みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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          脇岬観音寺が禁制品の交易の場か。また、その商人の経堂が残るか

 脇岬観音寺については、長崎県文化振興課 HP「長崎文化ジャンクション 文化百選」 みなと編の長崎・西彼[8]脇岬港(西彼野母崎町)が同寺にふれている。長崎新聞社から同じ内容の本が平成6年発行されている。この中に次のとおりあった。

 「御崎(みさき)観音と呼ばれ、信仰を集めている地区の古寺・観音寺の境内は江戸時代、長崎奉行所の目を盗み中国から禁制品を運び込んだ交易の場だったとされ、膨大な利益を得た中国商人が罪滅ぼしに寄進したという経堂が残っている」

 史料は何から引用し、経堂は現存するのか。長崎県文化振興課に照会したところ、長崎歴史文化博物館本馬先生が次のように調べてくれ、懇切な回答をいただいている。

 「私自身観音寺には、そのような経堂が存在するとは聞いたことがありません。あの「文化百選」は長崎国際大学の立平教授たちが委員となり、長崎新聞のOBの人が書いたように記憶しています。伝承を記した本からの孫引きの可能性が強いと思います。唐人関係の「書画」は確かに観音寺にありますが、これは長崎市の文化財に指定するとき、私も観音寺に調査に行って実見しました」

 徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」には、天明期ころ「経蔵(唐船方日雇頭中)」の寄進があったことを記してはいる。

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        真鳥喜三郎著「ふるさと地名の研究」に、街道はどう表われているか 

 長崎市立土井首公民館蔵。著者は江川町に在住し昭和57年死去。土井首小で16年教檀にあった。かたわら土井首地区の地名の由来に歴史民族学の立場から眼を向け、この著書は昔を知るうえで大いに参考となる。
 「ケイドウ(街道)」「間道」といろいろな道を説明されているが、深堀道それから御崎道に続くルートは、現在の道に当てはめてどれが本道だったのか。どの道なのか。地蔵尊所在地の図を見ても、私たちは推測するだけで、判読できないのが非常に残念である。
 関寛斎一行が鹿尾川を渡ってから深堀に入るのに、江川回りと網代回りが考えられので、この参考のため調べているが、まだ不明のままである。

         真鳥喜三郎著 「ふるさと地名の研究」 昭和57年 8〜58頁
                   (主に土井首地区の地名の由来)

 (略)杠葉病院登口付近を波切口といい、そこに現在小さな波切口橋がかかっている。この川(草住からの小川)と鹿尾川の合流地点付近に木場がある。ここは地域に産する木材や薪炭類の集散地即ち寄場でもあり捌場でもある。捌く場合は此処から和船で深堀やその他へ積み出されたのである。(略)
 踵を返して再び木場へ戻ると波切口からの流れに小橋がかかっている。これを渡って東進すると鹿尾に達する。(略)これから考えると鹿尾が現在の大字土井首の地を指していた事は間違いない。従って土井首は昔は鹿尾なる呼称の中に包含されていたのである。これから見ると地名発生の地である鹿尾の里は土井首地区に於てどの部落よりも早く発生した最初の聚落であったらしい。(略)

 京太郎から引き返して再び鹿尾川沿いに出ると、その川向うの山の中腹に地蔵さんが祭られている。この地蔵さんは土井首地区で唯一の地蔵さんである。もともと土井首地区は浄土真宗の他力信仰圏であり従って自力系の地蔵菩薩とは縁遠くこの地蔵が此処に祭られているのは場違いの感じさえするのである。ただ竿浦や深堀などの自力信仰圏に行くにはどうしてもこの古道を通らねばならぬためやむを得ずその入口に祭られたものと私はひそかに思っている。衆生を導く地蔵尊がその梧道への道しるべとしてここに頑張って下さっているのだろう。

