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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊
22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。2枚1組になり、写真の中にオランダ語の書き込みがある。1865〜66年ボードイン兄弟の一人が撮影
■ 確認結果
姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。
22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。
長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」。ボードインコレクションによる解説は、次のとおり。「撮影者:空白」、「撮影年代:1863」のままとなっている。
文久3(1863)年頃、ボードイン博士が海上から撮影した出島です。左端の建物はカスタムハウス(税関)です。次の1番は出島通商会社、その横2番がボードイン博士の住居で、その横3番がボードイン領事の住んだオランダ領事館です。現在復元されている商館長の邸宅はこの領事館の写真が基礎となっています。この元カピタンハウスはシーボルト時代(1823年〜1828年)の姿を残しています。 -6196-
この項は、本ブログ次記事を参照。朝日新聞社『写真集 "甦る幕末"』1986年刊14〜15頁のタイトル及び説明も、「長崎・出島。海側から見た」とあるが、私の単純な疑問点は次のとおりである。専門家による解明をお願いしたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59110754.html
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/60999122.html
(1)初期の写真機で、海上の揺れる船から撮影できただろうか。干潟から撮影したとの見解もあるが、外国の大型船か、手漕ぎの小型漕船が干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのか。
(2)出島のこのような姿は、船上からでなく、梅香崎か大浦海岸から撮影できそうである。「長崎港精図」に赤線で示した2枚を組み合わせた写真ではないだろうか。陸上に必ず撮影できる地点がある。
(3)つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。最左端の黒ずみも、写真の汚損ではない。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないか。
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長崎大学の画像はあまりに小さい為『甦る幕末』を見ながら、海上から撮影されている根拠を示します。
1)出島左端の黒いカスタムハウスの右側面と、その横の出島通商会社の左側面は建物の海側が撮影場所に正対しているので見えない。出島右の建物群の壁は正対していないので左側面が見えている。
目録番号6075では旧市民病院前電停付近にあった波戸から写しているので左端カスタムハウス右の屋根側面が写っている。
このことから、出島通商会社の左横側面を延長した直線上に撮影場所がなければならない。
2)この写真の右端に英彦山、その手前に風頭山尾根、中央に烽火山、左に立山が写っているが、旧市民病院前電停付近にあった波戸から出島を中心に撮影すると英彦山は写らない。金比羅山が背後になる。
以上から海上から写されたと思われるので、古写真集のタイトルはどちらも間違っていないと思います。
私が推定した撮影場所は現在の長崎税関裏付近で、2枚続きのパノラマ写真ではないでしょうか。
2014/7/19(土) 午前 10:10 [ sat*mo*a*emo2*08 ]
現在ではビルが建ち込み、見通しがききませんが、私は出島南の駐車場上階から英彦山などは確認しています。要はそんなにまでして干潟へ小舟を漕ぎ出し、撮る必要があった作品なのか。そうするともっと他にも類似写真があって良いはずです。
これはあくまで、私の単純な疑問です。「甦る幕末」は、「長崎・出島。海側から見た」とあり、「海上から撮影した」とまでは解説していません。この写真は研究課題として、専門家による解明をお願いしたいと思いますから、ご了承ください。
2014/7/19(土) 午後 4:16