みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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               八郎岳の鹿と鰻  隈部 茂男氏稿(昭和43年記)

 山の男達の読みものに、何か書いてくれないか、との相談があったが、ご存じの通り、口べた、書くとなると、尚さらの事、しかし山男の皆さんに親しい八郎岳の出来事を、書いてみましょう。

 八郎岳は県下でも、有名な野生鹿の生息地である。私は昭和の初期2年間、今は廃校になっている千藤小学校に勤めたことがある。ここでは鹿を毎日見たとは申しませんが、私は狩人さんが取ったもの、百姓さんが、落し穴や、針金わなで、取ったもの、犬に追はれ、山から海に、跳び込み泳いでいるのを舟からいって、つかまえる様子をよく見た。遠足はいつも八郎岳にきまっていたが、ある秋の遠足で輪になって弁当を食べていると、10m位近くの藪から、2匹の鹿が、跳び出して、悠々と、あとをふりむきふりむき、逃げる様子は、人間を馬鹿にしたような気さえおこった。

 生徒が下校途中、狭い山道で鹿に会ったと、泣いて学校に引き返した事もあった。冬に雪が降ると、運動場には、鹿の足跡が、点々と残っていたこともあった。肉は時々貰って食べたが、山の中では、他の肉を食べないので、比べるものがないせいか、非常においしかった事を、覚えている。

 私はこの学校にいるうちに、鹿の角を手に入れて、記念にしょうと、思うようになった。しかし、誰でも、簡単に気易すく、くれる者はいない。丁度その頃、ある老人が、つづやの滝の滝壺で角を拾った人がいると話してくれた。そこで私も、つづやの滝に一度行って見ることにした。

 或る日、4,5人の元気のよい男生徒に、案内してもらった。道は山道と言うより、人が1人、やっと通れる藪道である。正面向いて行くと、草の葉や、木の枝、くもの巣が顔にかかって、はねのけるのに大変だ。滝の近くにかなると、ごうごうと音がする。周囲は大木の杉山で、うす暗いというよりは、相当暗い。水しぶきが、顔にあたる頃になると、滝が見える。30mもあろうか。頂上からの谷間が、野原と山の接点のところで崖になって、そこから弓なりの弧を描いて落ちている見事な滝である。落ちる水は岩にあたって、しぶきになり、飛び散る。その下は青々とした滝壺で、うす気味が悪い。こんな所に1人で来るのは、ぶっそうである。一応これで場所がわかったので、引きあげる事にした。
 帰りながら、こう思った。時々来てみよう。そうしていると、何時かは、必ず目的を達する事が出来るであろうと。

 4,5日たった。今日は土曜日。学校には生徒は1人もいない。しかし、鹿の角のことを思い出した。自分1人は何だかおそろしいので、若い教頭をさそった。彼は仕事をしていたが、すぐ私の計画に賛成してくれた。角が一対見つかったら、どうしょう。半分に分けたら値打ちがなくなる。よし今度の分は彼にやり、次の分を自分が取ろうと、心に言いきかせて、滝に行くことにした。2人共、頭の中は鹿の角の事ばかりである。元気のよい若い2人だからおそろしくはない。滝に着くや、用意してきた竹竿で滝の中をかきまぜた。何回もかきまぜたが、手ごたえはない。がっかりしたが、つめたい気持ちのよいしぶきに、涼味を満喫した。

 長居は無用と、たのしみを後に残して、帰ることにした。滝を下ると横道までの中間は大木の杉山があり、少々暗い。道に近づくと明るくなって、石ころの間から、水が流れているのが見える。一足先に下っていた教頭が、あら鰻だと、びっくりした顔で叫びます。指さす方を見ると、元気のない鰻が、のろのろと草の上をはい廻っている。鰻は水さえあれば山の上にも、のぼって来ると聞いた事があるが、こんな所にいるのは始めて見た。鰻を見るや否や、反射的につかまえた。それを私がつる草で、えらぶたから口に通して獲物にした。大変うれしい。すこし下ると、今度は又、何匹かが草の上、石ころの上を、のたうちまわっている。2人は考えるひまもない。
 ただ本能的に手足を動かし、10匹以上もつかまえた。次々とかづらに通して、この重い獲物にがい歌をあげて、学校に引きあげた。早く帰って食べる事だけを考えて、足も軽く走り下った。

