。それが私にとっての本物だと思うから」
 
 「今でも…愛しているんですか?」
 
 「わからない。もう何年も会っていないから。でも天国へ行って、そこで彼がまたプロポーズをしてくれたら、イエスと言うでしょうね。彼は亡くなる前にこう言ったわ。『僕は君をわすれない。たとえ君が僕をわすれても、僕は君をわすれない』って。なぜ、そんなことを言ったのか。私が彼をわすれることなんて、絶対にあり得ないのに。私がもし結婚するとしたら、彼と同じくらいか、彼以上に愛せる人でなければだめだと思う。それに…」
 
 「それに?」
 
 「私は男の人を知らないの。彼は本当に好きだったら、心だけでなく身体も、相手のすべてがほしくなると言ったわ。私は彼のことは好きだったけど、そんなふうに男性を求める気持ちがわからなかった。子供だったのね。彼は、私が自然にそういう気持ちになるまでまつと言ってくれたわ。彼とだってそんな感じだったのよ。だから、そういう気になれる人が次の運命の人かもしれないわね」
 
 「結婚したことがあるなんて言ったこと、あやまります。でも、それはあなたの男性経験がどうのといった低レベルなことじゃなく、大人の女性だという意味で言ったんですよ」
 
 「ありがとう。でも私はまだ大人の女じゃないわ」
 
 「あなたは充分大人の女性ですよ。そんなことはたいしたことじゃない」
 
 「そうかしら。でも知りたいわ。愛する人に抱かれるってどんなかしら。愛する人と身も心も分かち合うなんて、きっと幸せな気持ちで満たされるんでしょうね」
 
 「本当に愛する者同士であれば、そうでしょう。でも、世の中の人全部が愛する人と結ばれるわけではない。どんなに求めても得られない場合もある。たとえ手が届くほど側にいたとしても」
 
 「今夜のあなたはとても素直ね。失礼なこと言わないし」
 
 「インドでは…結婚は親が決めます」
 
 「今どきそんなことってあるの?信じられないわ。自分が一生を共にする人なのよ。人生の三大イベントは出生、結婚、死亡でしょ?そのうち自分で決められるのは結婚だけよ。そんなの間違っているわ。自分で選ぶべきよ。あなただってそう思うでしょ?」
 
 「思います。でもインドではそういうことになってます」
 
 「それでも自分で選ぶ人だっているでしょう?アーミルさんは独身だし、これからじゃない。私はあなたにそういう結婚をしてもらいたいわ。人生、愛する人がそばにいた方ががんばれると思うの。アーミルさんの夢を叶えるためにも、ね?」
 
 アーミルさんはそれに対して何も答えなかった。

第6章 恋の嵐

イメージ 1
                                             (ジャイガール要塞 インド・ジャイプール)
 
  ラジャスタン州の州都ジャイプールは、駅周辺の新市街と『ピンク・シティ』と言われる旧市街とに分かれている。かつて街の建物の色は灰色であったが、1883年、アルバート王子(イギリス)の来訪をきっかけに、歓待を表すピンク色に塗り替えられた。今日もそれは続けられている。
 
 ジャイプールの旧市街は約13kmの壁と8つの門に囲まれ、通りはすべて碁盤の目のように交差している。主な見所としては、石造りの測定器が並ぶ天文台『ジャンタル・マンタル』、マハラジャの宮殿『シティ・パレス』、かつて宮殿の女性が姿を隠しながら外を見るために建てられたという『風の宮殿』、全体が白大理石で造られ、その彫刻の美しさで知られるヒンズー教寺院『ビルラー・ラクシュミー・ナラヤン寺院』などがある。
 
 昼食後、ジャイプールから北へ11km先にあるアメール村へ向かった。途中、右手に連なる山並みの下に、土のひび割れた平原が広がっていた。その中央に建つ建物は『水の宮殿』と言われ、かつてのマハラジャの夏の別荘である。この平原はじつは湖で、今は乾季のために干上がっているのだった。
 
 アメール村の小高い丘の上に築かれた『アンベール城』は観光のハイライトであり、観光客のほとんどが象のタクシーを使って城まで登る。
 
 最初は象乗り初体験に浮かれていたのだが、さすがののろさに日焼けした腕がひりひりと痛み出し、うんざりしてしまった。半袖のTシャツにしたのは失敗だった。ようやく城内に辿り着くと、手を振るアーミルさんの姿が見えた。
 
