みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎と近県の山野歩き

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

                  土井首から鹿の岳(仮称)、大山へ  2014年5月

 2014年5月11日(日)快晴。土井首から鹿の岳(仮称 標高約452m)、大山へ。参加4人。みさき道歩会の例会。
 土井首バス停9:35―大崎林道入口10:45―鹿尾河原分岐11:41―鹿尾河原12:00(昼食)12:30―鹿の岳展望岩13:29―熊ヶ峰登り林道14:12―竹林広地14:49―大山カトリック教会15:40―大山入口バス停16:20(徒歩距離 約9km)

 土井首から熊ヶ峰と悪所岳へ登り宮摺まで、長崎半島を横断する予定だったが、あまりの長丁場に今ではもう体が動かない。熊ヶ峰手前の新設林道まで出てから、時間も足らず大山へとそのまま下った。
 土井首大山祇神社先から、八郎岳への大崎林道へ入り、旧登山道をたどる。大崎林道は法面崩落し、平成29年4月まで通行止めの標識があった。植林地の旧道には、「長崎要塞第三?地帯標 第十六号」が残るが、登山者もほとんど気付いていない。

 大崎林道をいったん横切る。ここに当会のプレートと朝霧の「熊ヶ峰まで2時間」の道標がある。竹林や植林地内を行き、鹿尾河原へ下る鞍部へ出る。大崎林道の急カーブ真下となる尾根である。そこから約20分下ると、鹿尾川上流の渡渉点に着く。「鹿尾河原」と呼んで、やや広地となっており、昼食とした。
 この先が植林を間伐しており、登山道がわかりにくく、急斜面の迂回路となっていた。やっと旧道へ出て、「鹿の岳」(仮称)のピークを目指す。だんだん登りがきつくなってくる。このピークは登山道から少し西へ入る。

 展望がよい岩場のピークで、特に鹿尾ダム大橋の上に目立つ山である。名前がないので、とりあえず「鹿の岳」と呼ぶこととした。標高は約452mあった。周りの木立が伸びており、伐採に時間を取った。時間を見るともう2時近くとなっており、先を断念した。熊ヶ峰の登り口に知らない間に林道ができていた。これを下り終点まで行き、強引に熊ヶ峰の中腹を巻くと、竹林の広場があり、タケノコを採る作業場となっていた。車がここまで入るので、その林道を下ると大山教会へ出た。あとは大山入口のバス停へ下る。

 途中、大山の集落で駐車場車止めに使用している石柱2本。よく見ると「西道仙」書である。長崎史談会原田先生の話では、長崎市中の有名なところから、移している石柱で、歴史的価値が高いらしい。

閉じる コメント(8)

西道仙のこの石柱、鳴滝の琴石の脇へ移設保存されたみたいです。
よかったよかった。

2014/11/9(日) 午前 0:02 [ 雨林 傳蔵 ]

顔アイコン

ご無沙汰でした。大籠町の西道仙書の石。もともとは鳴滝の琴石の脇にあったのですか。深堀陣屋跡に落成したカトリック教会は、そのうち石垣保存を確認に行くつもりです。出島表門橋は地元説明会が始まりました。業者ペースでしょう。後世にはずかしくない姿の復元をお願いしたいです。

2014/11/9(日) 午後 8:31 みさき/michito

もともと東山手の学校の門柱だったそうですが、私が小学生の時は田上の合戦場(祝捷山)に立っていて、この上から飛び降りる奴はヒーローでした。
琴石には20年位行っていませんが、分かりにくいところだったので良い目印になると思います。

先月城山に入ったのですが、陣屋の方へは行きませんでした。旧教会も無くなっていて敷地の車道も改変していると聞いたので、あの辺りにあった俵石の行方も気になってます。

出島表門橋のプロポーザルには毎回傍聴参加してたのですが、前回は10月9日(お上り)という地元を馬鹿にしたような日時だったので出席できませんでした。

2014/11/10(月) 午前 1:30 [ 雨林 傳蔵 ]

顔アイコン

大籠町の西道仙書の石は、「大山町」の間違いでした。どんないきさつがあって大山町へ運ばれ、車止めに使われたのでしょうか。原田先生は気のきいた復元をなされました。いつもこう願いたいです。
新カトリック深堀教会で、納骨堂は前の教会跡にでも建ててくれれば、深堀陣屋跡の石垣は破壊されずに済んだでしょう。出島表門橋は、見識のない市のこれもごり押しでしょう。国がよく許可?しましたね。

2014/11/12(水) 午後 5:33 みさき/michito

12月1日付長崎新聞で急展開。
西道仙揮毫石柱は情報が錯綜して第一報が報道されたらしく、東山手の学校云々は無関係で、本来日露戦争の戦勝記念として合戦場が祝捷山と命名された時の門柱で五言句と判明しました。
「日耀千旗影」「山呼萬歳聲」「武威揚海外」「義氣貫天中」起承の二句が南高側入り口にあり大山に流出、転結の二句は徳三寺側入り口にあって転句のみ祝捷山記念碑の脇に移動して現存。結句所在不明。
琴石に目印は必要だけど、なんだかなぁ…。

2014/12/2(火) 午後 11:33 [ 雨林 傳蔵 ]

顔アイコン

本ブログ次の2007年6月19日記事と標石写真をご覧ください。徳三寺の標石は当時、原田先生も確認されています。関連をお知らせください。
田上の徳三寺近くに明治44年「祝捷山登口」碑が見つかる
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/9920128.html
写真のとおりの由緒ある珍しい標石が、田上の徳三寺近くで見つかっている。2月21日見学に行った。「祝捷山登口」碑は現在、国立長崎病院前バス停上の寺駐車場の入口左隅に横たえて置いてある。…
碑の寸法は、24cm角、高さ114cm。正面「祝捷山登口」、左面「道仙松在此山中」、右面「此坂路百間改築 明治四十四年十月竣工 田中直三郎」
この石らしい記録は、昭和13年「長崎市史地誌編名勝舊蹟部」祝捷山の項で見つけた。
「西北なる小島、田上方面よりの入口には各石柱を対立せしめ小島口には日耀千旗影、山呼萬歳声と刻し、田上口には武威揚海外、義気貫天中と刻す、西道仙の題する所である」。

2014/12/3(水) 午後 10:47 みさき/michito

うろ覚えですが、昭和40年半ば頃、合戦場の小島口(南高側)フェンスを入って右手に二本、田上口(徳三寺側)入り口を入ってグランド右隅に二本立っていたと思います。
この頃は祝捷山の記念石(大石)も平地にあり、上り放題、上に祠なんぞ建っていませんでした。(と思います)
長崎市史地誌編記載の門柱は、明治38年の公園化と同時に敷地内に設置されたもので高さも2.4mあり、登山口標石は後々整備した折のもののようですね。

2014/12/4(木) 午前 0:30 [ 雨林 傳蔵 ]

顔アイコン

長崎新聞12月1日文化欄記事を、今アップしました。考え間違いがありましたらご教示ください。昔の記憶もすぐ追記しました。

2014/12/4(木) 午前 1:08 みさき/michito


.
みさき/michito
みさき/michito
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事