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戸町4丁目で、アーチ式石橋が見つかる 長崎市戸町4丁目24街区 |

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こんにちは、ゲストさん
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戸町4丁目で、アーチ式石橋が見つかる 長崎市戸町4丁目24街区 |
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道人さん
戸町4丁目の石橋は地元の人に聞いても知っている方はいないようでした、火薬庫についても同じで資料など、なかなか見つけるのが難しいようです。
今日は天気がよかったので、大久保山、西尾根の天明藩境塚を見てきました、帰りに魚見山から女神道路上部に下る道を見つけました(下部は荒れていて不鮮明です)
2013/10/27(日) 午後 2:43 [ JOKAMOTO ]
戸町の歴史のことは、荒木正人先生が詳しかったのですが、亡くなられて残念です。火薬庫・石橋は私も調べてみます。
元気に山を歩かれていますね。魚見山とは台場のことでしょうか。二の増台場から右へ行くと白崎、左に行くとフェンス沿いに女神大橋駐車場へ下る道があります。私たちがときどき歩いていますが、どこも道が荒れるのは早いです。
2013/10/27(日) 午後 4:00
道人さん
火薬庫の名残は駐車場奥(現在空き地)の上の土手です
昔のままだそうです、以前桁石橋の上の所に境界石がありましたが下水道工事の時に無くなったようです、この小川はコンクリートで固められる前は蛍が生息していたそうです。
二の増台場から白崎までは先月歩いて見ました、女神大橋道路が出来る前は金鍔から台場跡の石倉まで道があり何度か歩いたことがあります、途中から手袋岩までいける道がありました今は判らなく成りました。
2013/10/27(日) 午後 6:40 [ JOKAMOTO ]
火薬庫の名残り駐車場奥(現在空き地)の上の土手は、また見に行きます。境界石は軍の標石でしょう。
金鍔谷から手袋岩の記事は、本ブログ長崎の岩の書庫にあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/52130359.html
手袋岩尾根には、検疫所の古い標石が1本残ると聞いて、探し出しています。
2013/10/27(日) 午後 10:27
道人さん
いろいろと情報ありがとうございます。
境界石の一部を見つけました(郵政アパートB棟跡地フェンスの角に置いています)長の字と崎の字の一部が読めますがそれから下の部分はありません、立っていた位置からすると(路面に跡が有ります)
郵政省の物と思うのですが?私には分かりません。
2013/10/28(月) 午後 5:56 [ JOKAMOTO ]
了解しました。追加して見てもらった境界石の写真とコメントは削除しました。
2013/10/29(火) 午前 0:03
あなたの電話番号がはからなくなって、返信できません。前にも述べたとおり、母の実家は白崎ですから、子供の時は何度も戸町から白崎まで歩きました。特に現在出島大橋の取り付け道路になってなくなったあたりの道は検疫所の奥のほうを緩やかな谷になって心地よい林の中の道でした。戸町3丁目の通称「タンポノ坂」を超えていくのが、本道で金鍔からの道はあまりよくなかったと思います。
煙臭蔵は戦時中より前からありましたよ。母と近くに畑に行ったり、大久保山の中腹まで薪をとりに行ってましたので、よく知っています。
例の石橋には気づきませんでしたが、あの道は火薬庫までの取り付け道路ですから、戸町の堀切ができた時期と関係があると思います。
台場と火薬庫は関係があるのなら火薬は「タンポの坂」経由で運ばれたことにそうするとあの位置にあるのはおかしいが、第二次大戦では使われてなかったとおもいます。松林
2013/10/29(火) 午後 8:54 [ mat**364*43 ]
戦前の戸町火薬庫の状況が、だいぶんわかってきました。ありがとうございます。戸町の堀切(切通し)ができた時期と関係があるというのは、うなづけます。県道が開通したときでしょうか。文献を見つけたいです。
2013/10/29(火) 午後 9:42
道人さん
境界石はもう1か所ありました、現在24番地と18番地の境、奥の土手へと続く道の入口付近です、今は表面が風化により文字などない様です。(郵政アパートとは離れていますので郵政省のではないようです)
2013/10/31(木) 午前 9:08 [ JOKAMOTO ]
道人さん
大蔵省 関税局 税関百年史 日本関稅協会, 1972 に
「明治 六年四月、梅ケ崎沿岸の海岸を埋立て、はじめて税関上屋一棟が建設されたが、翌七年八月、暴風闹によって倒壊したため、九年ることになった。その後、二八年五月には、西彼杵邵戸町村の岩井浦(現在の金鍔)に、新しく火薬庫が新築されたので、これに移転している。」と言う記述があります。
2013/10/31(木) 午前 11:51 [ JOKAMOTO ]
[ JOKAMOTO ] さん。きょう現地へ行って標石2本を確認し、長崎税関で本を見せてもらいました。写真と文献を追記しましたから見てください。
郵政アパート表側各階登り口前のフェンス根元のところにも、標石のような石のかけらがありました。(最後の写真)
2013/11/1(金) 午前 1:09
道人さん
長崎と刻まれた石は元はフェンスの下に立っていました、下水道工事の時根元から折れ、その後どこに行ったの分からなくなっていましたが付近を捜し見つけて私がそこに置きました。
私は石橋の事はまったく判りませんが、明治28年と言えば館内町と十人町間の森橋と架橋年代が近いのではないでしょうか。
2013/11/1(金) 午前 8:41 [ JOKAMOTO ]
「長崎…」と刻まれた標石は、どおりで私が最初、現地を訪れた際、気付かなかったのですね。「ねじりまんぼ」石橋が、税関の工事かわかりませんが、標石とも長崎税関の貴重な歴史を語る史料となるようです。
Oさんのお蔭で、楽しい調査ができました。
2013/11/1(金) 午前 10:41
うわぁ(^-^)懐かしい写真がいっぱいです!
小さい頃、そこの川の近くで遊んでました(^-^)
ちなみに、写真の12枚目のとこの空地のとこに家が有り、そこに住んでました(^-^)
石柱も良く乗ったり、座ったりしてましたぁ(笑)
そんな重要な石柱とは知りませんでした❗驚きです❗
2016/3/28(月) 午後 9:15 [ かーくん ]
戸町4丁目の思い出のコメントありがとうございます。この一帯は詳しく調査すると、「長崎爆發物貯庫」と刻む標石がまだ別に有るかも知れません。情報をお待ちしてます。
2016/3/29(火) 午前 0:19