 「昔の道」を知る為には地蔵尊を次から次に辿って行けば、それが昔の道であるというのが私の持論である(地蔵尊所在地の図参照)が、この鹿尾の入口にある地蔵尊の次は中学校の裏手に祭られている地蔵尊、その次は堂ノ元橋のすぐ近くに祭られている地蔵さんであるが、これより(今のナフコ奥から尾根越し深堀の御船手へ行く道か)山に入って愛宕山の下の尾根を越えるまでの中途に一つ、尾根を越えて深堀の岩河(いわんご)の地蔵尊までの坂の中程に一つ、これらの地蔵尊を図のように結びつけると昔の道、所謂地区の人達の言うケイドウ(街道)が現出するのである。しかし街道とは言っても今日の道路の観念からすれば全く話にならない程の細道である。それは実際に通って見なければ納得は中々困難である。川の土堤伝いに更には丘を越え崖の上や田の畦を通り地形に沿って九十九折の道を幾曲りか通り抜け狭い坂道を上っては下るという、実地に体験して始めてそのもどかしさ困難さがわかるのである。

 中学校裏の地蔵さんに至るまでの途中に落矢という部落がある。ここは街道の坂道を下りた所であるが、ここから江川・末石方面に至る間道が分かれており、その道筋には四か所ほど地蔵尊が祭られており、又堂ノ元橋際の地蔵さんに行きつくすぐ手前で平山方面への昔の道が分れている。この道筋にも二か所ほど地蔵さんが祭られている。以上で地蔵さん関係の昔の道は終りであるが、他力信仰圏の土井首地区になると地蔵さんは全く見当たらず先ず磯道の辻から上の山道を通り四ッ辻に出てそれより網代・毛井首へと下り又江川の道へと通ずるのである。考えてみると昔の道は廻り道が多い。指呼の間に見える所へ行くにも廻り廻って行かねばならない。その結果昔の人達は田の畦や川の土堤など伝って近道を考えたのである。現在の県道はこの近道に沿って作られているものが多い。(略)

 この摩利支天の山の根即ち中学校のうしろに祭られているのが地蔵尊であることは前に述べた通りで、この辺一帯を太田と言っている。その名の通り田の広い所である。ここの川にかかっているのが太田橋で県道開通時の橋で、以前は橋もなく江川から高野原小学校(四年制)へ通う児童達はこの川を徒歩(かち)渡りして近道をし畦道伝いに通学したという。この橋の次の橋が堂ノ元橋であるが、これも県道開通時の架橋で勿論以前は橋はなかったのである。(略) 堂ノ元橋近くの丘の上にある阿弥陀堂の一角は竿ノ浦最初の簡易小学校のあった所で人々は堂の学校と呼んでいた。ここを出て高野原尋常小学校(四年制)(現在は山口氏宅地)に向うと学校のすぐ下の道に地蔵尊が祭られている。(略)

 踵を返して落合の里にもどると此処から間道伝いに江川・末石の道が開けている。江川墓地の脇に降ると、そこに地蔵尊が祭られている。ここを少し進んで川を徒歩渡し小高い丘の昔の細道を通り抜けると又地蔵さんが祭られている。この少し先きで末石方面への道と江川の木場への道が分れている。木場への道の途中に又地蔵尊が祭られている。一方末石方面への道を進むと太田川沿いの一隅に地蔵さんが祭られており、これから「十郎兵衛」の尾根を越(す。)本当の江川は柳田・落合方面からの流れと太田川の流れが合流する地点から川口までを意味し地区の人の所謂ドンク川がこれに該当する。
 太田川の末端付近は低湿地で満潮時には塩水が水田に侵入した。その為人々はこれを防ぐ為に土囲を築いた。これが土井田(エースレーン付近)の名のある所以である。ドンク川の右岸に木場がある。この辺一帯の木材や薪炭類の寄せ場であり捌き場でもある。今は河床が隆起して浅くなったが、昔はここから深堀方面へ薪炭類を積出したのである。これはちゃうど土井首のそれと全く同じである。