 私達を象に乗せて見送っていたアーミルさんが、どうして先にそこにいるのか。何のことはない。ジープで先回りしたのだった。
 
 城内は、象の頭を持つガネーシャ神が描かれたカラフルで美しい門『ガネーシャ・ポール』、天井や壁に無数の鏡をはめ込んだ鏡の間『シーシュ・マハル』、王の寝室である『スーク・ニワス』など見所も多く、展望も素晴らしかった。帰りはジープでバスまで戻り、一路デリーに向かった。
 
 デリーでの宿泊ホテルは初日に泊まったホテル・カニシカだった。その日の夕食は16階にあるレストラン『マンダリン・ルーフ・トップ』で、市街の夜景とライヴ音楽を鑑賞しながらのディナーだった。
 
 お父さんの提案でアーミルさんも一緒にということになり、楽しい晩餐になった。アーミルさんは私達に自分の夢を熱く語った。
 
 「まずは日本に行く飛行機代を貯めないと。片道で40万ですからね。今、一生懸命貯金してます」
 
 「インドに格安航空券ってないんですか?」
 
 野田さんがアーミルさんに尋ねた。
 
 「ありません。インドではまだ、生まれてから死ぬまで自分の生まれた土地を出ることがないのが普通です。海外旅行なんてひと握りの金持ちしかできません。その人達だって、旅行というよりはビジネスで行くのがほとんどです」
 
 「日本の物価の10分の1だからなあ、インドは。日本でならともかく、インドで40万はきついよな」
 
 永井さんがそう言ってため息をついた。
 
 「でも、どうして銀座なの?店舗を借りるだけでもすごい額よ」
 
 「わかっています。でも夢は大きい方がいいと思って」
 
 お母さんの質問に、アーミルさんは笑顔で答えた。
 
 「そりゃそうだ。男ならそうこなくっちゃな。いざ日本に上陸する時は必ず連絡しなさい。たいしたことはできんかもしれんが、それまで私もヘソくりを貯めておこう」
 
 お父さんがそう言って、となりに座っているアーミルさんの肩を力強く抱く。
 
 「あら、あなた。どうやってヘソくるの?大好きなお酒をやめて、その分をアーミルさんへのご祝儀に充てるのかしら?だとしたら感心だわ。ぜひそうしてちょうだい」
 
 「い、いや。それは…」
 
 一同にドッと笑いが起こった。そうして時間は過ぎていった。
 
 「じゃ、私はこれで失礼します。今日は家に帰りますので、何かあったらフロントに電話してください。そうしたらホテルから私の所に連絡が入って、すぐにとんできますから」
 
 そう言って席を立ったアーミルさんに、お父さんがお金を渡した。
 
 「山田さん、何ですか、これは」
 
 「今日、君は家で夕食をとるつもりだったんだろう?私のわがままで、君を引き止めてしまった。これは今日の君の夕食代だよ。取っておいてくれ」
 
 「そんな…私の意思でご一緒したんです。私もすごく楽しかった。だから受け取れません」
 
 「アーミルさん、主人はみんなの前でカッコつけたいのよ。受け取ってあげて」
 
 「でも、これは多すぎます」
 
 「じゃあ、こうしよう。君が銀座にインドレストランをオープンしたときは、タダで私を招待してくれ。だったらいいだろう?」
 
 「そういうことなら」
 
 「じゃ、明日もよろしく頼むよ」
 
 「はい」
 
 そう言って、お父さんはアーミルさんの手を強く握った。野田さんと永井さん、そして私は思わず拍手してしまい、お互いに顔を見合わせてしまった。
 
 私達はそれぞれの部屋に戻った。私は翌日の支度を終え、のんびりとバスタブに浸かった。
 
 明日でインドともお別れ。あっという間だった。夢を追うアーミルさんが羨ましい。私も自分の夢を見つけ、あんなふうに誰かの前で熱く語ってみたい。アーミルさんは与えて生きることで夢に出会えると言ったけれど、与えて生きるってどういうことかしら。どうも彼の言うことって難しい…。
 