 早速2人で、料理に取りかかる。子供の時に、川で釣った鰻を料理した経験があるので、まな板に鰻の背を上にしてのせ、頭を錐でさし押さえ、包丁を背骨に沿って走らすと、尾までさける。
 こう申すと、易しいようであるが、鰻はあばれる、包丁は錆ついて切れぬ。何度も磨いだが、鰻はべとつく。なかなか口のようには、さばけぬ。しかしだんだん慣れてきたのと、鰻が死んで動かぬようになったので、あとは楽に料理が出来た。
 これからが、かば焼きである。部屋の中では暑い。学校の裏の山から枯小枝を拾って、運動場の真中で、燃やして金網をかけ、その上で何回か裏返しながら、砂糖醤油をつけて焼いた。即ち之が鰻のかば焼きである。

 学生時代、街を歩いていると、かば焼きの香を、空腹の時、よく嗅がされたものだ。こんな事を思い出しながら、次々と焼けるのをがぶがぶ食べた。腹一杯食べる事を茂木ではあわぬものにおうたようにと言うが、正にその通り。しかしまだ半分以上も残っている。もったいないなあと、眺めていると、ごぞごぞと、足音がする。見ると、いつもの顔なじみの百姓さんが、5人程やって来た。先生何事ですか、よか香のするけん上って来たと、申します。えらいもんだ、あんな所まで鰻のかば焼きの香がするのか、丁度よかった。鰻のかば焼きですばい、さあさあ、食べまっせと、差し出すと、大変よろこんで、無我夢中で食べた。

 一息つくと、こんな話をしたのである。畑仕事をしていると、山の中から鰻のかば焼きの香がする。始めは山の炭焼さんが、為石からハモでも買って来て、焼いて一杯やっているのだろうと、よか香で腹がぐうぐう鳴った。いつまでもとまらぬ。そのうち学校の方向から煙があがっている。これは何事かある。火事じゃないが、土曜日の午後2人の仲のよい若い先生が、何かごちそうを作っている。行って一緒に一杯やろうと、相談してやって来た。これは珍らしい。やって来てよかった。これはうまか、これはうまかと、次々にたいらげて、満腹すると、これはどうした鰻かと申しますので、一部始終を話しました。

 すると、何事もないのに、鰻が露地に出てくる事はない。そう言われると、ふにおちない事ばかりである。ちょっと考えていたが、1人がそんなら毒流しだと申します。しかし誰もいない。いや丁度毒流したところに、2人が、ばさばさと音をたてて来たので、逃げたのさ。今度はこちらが恐ろしくなった。2人は毒流しはしない。毒流しの鰻を食べて体にあたらぬか。教師が毒流しだと知らなかったか、何だか心配である。この人々の話を総合すると、どうも毒流しである。食べた7人の腹は未だ変調はない。そこで、現場にもう一度行って、確かめる必要がある。駐在所もあるので、報告しなければ。若い2人の百姓さんと4人で現場にかけ上った。

 鰻を食べた元気もあって、思ったより早く滝の下の鰻のいた場所についた。あの時は目につかなかったスボ鰻(赤ちゃん鰻)や川えびが白くなって死んでいた。確かに毒流しであった事がわかった。
 それにしても犯人は誰か、わからない。結論はこうである。誰かが毒流しをした時に、私達2人が来た事に気付いて、いち早く逃げた。それで獲物は私達のものになった。これは駐在所に知らせておくべきだと、申しますので、百姓さんに引受けてもらった。しかし、心配は腹だ。毒がまわって、死ぬような事はなかろうか。教頭さんも下宿に帰らず、2人で宿直することにした。ねむれぬ。

 夜が明けるのが遅い。…夜が明けた。日が照った。10時頃であったか、おなじみの巡査さんが、にこりとしながら、先生、おりますかと、挨拶して宿直室に入って来られた。昨日はごちそうでしたげな、…腹はどうもありませんか。ええ、どうもありません。毒流しの方はどうなりますかと、おそるおそる尋ねると、山の中には、よく他所から悪い奴が、やって来て毒流しをしますが、なかなか、つかまりません。今度も、そうですたい。よかよか、先生方は、うまかっただけ、もうけでしたい。あっあっはぁ、…心配せんでよかですばいと、申されましたが、ほんとうに、あと口の悪い事でした。
 ついに鹿の角の記念品は、手に入らぬまま、茂木小学校に転任した。


