みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                 「Mみさき道歩会」の組織と活動の状況

1 会の名称と発足
 「Mみさき道歩会」は、平成15年3月頃発足しました。この頃からそのような会の名称を使っているようです。2のとおり実態のない組織と理解してください。
 読み方は「みさきどうほかい」と読みます。頭の「M」は「みさき」と「山」の意味で「M」をつけました。単なる語呂合わせです。「みさき道」を大いに歩くこと、また「みさき」とは長崎半島全体を指す言葉ですから、この自然を楽しもうということです。

2 会の目的と組織
 三和町(合併前。以下同じ)は、「みさき道」の中間地点です。道塚4本が残っており、今でも街道の雰囲気がただよう長い山道にかかる、ちょうど入口となります。
 このため三和町教育委員会や三和町史談会では、「みさき道」研究と保存が行われていました。私たちはこれに協力するため、草刈り整備のボランティア活動を主にして、同時に「みさき道」の調査研究も行うことにしました。
 あわせて、「みさき道」に限らず対象エリアを広げ、八郎岳山系をはじめ、長崎半島と市周辺の山々になるべく親しむための行事を実施し、距離・時間の計測や道案内の道標プレート、休憩ベンチの設置などを手がけています。最近は、市外・県外の山への企画も組んでいます。

 会と言うものの、特別な組織ではありません。地元を中心にした有志と、その他協力者の集まりに過ぎません。会則・会員登録・会費などありません。道の整備をはじめ、会としての行事に参加された方、調査研究に協力していただいた方が、会員と考えています。 対外的に必要なときだけ会の名称を使用します。あくまで連絡者として、代表1人がいます。

3 会の活動状況(略) 別項「長崎の山野歩き」の各記事とコース地図参照  
4 会の連絡先 (略)

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             本河内浄水場正門左脇にある「秋葉山大権現道」の標石

 本河内低部水源池の底に消えた長崎街道は、高部水源池との間に上り、これから右岸の旧道を行く。この本河内浄水場正門左脇に、朱塗りの刻字が残る立派な「秋葉山大権現道」「妙相寺」「右」「左上宮迄八丁」の標石がある。

 「秋」の字は何故か偏と旁が逆である。裏面は「従寛光孫山城国久世郡槇嶋之住 太田野右衛門尉行三男 太田益右衛門直徳 建立」。30cm角、高さ1m。上部は四角錘でどっしりしている。

 今は「妙相寺入口」バス停から入る。「長崎街道」越中先生の稿は、この辺りを「明治十九年、我が国で三番目に建設された水道の水源池が建設されたとき、水源池新道が造られ、古道は失われてしまったが、先年その水源池の中より分かれ、奥山峠を越え、旧矢上村中尾に行く途中の妙相寺川に、幕末のころ架けられたアーチ型の小さな石橋が発見され、市の文化財に指定され保存されている」と書かれている。

 秋葉大権現とは、妙相寺から烽火山に登る道の途中となる。妙相寺は、長崎市立博物館刊「長崎の史跡」によると次のとおり。今の石門は、この標石の所にあったらしい。

 「175 妙 相 寺(曹洞宗・瑠璃光山 所在地:本河内町2439番地)
 妙相寺は、延宝7年(1679)皓台寺5代住職逆流が開創。寛永19年(1642)開創の今籠町の宗円寺が衰微したもので、逆流がこれを再興、宝永4年(1707)現在地に移転した。文化6年(1809)以降、異変の際の中国人の避難所とされた。後山は秋葉大権現祠、柊大明神祠、天満天神祠などが祀られている。なお、境内の石門はかつては長崎街道沿にあったが、水源池が建設されるに及び現在地に移された」

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            滑石4丁目にある式見手熊道「右志きみ 左てぐま」の標石

 長崎市立滑石公民館に行くと、1988年地元編纂委員会編「写真構成 長崎滑石郷土史誌」があり、139頁に珍しい標石の写真があった。
 「右志きみ 左てぐま」と読み取れる石である。

 「この地蔵の近くの4丁目多以良初見宅に保存されている式見手熊道標石は、元もと4丁目山の口の小川の道路改修記念碑そばにあったもので、左へ上る旧道が手熊への山道であった。石柱は自然石で幕末ころのもの」と、写真説明がある。
 地蔵とは「現在の4丁目もと木下川内にあった下山堤の守り神として堤のそば式見追分の入り口にあった」が、団地造成で堤は埋没され、地蔵も流転している。

 滑石4丁目多以良初見宅は、以前通っていた「あぐりの丘」へ行く道の途中である。道路改修記念碑近くのお宅を、一度訪ねてぜひ標石を見たいと、平成18年2月19日川上君と出津・黒崎調査の行きがけ寄ってみた。

 多以良氏は団地連絡協議会長や郷土史誌編纂委員長をされていた。今は高齢となられ娘さんが住まわれている旧家の庭の大きなヤマモモの木の根元に、健在であったが横倒しにされて標石はあった。
 岩屋山の西肩を越して、古道はまだ残る。

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                        矢上「滝の観音道」の標石

 脇岬観音寺へ至る、脇岬海岸国道上にある元禄10年(1697)「従是観音道」の標石は、「みさき道」の道塚で紹介している。
 これは同じ「観音道」でも、矢上にある「滝の観音道」の標石。
 間ノ瀬川の中流約2.5kmのところ。平間町に滝の観音は位置し、滝の景観・落差は市内で第一級と思われる。山峡谷間の幽玄郷。普茶料理を味わえる。
 昔から諌早家の祈願寺となり、参詣が多く、立派な道標の標石が建った。

 参詣道の標石は、まず矢上側国道からの間ノ瀬入口に、「瀧山観音道」の大きな石碑が建つ。25cm角、高さは1.5m。天保12年(1841)の建立。新しく再建されたとも見受けられた。
 上写真の右側、低い方である。

 次は、松原町の親和銀行保養所「迎仙閣」(ぎょうせんかく)の庭にある標石。
 国道からは、JR「肥前古賀駅」の標識から入ってすぐの場所である。
 ここは故井上米一郎氏が、先代より継いだ紙業隆盛の頃この地を選び、静寂な住み家として昭和21年建築。没後、銀行が譲り受けた。

 見事な庭園の中に据えられている。刻面は4面。「松原乃たきみち」「左長さ紀 松原名 若者中」「瀧観音」「弘化三歳次丙午二月且立焉」と読み取れる。
 寸法は23cm角、高さ1m。上部は四角錘。かなり大きく立派な標石であった。
 この標石はもともと国道入口にあったのが、20年ほど前ここにとりあえず仮設されているらしい。
 近くの道にも他に小さい標石が2本あったが、これは道路工事の時からか、不明となっている。 

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                   外国人居留地跡のある境界標石の受難

 郷土史家故永島正一氏が昭和34年10月「長崎手帖 第21号」で紹介した長崎市広馬場町の十善会病院前、森米屋の店先にある外国人居留地跡の当時の境界標石である。

 撮影してから約47年を過ぎた今、現地に行ってみると、上の写真と記事のとおり変っていた。碑のわびしい姿がまたひとしおであった。

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