 江川の川口付近は昔は人家もなく埋め立ても進んでなかった為冬になると北西の季節風がまともに吹きつける海岸であった。ここにノコシという所がある。波越の転化したもので荒波が打越した所だったのであろう。ここを奥に向って進むと地区の人達が言うシャウヤンオックである。これは「潮合の奥」のことである。この辺一帯即ち陶器会社敷地一帯は昔は浅い海であったが次第に陸地化し一条の川筋を残すのみとなったが、この川は所謂潮と水がかち合う潮合の地でありその奥が潮合の奥である。これをシオヤンオックと訛って呼んでいるのである。(略)「潮合の奥」の米ノ山寄りに小名切(小波切)がある。小さいながら土井首の波切と同様潮止の名残りであろう。(略)

 平瀬は古語辞典によると「早瀬の対」、川の流れのゆるやかで平らな所とあるが、平瀬の地は川の流れというよりは海水の流れだと思われその流れのほとりの平らな所と解したい。それは北西の季節風をまともに受けるのは末石・江川の海岸であるが、平瀬はその風向とおおむね平行であり風波の影響は薄い。しかも現在毛井首への市道以西の平地は煉炭殻の埋立地であり元は波に洗われていた所で僅かばかりの平地が小丘の底辺にあっただけで耕地も少なく約十アール計りの水田が婆ン井戸の上にあっただけと古老は言う。しかしこのような無人の里がどうして目たたく間に聚落地となったか。それについては理由があるのである。明治二十七、八年の戦後(日清戦争)に勝ったわが国はその余勢をかって海軍の拡張に転じた。軍艦を走らせるにはどうしても強力な石炭を必要とする所からこれを精製して純度の高い煉炭を製成し需要に応えようとしたのである。その唯一の資源は目と鼻の先きにある高島・端島(後には天草からも)の上質炭である。これを処理する場として白羽の矢が立てられたのがこの平瀬である。地の利と言うべきであろう。時に明治三十三年。無人の郷は一躍脚光を浴びて登場したのである。その後缶詰会社の進出があり又江川との間の入江を整地して陶器会社が設立され、これら一連の企業の余沢(よたく「めぐみ・おかげ」)から平瀬は逐次発展の一途を辿ったのである。

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                 土井首の鹿尾川をどうして渡ったか

 土井首中学校同窓会誌「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」寺井房夫編 東京福田はる刊 平成13年3月発行の19〜20頁の中の記述は次のとおり。編者が土井首大山祗神社前の鹿尾川「ため」の地点を、「その昔、長崎への街道の渡しであったという」としている。

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」

 大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。

 『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
 中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
 私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川)等 千葉市在住』

 「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
 海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。


 同じ記述は、角川書店「日本地名大辞典 42長崎県」や熊弘人著「長崎市わが町の歴史散歩 (1)東・南部」の「古道町」の項にあり、「渡し」と記して誤解を生じやすい。書いている場所は同じようでも、当時この地点は、いわゆる舟の「渡し」でなく、飛び石を踏んで渡った「渡り」なのである。関寛斎日記は「下リテ一湾二出テ岸上ノ危岩ヲ渡リ一ノ間路ヲ行ク」と記す。

 土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
 今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。明治34年測図国土地理院旧版地図も「渡渉所」。上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片はまだ川底に平らな一部が残っている。

 鹿尾川はどの地点をどうして渡ったか。主街道の最重要なポイントでありながら、諸説や刊行本の記述がある。前述のほかに長崎歴史文化博物館蔵、上の写真の文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」(小ヶ倉・土井首部分)と次の史料を掲げるので、参考としていただきたい。