 バスタブのお湯を抜き、シャワーでシャンプーを済ませ、お湯を止めようとレバーを下に引いた。だが、お湯が止まらない。上にしたり下にしたり、交互に動かしている間にレバーはグラグラになってしまった。
 
 なんということだ。お湯があふれる心配はないが、一晩中出しっ放しというのもおちつかない。フロントに電話するには何番を回せばいいのだろう。電話の横に置いてある案内表を開いたが、『フロント』という言葉がない。ああ、もっと英語を勉強しておくんだった。
 
 私は服を着ると、髪に軽くタオルドライをした程度でロビーに降りていった。フロントマンに伝えようにも、英語でどう言うのかわからない。ゼスチャーを交えながら「ホットシャワー」と繰り返すだけだった。強引に手を引いて彼らを連れて行き、部屋に入れるのも危ない気がした。
 
 「どうしたんですか?」
 
 アーミルさんだった。
 
 「帰ったんじゃなかったの?」
 
 「ああ、帰ろうとしたら知人とバッタリ会って。あんまり久しぶりだったんで、ロビーで話しこんでしまったんです。今帰るとこ」
 
 「そうだったの。でも、ちょうどよかった。大変なの。お湯が止まらなくなっちゃって」
 
 「じゃ、今も出っ放し?」
 
 「そうなのよ。上げたり下げたりしていたら、レバーがばかになっちゃったみたい。こわしてしまったかもしれない。弁償って言われたらどうしよう」
 
 アーミルさんはふき出した。
 
 「弁償はありえませんから安心して」
 
 アーミルさんはそう言うと、フロントマンにヒンディー語で何やら話した後、私に一緒に部屋に戻るよう促した。二人で部屋に入り、バスルームのドアを開けると、中は霧が立ち込め、サウナと化していた。アーミルさんは私がやったようにレバーを上げたり下げたりしたが、結果は同じだった。
 
 「どうかしら?」
 
 「大丈夫ですよ。こういうことはたまにあるんです。すぐになおりますよ」
 
 部屋のインターホンが鳴り、アーミルさんが出た。修理工らしき男性が二人、ペンチとドライバーを持って立っていた。アーミルさんは彼らをバスルームに入れ、ヒンディー語で話をしたあと、一人で出てきた。私はベッドに、アーミルさんは机の椅子に腰掛け、修理が終わるのをまった。
 
 「あの人たちがいる間は…アーミルさん、ここにいてね」
 
 「もちろんです。私はあなたのボディーガードですから」
 
 「帰るの、遅くなっちゃうわね。ごめんなさい」
 
 「どういたしまして。あとでタップリ残業手当もらいますからね」 
 
 「えっ」
 
 「冗談ですよ。今野さんはすぐ本気にするんだから」
 
 男達がバスルームから出てきた。アーミルさんが中に入って確認をし、私を手招きした。レバーは元通りになっていた。彼らが帰るのと入れ違いに、ホテルマンが新しいタオルとバスタオルを持ってきてくれた。
 
 「はっくしょん!」
 
 私が軽くくしゃみをすると、アーミルさんは乾いたバスタオルを私の頭にかけ、ごしごしと髪を拭き始めた。
 
 「ちゃんと乾かしてから来ればよかったのに」
 
 「だって、バスルームは湿気がすごくて、ドライヤーなんて使えないでしょ」
 
 「ドライヤー、日本から持ってこなかったんですか?」
 
 「持ってきたけど」
 
 「だったらそれをテレビとか机の照明とかのコードを抜いて、つなげばいいことでしょ?」
 
 「ああ、そうね。そうよね。私って何てばかなのかしら」
 
 「ほんと、抜けているんだから」
 
 「抜けてなんかいないわ。慌てていただけよ」
 
 「素直じゃありませんね」
 
 「言ったわね!」
 
 私はそう言って、アーミルさんの腕を叩こうと勢いよく手を振り上げた。だが、アーミルさんにうまくかわされてバランスを崩し、それを支えようとした彼の腕にすべり落ちてしまった。
 