(くまべしげお氏)
 茂木北浦名生れ。初代小島中学校など経て記の当時長崎市中央公民館長。37年の教職生活では、茂木・福田など市周辺の学校もくまなくまわられ、地元民や生徒との暖かい交流の話の数々は、ほほえましい。これは干藤小(現在廃校。今の干藤トンネル近くにあった)勤務時代の思い出で、昭和初期の頃の八郎岳と滝の様子を知れて面白い。
 画像は、津々谷の滝とその滝壺。増水していた平成19年7月11日撮影。

              (昭和43年8月発行 部報「よちよち」No.14掲載)

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                    千々石川遡行  昭和46年8月の記録

 県内の山も、年ごとにあちこちで伐採が進み、林道が奥深く入るにつれ、沢歩きの楽しめる川が少なくなった。登る当人も、年とともに身体は無精になり、足は遠のく一方で、以前は多良や轟の渓谷、西彼半島の雪の浦川、河通川、近くでも干々川、鹿尾川など、結構1日を楽しく過ごせたのを、今はなつかしく思いうかべるのみである。

 ここに紹介する千々石川は、裏雲仙田代原から千々石にそそぐ。雲仙山系にあって唯一の沢歩きの対象となる川であろう。ふだんは水量がほとんどなく、大雨の後しか出かけられないが、小規模ながら渓谷としての変化があり、田代原へのハイキングの1ルートとして、もっと見なおされてよいと思う。沢の概念をあらためて図で紹介してみたい。

 長崎を8時頃のバスで発つ。橘神社前で下車。田代原への車道に入り、20分ほど行った三叉路で左へ野取部落への道をとる。橋を渡って、山ふところ深くコンクリートの大きな堤防が見えるあたりで、真直ぐな車道は切れ、山道に入る。ここまで約1時間である。木立の山道を10分も行くと、すぐ仙落の滝の直下に出る。この下流にも滝はあるが、無理して入るほどでもない。仙落の滝(F2)は、落差約30m。小気味よく滝水がしだれ、滝つぼも広く、よい昼食地点となろう。滝は右に大きく高巻きして山道があり、上部には取水のパイプが設けられている。

 これからしばらく行くと崖が両側にせばまった廊下状のところがあり、水深は深く、水が多いときはスタンスを取りにくい。渡れないときは左にやぶ道がある。このあたりから沢は大小のゴロ石が続き、高度をかせぎながら、F3にひょっこり出る。途中は取水のパイプが数本敷かれ、「野取取水栓」の標柱がある。F3も落差約30m。この滝は中央右より、ブッシュの中を登れるが、右のガレ場の高巻きの方が無難であろう。この上に立つと、ものすごく高度を感じるのである。吾妻の水量の多い支沢を分岐すると、水はほとんど伏流となり、涸れた河原のゴロ石となり、ほどなく薄暗い木立におおわれたコンクリート堤防に出る。沢の中間地点で、仙落の滝から約1時間のところ。そろそろ疲れを覚えるころである。

 このあと谷はややせばまり、湯つぼ状の直径5mくらいの円形淵に出る。水浴でもしたい見事な淵である。上部は3段で小滝が続く。捨て縄、ハーケンのある岩面を左右につたい、上に出る。
 ここから沢の本流は右にカーブし、すぐF5、F6に出る。このあたりがこの沢の核心である。滝は落差はないが実に美しい。樹々の陰濃く、静かな清流ときれいな淵を見せる。惜しむらくは、水量が常にない。が、落ち葉が水に浮かんでゆるやかに滝面を流れ、たいへん風情がある。F6を「落葉の滝」と自分で命名した由縁である。F5は約10m。F6は約8m。

 沢もこれまでで、上部は平坦なゴロ石となり、振りかえると後に鉢巻山、左右に吾妻岳、九千部岳がやっと近くに見える。沢をそのままつめても、F6から右手山道を登って車道に出ても、田代原まではあと40分の行程である。千々石川遡行の総所要時間は3時間から4時間。田代原には午後3時に着こう。
 帰りは、道はやや荒れているが、吾妻岳のふもとの山道をたどり(この道は後年、九州自然歩道として整備されている)、亀石神社から林道を千々石に下ると、橘湾と愛野展望台のあたりの景色がよい。下りは約2時間。
(昭和49年12月発行 部報「よちよち」N0.16に掲載。写真は「仙落の滝」)

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