みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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            長与町の主な史跡など (1)  高田郷・吉無田郷・嬉里郷

 長与町の主な史跡などの説明は、平成15年ふるさと長与研究会編「ながよふるさとカルタ解説書」HPから。詳しくは、長与町教育委員会編「長与町郷土誌」平成6年発行や、長与町役場HP「観光・文化」の項にある。
   http://www.nagayo.jp/kurashi/kyoiku/main_6_11.html   
   http://www.nagayo.jp/kbs/index.html

 写真  1〜 3   1 辻田白菜発祥之地碑(高田郷)

 百合野橋を渡り、「ゆりの温泉」入口まで行く。左上の坂道角に石碑が建つ。
   百合野で 生まれた 辻田白菜
 辻田白菜は、明治時代に、百合野に住む辻田長治郎さんが、品種改良したものです。長治郎さんは、交通の不便だった百合野地区に道路を造りたいと思い、白菜を品種改良したのです。辻田白菜は、漬け物にするととてもおいしく、その評判は、九州地区から全国に広まりました。
それで得た資金をもとに、道路が造られ百合野地区の人々は、とても助かったそうです。

 写真  4〜 6   2 道ノ尾温泉(高田郷)

 道ノ尾交差点から浦上貯水池の方へ向かう。貯水池畔に道ノ尾温泉はある。
 次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64936364.html
   道ノ尾の 温泉王は 吉兵衛さん (「吉平」が正しい。以下同じ)
 今から百年以上も昔の明台二年、道ノ尾に古田吉兵衛という人がいて、この人が温泉を掘り当てました。何年かすると、鉄道が通るようになり、道ノ尾にも駅が出来ました。でも、まだ思うようにお客さんが集まりません。なぜなら、駅から温泉まで八百メートルもあり、馬車などが通るような道が出来ていなかったからです。そこで、吉兵衛さんは、お金を出して道路を造りました。そして、道の王様と呼ばれるようになりました。

 写真  7      3 長与インター入口近くの石橋(高田郷)

 川平道路長与インター入口交差点の「洗濯工房」裏の川に壊れたアーチ式石橋が残る。
 次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/35088418.html

 写真  8〜 9   4 三千隠の金山跡(高田郷)

 日当尾で地元を知る人に聞くと、高田三千隠から日当尾の間や、女の都入口には金山がいくつかあった。郷土誌写真の「三千隠」洞穴は、現在、長崎高等技術専門校の用地となり、つぶれている。
  (長与町郷土誌 下巻 57〜58頁)
 …長与の金山祭 今19日午前11時長与村山下金山(礦主山下傳之助氏)に於て金山祭を執行する由(明治44.4.19 東洋日の出新聞)
 右の新聞記事にどれほどの信頼性があるかわからないが、高田三千隠から日当尾の間に、洞窟のように掘ったところがある。これは金鉱があると称して資産家に出資させ、掘さく作業を行った跡である。金が出ないことは初めからわかっていて、工賃稼ぎのため掘ったものと言われている。…

 写真 10〜12   5 長与焼古窯跡皿山(嬉里郷)

 嬉里郷田尾にある。寺の下「法妙寺」の対面となるため、国道から寺参道と反対側の道に入る。
   皿山に残る まぽろしの 三彩焼
 長与やきは、今からおよそ三百四十年前(一六六七年)に、嬉里郷の皿山でやかれたのがはじまりで、百九十二年間続きました。皿山のかまでは、みんながふだん使う安いお皿や茶わんの長与やきと、おとの様にさし上げるほど高級な三さいやきの二種類のやき物がやかれたと言われています。皿山のかまあとには、今でも使われていたれんがが石がきにのこっています。

 写真 13〜15   6 陶板墓碑(嬉里郷)

 皿山から小道を下り、右方へ住宅地を行く。辻墓地が山手に見え、墓地中央に陶板墓碑。
  (長与町郷土誌 上巻 555頁 コラム)
 長与皿山から山一つ隔てた南側の谷間、辻というところに、陶器の碑銘板を四面にはめこんだ珍しい石塔がある。そこは渡辺家の墓である。その祖、渡辺作兵衛という人は弘化二年に皿山を再興した人。この陶器の銘板は皿山で焼いたものと思われる。墓碑面には宝暦四年、俗名尾古助右衛門ほか三名の戒名と俗名が読まれる。(もともと渡辺家の出自は波佐見の尾古家で、一時その姓を名乗っていたとのこと。)

 写真 16〜18   7 さぬき屋敷(嬉里郷)

 初代村長川添又右衛門の屋敷跡。長与小学校の裏側に残るが、無人となり荒廃しつつある。
  (長与町郷土誌 上巻 18〜19頁 コラム)
   初代村長 川添又右衛門
 幕末から数えると30年以上も長与の村政をリードしていた川添又右衛門は大村藩士で、藩政当時は長与の手代の役を務めていた。祖先は讃岐(香川県)である。そのため自宅屋敷の一隅に金比羅社を建て、屋号を「さぬき」と称していた。村の人たちはここを「さぬき屋敷」と呼んだ。この家は現在も長与小学校の裏に残っている。…
 明治になってからも、戸長、初代村長と歴任、明治25年に退任している。…彼の屋敷に祭られていた金比羅様は、現在斉藤郷樽津の金比羅神社に祭られている。

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今日、長与町に造成中の北陽台の団地の地盤を見た帰り、裏道のバス停を見て、驚きました。「城の平」今まで、わかりませんでした。

2014/4/20(日) 午後 11:52 [ onn*n*miyak**007 ]

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北陽台高校側の高田川北岸バス通りを歩くと、長与三叉路に出る手前に「城の平」バス停があります。私も先日歩いて、地名が気になっていました。このあたりも城があったのでしょうか。由緒を調べて教えてください。

2014/4/21(月) 午前 0:49 みさき/michito


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