 どのくらいそうしていたのかわからない。おそらく数分だったと思う。だが、私にとっては時が止まったかのようだった。
 
 彼を強く抱きしめたわけではない。そのまま彼の腕の中にいただけだ。彼も私を強く抱いたわけではない。ただ、私の肩にそっと手をのせ、支えていただけだった。
 
 彼の白いワイシャツから心臓の音が伝わってきて、私はなぜかむしょうに悲しくなってしまった。
 
 涙が、頬を伝って落ちた。
 
 「なぜ、泣いているんですか?」
 
 アーミルさんは身体を離し、私の顔をのぞき込むように笑顔でたずねた。
 
 「わからない」
 
 私はそう言って目をそらした。
 
 「自分のことなのに、わからないんですか?」
 
 「そうよ。悪い?」
 
 「悪くないけど…」
 
 しばらく沈黙が続いた。
 
 「友達が…」
 
 「えっ」
 
 「友達が日本の女性と結婚して、今九州にいます」
 
 「九州に?」
 
 「日本に行って…彼はインドを嫌いになっちゃった」
 
 アーミルさんはそう言うと、何やら考え込んでしまった。
 
 「アーミルさん?」
 
 アーミルさんは足元に落ちていたバスタオルを拾うと、私の頭にかぶせた。
 
 「あなたにはきっとサリーが似合う」
 
 「そう思うならプレゼントしてくれてもいいけど…」
 
 彼はそれに対して静かに笑っただけだった。そして、そのまま戸口に向かった。
 
 「アーミルさん!」
 
 私の右手はアーミルさんの左腕をつかんでいた。アーミルさんはその手を取ると、両手で強く握りしめた。そして、私を見て言った。
 
 「ありがとう」
 
 その目は悲しそうだった。なぜかはわからないけど、ただ悲しそうだった。
 
 「帰ります」
 
 アーミルさんが部屋を出ていった後、私はその場に立ちつくしていた。
 
 私はたまらなくなって部屋を出た。廊下に、彼の姿はなかった。
 
 ようやく上がってきたエレベーターに乗り込み、減っていく数字をじっと見つめる。5、4、3…。私は何をしているの?追いかけてどうするつもり?わからない。自分が何をしようとしているのか。ただ、朝まで彼と一緒にいたい。彼から離れたくない。
 
 ロビーに到着したエレベーターが開いたとき、アーミルさんはちょうどホテルを出ていくところだった。そして、その白い後姿は夜の闇に消えた。
 
 あなたがほしい―。
 
 彼の背中にすがりつき、そう言いたかった。でも、言えなかった。

第7章 夢の扉

イメージ 1
                            (フマユーン廟 インド・デリー)
 
 翌朝は、インターホンの音で目が覚めた。パジャマ姿でドアを開けると、お母さんが立っていた。
 
 「美咲ちゃん、ひょっとして今起きたの?」
 
 「はい。どうされたんですか?」
 
 「集合時間になっても現れないから、呼びにきたのよ。みんな心配してるわ」
 
 「えっ、集合時間?今、何時ですか?」
 
 「8時15分をまわったところよ」
 
 「ええっ!」
 
 「三食しっかり食べるあなたが、いつもの時間にレストランに来なかったから、おかしいとは思ったのだけど…。こんなことならその時に声をかければよかったわ」
 
 「す、すぐに支度します!」
 
 「あわてなくてもいいわ。みんな、あなたの具合が悪いんじゃないかって心配してたの。そういうことなら安心だわ。じゃ、ロビーでまっているから。あわてて部屋に忘れ物しないようにね」
 
 荷物は昨夜のうちに整理しておいたので、脱いだパジャマをスーツケースに放り込むだけだったが、着替えに化粧、歯磨きと、それでも30分もかかってしまった。
 
 「やあ、きたきた」
 
 「おっそよう!」
 
 「美咲ちゃん、寝坊したんだって?」
 
 「あなた、気にしているんだから、そういうこと言わないの!」
 
 「も、申し訳ありませんでした!」
 
 「これで皆さんそろいましたね。じゃ、スーツケースはそこに置いたまま、手荷物だけ持ってバスに乗ってください」
 
 スーツケースがバスに運ばれている間、私はバスの外で運転手と話をするアーミルさんを見ていた。私の視線に気づいたアーミルさんがいたずらっぽく笑う。私はアカンベーをして見せた。
 
