みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎県の石橋

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                   諫早公園の眼鏡橋近くにある桁石橋

 諌早市高城町の諫早公園へ移築復元されているアーチ石橋の名橋「眼鏡橋」を見たら、近くにある趣きのある桁石橋も訪ねてみよう。
 「くじら橋」「御書院の太鼓橋」「慶巌寺の参道橋」は、いずれも諫早藩のご城下、眼鏡橋のふるさとにふさわしく見ごたえがある。

 慶厳寺の参道橋の親柱は、「享和三年」と刻まれている。同寺の摩崖仏三十三観音・名号石などは史跡の項で別項。
 HP ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の中「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

 写真  1  第 k-002 番   く じ ら 橋       諌早市高城町(諫早公園内)
  安政年間(1858年頃)
  郷土の聖人、土橋多助翁が、旧好古館(現諫早市役所)の裏門にに架けた橋。現在は諌早眼鏡橋の奥に移築。

    くじら橋と土橋多助翁

 諫早公園の、眼鏡橋の後ろに、小さな石橋が架かっている。これを「くじら橋」という。この橋は、元々、旧好古館(現諫早市役所)の裏門に、安政年間(1858年ごろ)に架けられた橋で、今でいう、市役所と北島医院の間に架かっていたという。
 橋が架かっていた掘割は、山下淵から、水を取って、輪内(仲沖)に、水を通していた、用水路です。この用水路は、今も商店街を横断して、仲沖に水を送っている。

 その後、明治6年に諫早小学校を建てるため、旧道路を潰したので、この橋が小学校の裏口となったが、大正10年から、始った諫早公園造りが一応の完成をみた後、上り口にの掘割に木橋を架けたが、木陰で腐食が早いため、大正末期に、くじら橋を、諫早公園昇り口に移した。
 昭和の時代になり、何時しかこの橋の謂れも、忘れ去られて行き、昭和32年の諫早水害のあと、眼鏡橋を諫早公園に移築する際、盛土をするため、くじら橋は撤去することになったが、この橋が、「くじら橋」であったことは知らなかったが、良い橋で勿体無いため、眼鏡橋の池に架け替えることとなり、現在の位置に架けられている。

 この橋が、くじら橋と呼ばれるのは、現在で言う新橋の上まで、鯨が迷い込んで来ることがあったからだというが、今となっては定かではない。
 この橋が、「くじら橋」の名を取り戻したのは、昭和52年頃から、城下町の調査を始めた、諫早高城会の、山口祐造氏の、ご努力に拠ったものである。…
 土橋多助翁が架橋した橋は、上記の鯨橋以外に半造橋、段堂橋、田代橋、森山の多助橋(市道下名多助橋線であれば現在の下井牟田からの市道)であったという。全て石橋であったという。…

 写真  2  第 k-003 番   御書院の太鼓橋      諌早市高城町(諌早高校内)
  江戸時代
  藩政時代の庭園に架かる桁橋

    旧諌早家の御書院(諫早高校)

 現存する大名庭園が、そのままの姿で残っている諫早高校のシンボル「御書院」の庭園です。旧領主である、諫早家から寄贈された日本庭園を、諫早高校の生徒達は、「御書院」と呼んで大切にしています。…
 庭園の中央に、大きく配した心字池は、どの角度から見ても心を和ませてくれます。庭園内には、楠木の古木が力強く茂っています。…
 紅葉が池に映えて、良い雰囲気です。この日本庭園が学校敷地内にあるんですから、諫早高校は贅沢な学校ですよね。

 眼鏡橋の諫早公園とは隣接し、諌早市体育館の後ろを回る高城回廊に御書院の入口があり、この御書院に入れます。
 御書院には、梅雨の前に白い花をつける「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の木」がある。満開の時は、雪の積もったように見事だ。…

 写真  3  第 k-017 番   慶巌寺の参道橋       諫早市城見町
  享和3年(1806年)    長さ 8.0m 幅員  3.3m
  筝曲六段発祥の地として有名。
  諫早の眼鏡橋の川向にある慶厳寺の参道橋。摩崖仏三十三観音など見るべきものが多い。

    慶巌寺(城見町)

 本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる。天満町〜蓮光寺〜此処、そして安勝寺と、本明川河畔に名刹が続く。
 諫早の旧市街の中央に慶巌寺がある。有名な八橋検校がここで筝曲「六段」を創ったといわれる。毎年秋には、「六段祭り」も開かれる。
 また、摩崖仏「三十三観音」があり、市指定有形文化財となっている。文化財かどうかは別にしても、古の民人達の信仰の深さが偲ばれる。

 観音様を拝したところで、石段を上ってみよう。右手には、天明7(1787)年建立の、俳聖芭蕉を偲んだ、翁塚がある。明治の神仏分離の折に、廃寺となった、お四面さまの荘厳寺から移築した、仁王門が見事。…
 仁王門をくぐって境内に入ると正面が、本堂。紋を確認すると、佐賀鍋島藩の紋、杏葉が打たれている。慶巌寺は、二代藩主の室、慶巌院の志望により、慶長10年に建立されたもの、二代直孝公の時代に、佐賀鍋島藩と諫早藩の上下関係が確定したので、当然の紋ともいえる。
 境内には、奇縁があって、この地に祀られる名号石もある。そのほかにも、水害の慰霊碑や十六羅漢像、なんと言っても、普段は見れないが、諫早家家宝、明珍の鎧も、ここで保管されている。

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前回帰国した折 久々に実家に帰り、慶巌寺にもお参りしてきました。

2008/8/23(土) 午後 3:03 福州

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諫早がやはり実家でしたね。慶巌寺は名号石や岩に彫った三十三観音を次に紹介しましたから、見てください。

2008/8/25(月) 午前 10:41 みさき/michito


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