みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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           江戸期の「みさき道」―医学生関寛斎日記の推定ルートとその図

 これは、「長崎の空」277号(平成17年8月)長崎歴史文化協会短信の掲載稿である。
 なお、『長崎談叢19輯』の引用文は、関寛斎『長崎在学日記』の原本と相違する字句があり、北海道陸別町同資料館にある原本の写しを、みさき道歩会の研究レポート第1,2集に収録している。

            現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

1 「みさき道」は特別なルートの道ではなく、旧来からあった長崎からの深堀道と御崎道ないし野母道をつないだ道である。これに分岐合流する長崎往還・岳路道・川原道等も考慮する。
2 近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。川原方面から半島東回りコースもあり、明治32年の道標石柱が現存していた。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。
5 関寛斎日記に記した道中の「大きなる石」は弁慶岩、「笠山岳」は大久保山、「南岸の砲台」は小ヶ倉千本山にあったとされる砲台と考えられる。「加能峠」やいわゆる「古道」は不明である。
6 貴重な史料となる明治29年2月「深堀森家記録」が見つかり、源右衛門茶屋・鹿尾川渡り・深堀入口の鳥越険坂の状況が判明した。
7 ダイヤランド団地内には、開発前に道塚3本があった記憶談を得た。当時、測量に当られた方に聞くが所在はわからなかった。しかし、「みさき道」は確かにこの団地内を通ったと考えられる。
8 鹿尾川は、現土井首大山祗神社鳥居前で、「渡瀬」(飛び石)であった文献と地図類を確認できた。角川書店「日本地名大辞典」による「渡し場」は表現上の不足を感じ、後コースも疑問がある。
9 これより先、前記辞典の記した土井首村内のコースと、江川までどこを通ったかはまだ確定できないが、ある程度の考証ができる関係資料があり、現在も調査中である。
10 深堀までは、江川河口で二本の小橋渡り、鳥越峠越えして深堀に入った。そして深堀からは伝承がある地蔵が残る「女の坂」古道が街道であり、八幡山峠は大籠新田神社と推測できた。
11 平山台上配水タンク地点が関寛斎日記の長崎道分れ(帰路)となり、蚊焼茶屋は清水が今も流れていることがわかり、蚊焼峠とともに従来言われた地点と違うことが推定できた。
12 一永尾を通り徳道からゴルフ場裏門の道塚に出て、喪失した旧町道沿いに高浜毛首の延命水に下る。これが「みさき道」の本道であり、「岳路みさき道」また川原道との合流地点と思われる。
13 蚊焼から岳路を経由するもう1本の「岳路みさき道」があったと推定された。高浜の町中また古里までの道もほぼ確定でき、堂山峠までも街道の山道を草木を払って復元することができた。
14 これまで他資料による「みさき道」の説明は、観音寺で終わっていたが、関寛斎日記により帰路まで調査を行った。この結果、脇津の蒟蒻屋・観音道・堂山西の野母道などが明らかになった。
15 脇岬海岸にある「従是観音道」の道塚は、元禄十年(1697)建立。ひと昔前の古い道であるが、脇津村古地図にきちんと描かれており、字図調査と現地踏査によりこの喪失ルートを確認した。
16 関寛斎一行が、野母の船場に行き風強く出船なく、この後「野母権現山」に行った(野母崎町史年表)であろうか。漁家喫茶の前に「只一望のみ」とあり、時間的に無理であったと考えられる。
17 堂山西を通り高浜へ出る。これも「みさき道」形成の一つの要路である。今まで不明であった「野母道」を明らかにすることとなる。必ずしも海沿いでないことが判明した。
18 徳道から岬木場を通り、殿隠山・遠見山の尾根道を行く「みさき道」があったか。考えられなくはないが、道の連続がない。字長迫より井上(いかみ)集落などを通り脇岬へ下るようである。
19 国土地理院に明治34年測図旧版地図、県立図書館に明治18年「西彼杵郡村誌」があり、判断の基準となった。また天明七年の大久保山から戸町岳に残る藩境塚を新たに確認した。

(注)この稿は、当会の研究レポート第1集26頁に掲載している。

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                   千々川納手岩三段滑滝  長崎の隠れた名滝

 長崎のギネスブック「長崎なんでもNo.1」が昭和63年刊行されている。地形編で、大きい滝は「平間町 滝の観音 落差30m」しか紹介されていない。滝・巨樹・石・景観・古道等の調査が本にはあまりなく、ランクがないので物足りなく感じる。若い人が今後、ぜひこの方面の調査に挑戦してほしい。

 「滝」の厳密な定義は知らない。長崎山岳会故臼木寅雄氏は「只見た時の感じに過ぎないので、たとえ二米そこそこのものでも落水有壺で遡行を妨げる崖を拾い上げたまでである」と注釈されている。
 氏を取り上げたのは、千々川に関する貴重な記録を私が手元に持っているからである。
 長崎山岳会会報「足 跡」No.13/1969.12。「特集…千々川」。

 千々川は八郎山系の裏側にあり、橘湾にそそぐ。長崎半島で最大の流域と豊富な水量を有したが、当時は至って交通不便、辺ぴな地域で、遡行を試みる人は稀であった。
 長崎山岳会がここに最初に足を入れたのは、昭和32年。それから10年をかけた踏査結果が、会報に「千々川遡行 臼木寅雄 昭和42.10記」として掲載されている。核心部分の記述は、次のとおり。

 「八郎川の合流を左に見送り尚も遡行を続けると両岸から支稜が押迫り川筋を扼するようになると突如として一大岩壁が立塞がり滔々として落下する高三十米位の大滑滝が現われる。納手(のうて)岩と云う。右岸を注意して登ればザイルなしでよいが初心者には安全を期してザイルを用いる必要がある」

 同会山崎氏撮影の「納手岩滑滝」当時の写真は、上のとおり。普段は水量がなく大雨の後しか出かけられないが、この記録と見事な写真を見て、千々川遡行を若い頃に3度ほど試みた。
 現在の千々川は、長崎大水害後、大きく変貌した。川にはコンクリート堤防が何箇所も築かれ、上部宗津地区は地すべり防止工事があって山道が寸断されている。八郎岳を越す大崎林道もできた。

 現在は川の遡行はできないが、この滝へかえって行きやすくなっている。滝の上部には前から部落の上水道取水口があったが、千々バス停から農道が奥まで上がり、農道終点手前からパイプを敷設している山道を20分ほど歩くと、取水口の淵に着く。この下流に10分ほど急斜面の山道を下ると滝下に出る。
 最近の写真は、梅雨の合間を見計らい、増水した平成19年7月8日、現地へ行って撮ってきた。

 私の印象から言えば、長崎市内第一の名滝は、この写真のとおり千々川の落差30mある「納手岩三段滑滝」、次に藤田尾「津々谷の滝」がランクされるのである。

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