 いつものアーミルさんだ。昨夜のあれは一体何だったのだろう。ひょっとして夢だったのかしら。
 
 再び観光が始まった。最終日の今日は、デリー市内観光だ。まず、ムガル帝国の第2代皇帝フマユーンの都城である『プラーナ・キラー』を訪ねた。16世紀の半ばに建てられた城と石積みの城壁は当時のままだ。城内にはフマユーン帝が図書館として利用した八角形の塔や、ローディ様式のモスクが残されている。城門の前には、プーリー(インド式揚げパン)やサモサ(インドコロッケ)を売る店、ミネラルウォーターなどのドリンク類やカットフルーツを売る店、絵はがきを売る店など、たくさんの露店が並んでいた。
 
 みんながそれらを物色している間、私は城門の前でポーズをとり、私のカメラをかまえたアーミルさんが、「もう少し右」だの、「もう少し左」だのと私に指示を出していた。そこへお父さんがやってきて、アーミルさんから私のカメラを取り上げた。
 
 アーミルさんが、私のところに走ってきて言った。
 
 「山田さんが私と今野さんを撮ってくれると言っていますが、どうしますか?」
 
 「私はべつにいいわよ。アーミルさんは?」
 
 「私もべつにかまいません」
 
 「じゃ、決まりね」
 
 「どんなポースにしますか?」
 
 「そうね。私がマハラニ(王妃)で、あなたが家来っていうのはどう?」
 
 「私にひざまずけということですか?」
 
 「そうよ」
 
 「いやですよ。私がマハラジャ(王)であなたが家来です」
 
 「なんですって!」
 
 結局、私の後ろにアーミルさんが寄り添うような形で、私達はカメラにおさまった。
 
 次は、世界遺産として知られる『フマユーン廟』を観光した。フマユーンの王妃ハージ・ベグムが、亡き夫のために9年をかけて完成させた廟で、初期ムガル建築の傑作である。西側の入口を入ると、『チャハール・バーグ』と呼ばれる正方形の庭園が広がり、一面に敷かれた芝は小道によって四方に分割されている。
 
 ここから見る廟はどこから見ても同じ形に見えるように設計され、廟を囲むテラスからは、廟の北側に建てられた王族達の墓を見ることができる。廟の内部はとても涼しく、透かし彫りの施された大きな窓から、外光が差し込んでいた。
 
 一周して西門に戻ると、アーミルさんが欧米人らしき男女4人と談笑していた。アーミルさんは私に気づくと、彼らに手を振り、私のところにやってきた。
 
 「みんなはどうしたんですか?」
 
 「まだ廟の中にいるわ。観光というより涼んでるって感じね、あれは」
 
 「まだたっぷり時間ありますよ」
 
 「私はもういいの。それに、ここだって同じくらい涼しいし。でも驚いたわ。アーミルさんって英語もしゃべれるのね」
 
 「ええ。それが何か?」
 
 「すごいなあと思って」
 
 「別にたいしたことじゃありません。それにうちの会社は、今は日本のお客さんが中心ですが、2、3年前まではヨーロッパやアメリカのお客さんが半分を占めていました。この仕事を始めたばかりの頃、ツアーが終わって家に帰ったとき、すんなりヒンディー語が出てこなくて困ったことがあります。家で困るのはいいんですが、仕事中に言葉をど忘れしたら大変です。今ではすっかり慣れて、そんなことはなくなりましたが」
 
