みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                  林郁彦氏と長崎医学伝習所「養生所跡」碑

 『長崎談叢19輯』(昭和12年発行)に収められた林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)に出てくる関寛斎「長崎在学日記」の紀行によって、「みさき道」が解明できることとなった。林郁彦氏とはどのような人か。

 この人の名は、昭和13年「長崎市史 地誌編 名勝旧跡部」補遺「養生所跡記念碑」の項、及び昭和12年「長崎観光会史跡案内誌」に名前があり、2資料から判明したのは、長崎医科大学長だった林郁彦氏は、小島養生所の史跡滅失を危惧し、記念碑建立に尽くし、碑名に筆を取った一方、長崎観光会の会長として活躍された人だったということである。

 碑の写真は佐古小学校の校庭に入れてもらって撮った。「長崎市史」に記した当時の碑から、1957年秋「西洋医学教育発祥百年記念会」が建てた新しい碑に変わっていたが、たしかに「郁彦」の名があった。

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            脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十町」の道塚はなにか

 長崎から行くと、脇岬海岸に出た角のガソリンスタンドから、200mほど国道を行った崖の擁壁の石段上にこの道塚はある。
 「従是観音道」「山道十町」。元禄十年(1697)建立の刻銘がある大きな石柱だが、敬建願主がだれかわからない。今魚町が建てた観音寺境内の「道塚五十本」の天明四年(1784)より、年代は87年遡る。

 道塚の意味は、野母まで船や歩いて来て、この場所までは海岸沿いに道は来られたが、「これから断崖を捲くため山道となり、観音寺まで約1kmある」という道塚と思われる。ここに海に突き出た大きな断崖があったことは今でもわかるし、明治地図にも表われている。

 この山道は佐賀藩が作製した御崎村地図に描かれ、今の字図でも赤道として残っていた。そのルートは、道塚からクリーンセンター下の給水タンクまで上がり、横に同じ高さくらいで沢を2つ跨ぎ、海水浴場手前の稲荷神社参道口に出る道である。この先は国道を少し行きすぐ左へ広い畑の畑道に入り観音寺に達する。
 道跡を探しに現地を踏査したが、寸断しながらも道は残り、不明の所も暖竹が境目となってなんとなくわかる。崖を捲くと言っても、最低限であろうし、山道がすべてでない。この道は、戦後も海が大荒れの日や海岸道が決壊したとき使われたようである。

 このあたりの字は「矢戸」と言って区域が広い。脇岬の人が言う「矢戸越し」は、稲荷神社の道からクリーンセンターを越し出口集落に出て長崎へ行く道のようである。従って一部区間は観音道と重複している。海岸埋立ての進捗によって、観音道の出口=矢戸越入口は、少しずつ変わっている。
 

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