みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                     水紋石  愛宕山の山腹

 長崎市愛宕1丁目にある。清水寺前―愛宕の下り一方通行の車道を行き、小島小の上方位のところから車道が山腹に分岐しているので、入ってすぐ愛宕山頂へ上る石段があり、人家が尽きる5分ほど登る。市貯水タンクのある下側の田中宅左にこの岩面を一部見る。岩水ないし若水大明神はもうない。近所の人の話では、ここに小川が流れていた。長年の水の浸食でできたものであろう。

 岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊11頁の説明は次のとおり。
 市貯水槽下の田中邸庭の崖で昭和初期、子供たちは「カマボコ岩」と言って良き遊び場所であった。古書に曰く「水紋石は高野平郷小野窪という所にあり。石面自ずから水波の紋ありて描けるが如し。この石のある所に稲荷社あり。若水明神という。※今はない

 なお、長崎文献叢書「長崎名勝図絵」71頁の説明は次のとおり。
 99 水紋石 高野平の東、小野の窪にある。立ちならぶ岩の石面は、皆自然に水波の紋が表われている。内に稲荷の神祠が祀ってある。岩水大明神という。俗に八兵衛稲荷と呼ぶ。

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                  爺嬢石(じじばばいし)  上小島ピントコ坂

 長崎市上小島1丁目のピントコ坂途中にある。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊34頁の説明は次のとおり。

 長崎名勝図絵に曰く「僧都岡の坂道の折れ曲がる所にある。乳母の懐と言う。石は二つあって、北にあるのを爺石、南にあるのを嬢石と言う」
 僧都岡は長崎女子高先の所謂ピントコ坂上一帯で、約200mのぼった左側墓地前に爺石がある。今も二本の木が茂り格好の休み場所である。嬢石は話によるともう少し上の民家のなかにあったが、砕かれ其の面影はないとか。この道筋は茂木街道だったので数々の史跡も残っている。

 平松地蔵堂には俳人二宮岱雲の句碑や力士初瀬川の墓もある。この地蔵堂の真ん前に座するにもってこいの大きな平石がある。昭和年代、近くの子供の良い遊び石であったという。そこでこの石を”現代のばば石”と呼ぶことにしたいものである。

 平成19年8月28日訪ねたが、爺石があるのは「唐島家墓」の入口。石を良く見たら、上面にこれを割ろうとしたのか、クサビ穴の列が残っていた。
 平松地蔵堂は茂木道無縁塔からさらに登ったところ。南高から車道が下っている。岩永氏が”現代のばば石”とした石は、地蔵堂の道路向い側にある平石だが、植木鉢に占領されていた。最後の写真は二宮岱雲の句碑。

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                    茂木道無縁塔  市指定有形文化財 

 長崎市上小島2丁目、「ピントコ坂」の途中にある。現地説明板は次のとおり。

                   市指定有形文化財  茂木道無縁塔
      指定年月日 昭和50年12月5日 所在地 長崎市上小島2丁目698
      所有者 上小島2丁目自治会
 正徳2年(1712)8月天然痘が流行し、翌年3月まで患者3千余人を数えたという。このとき、死者(主として子ども)を供養し併せて長崎の町に病気が入ってこないよう祈念するために、この供養塔を建てたと思われる。
 正面には釈迦如来像を、右面には阿弥陀如来像を、左面には観世音菩薩像を、裏面には地蔵王菩薩像を、それぞれ石でつくり出しており、基礎石には獅子の像が彫り出されている。
                               長崎市教育委員会

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                   砲 痕 石  国史跡高島秋帆別邸跡

 長崎市東小島町、国史跡高島秋帆別邸跡内にある。岩永弘氏著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊10頁の説明は次のとおり。

 天保9年(1838)高島秋帆は、万才町の本宅が大火で類焼したので、小島郷(東小島町)の別宅に移った。庭園内に演習場を設け、砲術の指南を行った。大砲の的として使った石の砲弾の痕があり、砲痕石として保存されている。平成年度以前は裂けていなかったような記憶がある。経年か?。そばにあった説明板に次のように書いてある。

 この砲痕石のある射的場は、もとは上部も側面も石で囲んだ石室状のものであったが、明治33年(1900)ごろ当時の所有者が、この石材を利用して雪見灯籠をつくった。このとき向こう正面だけ残したのが、この砲痕石といわれている。

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                    琥 珀 石  松森神社境内

 長崎市下西山町、松森神社境内にある。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊2頁の説明は次のとおり。

 境内左側に、小池をまえにした大きな石が立っており、石の右上に「琥珀石」と刻まれている。
 今日、字体の風化が進み近寄って見なければ良くわからない。古の記録では、巾9尺、高さ5尺余とありだれが寄進したか不明である。昭和の本「栄光の長崎」には次のように記載されている。
 「この石の上手に一根3本の大きな松があったので新井白石が琥珀石と名付けた」

 琥珀石は松などの樹脂が埋れてできた鉱石。現地の石はそんな石には見えず、命名がよくわからない。

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