 「外国語ができる人って、話しているときだけじゃなく、頭の中も外国語で考えてるっていうけど…」
 
 「そうですね。現に今は日本語で考えて、日本語で話していますね」
 
 「あなたの日本語は発音も完璧で、目を瞑って聞いていたら誰もインド人がしゃべっているなんて思わないわ。日本に留学でもしていたの?」
 
 「いいえ。日本に行ったことは一度もありません」
 
 「どれくらい勉強したの?」
 
 「4年です」
 
 「成り行きで始めた仕事でしょ?それも生きていくための手段にすぎないんでしょ?よく4年もがんばれたわね」
 
 「途中で夢を見つけましたからね。日本語をクリアすることは、それを実現するための第一目標になりました」
 
 「夢…か。素敵な言葉よね。私も夢を見つけたいわ」
 
 「すぐに見つかりますよ」
 
 「そうかしら。あなたに『動物に学べ』と言われて数日たったわ。インドで牛を見るたびに、真剣に考えたものよ。でも、何も閃かなかったわ」
 
 アーミルさんはふき出した。
 
 「それで、恐い顔して牛を見ていたんですね。牛を見たところでひらめくわけがないでしょ」
 
 「私だって、牛が教えてくれるなんて思ってないわ。ただ、あなたの『与えて生きる』という言葉の意味が、いまひとつわからなくて」
 
 「私の説明の仕方が悪かったようですね。『与えて生きる』というのが難しいなら、『感謝して生きる』に置き換えてもいい。私は人生に偶然はないと思っています。今野さんと私が出会ったことも、こうして話をしていることも、出会いには必ず意味があります。私はあなたに出会えたことに感謝している。あなたからいろいろなものをもらった」
 
 「私は何も与えていないわ」
 
 「あなたにそのつもりがなくても、私は受け取ったんです」
 
 「ますますわからなくなってきたわ。禅問答しているみたい。あなたの家ってバラモン(カーストの最上位=僧侶階級)?」
 
 「ちゃかさないで。簡単なことですよ。見返りを望まないというのかな。例えば、プレゼントをしても相手からほしいと思わないような。そういう単純なことでいいんです」
 
 「世の中は、みんながギブ&テイクになるのが理想でしょう?」
 
 「いいえ、ギブ&ギブです」
 
 「キリストや仏陀じゃないのよ。親の子供への愛はそうかもしれないけど、恋愛は違うでしょ?」
 
 「うーん、理想としてはそうありたいと思っていますが、その分野に関しては、年齢的な助けがないと苦しいかもしれませんね」
 
 「仏教ではそういうのを『煩悩』っていうのよ」
 
 「あなたもなかなかバラモンらしくなってきましたね」
 
 「ちゃかさないで。でもプレゼントの話に関して言えば、私にもできそうよ」
 
 「私の夢はこれからの人生の中にあった。人によっては、今までの人生の中にある場合もあります。今野さんの夢はどっちでしょう?」
 
 「さあ、でもきっと見つかるわ」
 
 「自信満々ですね」
 
 「そりゃあね。あなたに見つけられて、私に見つけられないわけないでしょ」
 
 「そうこなくちゃ。その方が勝気なあなたらしい。牛を見てため息ついている姿なんて似合わない」
 
 「失礼ね。まるで私がよっぽど気が強いみたいじゃないの」
 
 「おや、違うんですか?」
 
 「なんですって!」
 
 みんなが戻ってきた。私達はフマユーン廟をあとにし、『クトゥブ・ミーナール』に向かった。
 

第8章 運命の人

イメージ 1
                   (国際空港から見えるデリー市街 インド・デリー)
 
 『クトゥブ・ミーナール』の正式観光名称は、『クトゥブ・ミーナール複合建築群』という。『クトゥブ・ミーナール』と呼ばれる記念塔を中心としたインド最古のイスラム遺跡群だ。塔の高さは73m。以前は100mあったが、飛行機事故で現在の高さになった。この塔は5層に分かれていて、下3層は赤砂岩、上2層は大理石と砂岩でできている。
 
 第1層の壁面にはアラビア文字のコーランが刻まれ、塔の脇には、破壊したヒンズー寺院の石材で建てられたインド初のモスクである『クワットル・イスラーム・モスク』、中庭には高さ7mほどの鉄柱『アイロン・ピラー』が立っている。この鉄の純度は98%で、2000年を経た今も錆びていない。この鉄柱を背中にして立ち、腕をうしろに回して手を組むことができれば、幸運が訪れると言われている。
 
 インドでの最後の食事はニューデリーの中華レストラン『フジヤ』に行った。アーミルさんを交え、インドビールで乾杯した。8日間の思い出話に花が咲き、店内には私達の笑い声がこだましていた。
 
 時間がきて、私達を乗せたバスは空港に向かった。車内の雰囲気は、先ほどのレストランでの盛り上がりとは対照的だった。それぞれが過ぎ行く車窓の風景をじっと見つめ、誰も口を開こうとしなかった。
 
 バスは空港の国際線ターミナルに到着した。アーミルさんはマイクを手に取ると、私達にお別れのあいさつをした。
 
 「このたびはアショク・トラベル・サービスをご利用くださいまして、ありがとうございました。短い間でしたが、皆さんと楽しく過ごさせていただいたことに心から感謝します。皆さん、またぜひインドにいらして下さい。皆さんにまたお会いできることを楽しみにしています」
 
 アーミルさんはそう言うと、深く長いおじぎをした。私達は大きな拍手をした。
 
 「皆さんを最後までお見送りしたいのはやまやまですが、私の役目はここまでです。空港内での手続きは当社の専用の係員が行いますので、彼の指示に従ってください」
 
 その言葉にみんな唖然とした。
 
 「えっ、アーミルさん、空港の中まで来てくれないの?」
 
 お母さんがアーミルさんに尋ねた。
 
 「すみません。空港は軍の管轄なので、法律で私達ガイドは中に入れないことになっています。ですからここでお別れです」
 
 「そうか。それじゃ仕方ないな」
 
 お父さんがポツンと言った。私はショックで言葉も出ない。
 
 バスのドアが開き、野田さん、永井さん、お母さん、お父さん、そして私の順で席を立つ。アーミルさんはバスを降り、ドアの入口に立って私達が降りるのをまっている。
 
 「アーミルさん、お世話になりました」
 
 「いろいろと勉強になりました」
 
 「楽しかったわ。身体に気をつけてね」
 
 「必ず日本に来なさい。待っているよ」
 
 「ありがとうございます。お元気で!」
 
 野田さんと永井さんからは余ったルピー札と小さな小包が、お父さんからは日本のウイスキーが、お母さんからはお金が入っているであろう封筒が、アーミルさんに渡された。
 
 アーミルさんは4人と力強い握手を交し、お父さんに言われてみんなに名刺を配っていた。だが、私には握手もしてくれないどころか見向きもしない。全く無視していると言ってもいい。
 
 アショク・トラベル・サービスの専用係員だという男性がやって来た。アーミルさんは私達に、彼についていくよう促した。そして、私を除く4人がその人に続くのを見届けると、バスに乗り込もうとした。私の怒りは頂点に達した。
 
 「アーミルさん!」
 
 私は大声でアーミルさんに話しかけた。
 
 「呼んでいるでしょ!聞こえないの?」
 
 アーミルさんはゆっくりと振り向いた。だが、下を向いたままだ。私はその視線の先に右手を差し出した。
 
 「握手して」
 
 アーミルさんはとまどいがちに右手を出し、触れるか触れないかのような握手をした。そして、再び私に背を向け、バスに乗り込もうとした。
 
 私は握手した手を離さず、強く握りしめた。私に手を引っ張られたアーミルさんは驚いて振り返り、私はようやくアーミルさんと目を合わせることができた。彼は目を細めて私を見た。
 
 「みんなとはガッシリ握手していたわよね。それもスマイルつきで。会話もあったわよね。なのに、あなたの私に対する態度は何なの?ガイドがお客を差別していいと思っているの?」
 
 「すみません」
 
 私の言葉に、アーミルさんは横を向いて答えた。
 
 「じゃ、ちゃんと握手して」
 
 「できません」
 
 「どうしてよ!」
 
 その時、彼は握っていた手に急に力を込めると、そのまま私を自分の前に引きよせた。
 
 私が驚いて顔を上げた時、そこにあった彼の目はあの時と同じ目をしていた。インドでの最後の夜、私の手を取り、「ありがとう」と言ったあの時と…。
 
 心臓がドクンと鳴った。怖い、そう思った。今まで男の人を怖いなんて思ったことはなかった。アーミルさんとだって、今まで平気で接していたのに。私は自分の手から力が抜けていくのを感じた。
 
 「痛い…」
 
 私のその言葉にハッとしたように、アーミルさんはその手を離した。アーミルさんは再び下を向き、そしてゆっくりと顔を上げて私の瞳を見た。
 
 「気をつけて帰ってください。この8日間、楽しかった。本当にありがとう」
 
 アーミルさんの表情がゆっくりと笑顔に変わった。その笑顔に私は胸をなでおろした。
 
 「アーミルさん、私にも名刺をください」
 
 「名刺…あまり持ってきていなくて。さっきみんなに配っちゃったから、汚いのしかないけど…」
 
 そう言って、アーミルさんは私に薄汚れた名刺を差し出した。
 
 「ふーん。あなたの名前ってこういうスペルなのね。でも名前だけで名字がないわ。それにインドの人って名前がふたつあるんでしょ?」
 
 「うちの会社の方針なんです」
 
 「そうなの。じゃ、写真ができたら送るわね。住所は?」
 
 「その名刺の所に送ってもらえますか?」
 
 「オフィスに?」
 
 「はい」
 
 「わかったわ」
 
 係員が私を呼びにきた。空港の入口でお母さんが手招きしているのが見える。
 
 「行ってください」
 
 私はバックの中から小包を出し、アーミルさんに渡した。
 
 「これは何ですか?」
 
 「お煎餅よ。日本にはいろいろなお煎餅があるけど、私はここのお煎餅が一番好きなの。それから月並みだけど、ハンカチも入っているわ。よかったら使って」
 
 「ありがとう」
 
 「ねえアーミルさん、私達はまた会えるわ。私、あなたとこれきりになるとは、どうしても思えないの。私はあなたにさよならは言わないわ。だから、あなたも私にさよならは言わないでほしいの」
 
 「わかりました」
 
 「じゃ、行くわね」
 
 私は係員に連れられて、空港の入り口に向かった。空港に入るとき、私は後ろを振り返った。遠くに、小さくなったアーミルさんの姿が見える。バスの前に佇み、見送ってくれている。最後に私は笑顔で大きく手を振った。アーミルさんはそれには応えず、ただ立ってこちらを見ていた。
 
 空港内に入ると、みんなが所定のカウンターで出国カードを記入していた。私もそれに習った。スーツケースの検査が終わり、チケットカウンターでパスポートと出国カードを提示し、航空券をもらう。スーツケースはそこで預け、手荷物だけ持って出国審査に向かった。パスポートに出国の判が押され、所定ゲートの待合室へ向かう。
 
 搭乗時刻まではまだ二時間あった。窓の外は夕陽で赤く染まっていた。
 
 アーミルさんはもう帰っただろうか。今度はいつ会えるだろう。毎日つまらないことでけんかをした。でも次の日には何事もなかったように、いろいろな話に花が咲いて…。その彼が、明日はいない。あさっても、しあさっても…。もう、会えないのだ。
 
 なぜ、こんなにインドを離れることがつらいのだろう。なぜ、それがこんなに悲しいのだろうか。いいえ、インドを離れるのがつらいのではない。アーミルさんから離れることがつらいのだ。私は…。
 
 私はアーミルさんが好きだ。いつから?おそらく彼を初めて見たときから。アーミルさんの言うように、本当に私は抜けている。今頃になって気がつくなんて…。
 
 胸が、張り裂けるように痛かった。
 
 「美咲ちゃん」
 
 私の肩に、お母さんの温かい手があった。
 
 「彼にはインドでの生活があって、あなたには日本での生活があるわ。アーミルさんはあなたをとても大切にしていたわ。彼はそれでせいいっぱいだったのよ」
 
 私は言葉を返すことができなかった。定刻から一時間遅れて、私達を乗せた飛行機はインドを飛び立った。窓から見えるオレンジ色の夜景がどんどん小さくなって、黒い闇の中に消えた。私は深い眠りの中に落ちていった。
 
 「マウント・フジ」
 
 機長のアナウンスが耳の遠くで聞こえた。それから機内に朝食が配られた。私はサンドイッチを食べながら、ぼんやりと窓の外を見つめていた。どこまでも続く雲海、その上に広がる青い空。
 
 早朝の成田は肌寒かった。腕はまだ真っ赤に日焼けしたままだ。長井さんと野田さんの顔からは髭が消えていた。朝食後、機内のトイレで剃ったということだった。インドが確実に過去になっていく。
 
 入国審査を終え、手荷物受取所で荷物を待っている間、永井さん、お母さんと住所を交換した。スーツケースが出てきたのは私が一番早かった。私は四人に軽く頭を下げて手を振り、一足先に失礼した。やさしく、温かい人達だった。私はその幸運に心から感謝した。

[ すべて表示 ]

今野美咲
今野美咲
女性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

最新のコメント最新のコメント

すべて表示

Yahoo!からのお知らせ

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事