        庶務課史誌挂事務簿 「西彼杵郡村誌」第一 明治18年5月

土井首村            61〜66頁
川 鹿ノ尾川渡瀬 縣道二属ス鹿尾川ノ下流字法城方(放生がた磯道団地)二アリ径凡十間許水間ノ僵石(堰石せきいしか)ヲ踏テ以テ渡ル
  柳渡シ    村ノ西字磯道ノ海岸二属シ渡舟一艘アリ北小ヶ倉村二渡航スル便路二シ直径凡二百間余私渡
  深堀渡シ   村ノ西大迫ノ海岸二属シ渡舟三艘アリ南深堀村二渡航スル便路二シ海上凡半里許私渡
道 路 街道筋  縣道に属ス村ノ北小ヶ倉村界字古道(ダイヤランド3丁目)ヨリ入リ仝南竿ノ浦村界字柳田(江川町支所よりジョイフルサン側)二達ス長サ凡二十四丁余巾五尺許
    平瀬道  里道ニ属ス村ノ法城方(放生がた磯道団地)元標地ノ縣道ヨリ西二折レ竿ノ浦村界字小名切(ジョイフルサン左)ノ海邊二達ス長サ凡十三丁許巾凡四尺

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         長崎医学伝習所生「関寛斎」の人物像 (北海道陸別町HPから)

 陸別町(注 北海道足寄郡 阿寒湖近くにある)開拓の祖とされる関寛斎(幼名吉井豊太郎、寛<ゆたか>とも)は、天保元年(1830年)に現在の千葉県東金市に生まれました。生後、関俊輔(素寿と号して、私塾製錦堂を主宰した儒学者)の養子となり、関を名乗ります。
 寛永元年、18歳の時に佐倉にあった順天堂(佐倉順天堂)に入門し、佐藤泰然(さとうたいねん)の元で医学を学びます。そして寛永5年(22歳)に前之内村で仮開業するとともに、この年の12月に君塚あいと結婚しました。仮開業を行ったとは言え、順天堂を完全に離れたわけではなく修行を続けていました。その後、仮開業から4年たった安政3年2月に銚子で開業し、医者として本格的な一歩を踏み出しました。

 寛斎に転機が訪れたのは、豪商である浜口吾陵(ヤマサ醤油の当主)の知遇を得てからでした。まず、彼の勧めにより江戸に出て伊東玄朴らの指導を受けてコレラの予防研究を行い、その後に彼の後援を得て長崎に留学しました。(30歳頃)
 長崎医学伝習所では、泰然の子である松本良順(後の幕府筆頭医・維新後初代陸軍医総監)らと同じくオランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。この伝習所は松本良順が中心となって設立されたもので、寛斎は63番目の弟子でした。この時の寛斎の見聞は「長崎在学日記」に詳細に記されていますが、医師として医療活動を行った傍らオランダ料理を食べたりワインを飲んでみたというような記録も残っています。またこの間に勝海舟が艦長の咸臨丸の補欠医官も勤めました。

 足かけ2年の長崎留学を終えて、文久2年に再び銚子に戻った寛斎は、その年に順天堂時代の同門の推薦により阿波徳島藩主蜂須賀斉裕の国詰侍医として招聘されます。蜂須賀斉裕は将軍家からの養子でしたが、開明的な思想の持ち主だったようです。しかし養子という身で藩政から遠ざけられ、強度のノイローゼになっていました。寛斎は誠意ある診察を行い斉裕からも強い信頼を受けました。
 さて、時は幕末。混沌とした中、慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発します。実はこの戦いが始まった3日後に藩主斉裕が急死してしまいます。寛斎は典医の辞職を申し出ますが、斉裕の後を継いだ茂韶(もちあき)はこれを許しませんでした。
 茂韶は倒幕に参加する決意をして自ら兵を率いて官軍と合流しました。寛斎も軍医としてこれに従い、大阪から海路江戸城に入城します。

 そこで突如寛斎に神田三崎町の講武所に野戦病院を開設するよう総督府令が下りました。これは江戸に向かう時に同行していた官軍軍防事務判事である大村益次郎が寛斎の実力を買ったためだったようです。江戸・上野で挙兵した彰義隊の鎮圧に参加し、多くの兵士の命を救ったという事で時の官軍総参謀である西郷隆盛より激賞されています。
 この功績により、奥羽戦争時に開設された奥羽出張病院の頭取として東北に赴任します。この時の寛斎の治療スタンスは敵・味方違わず怪我人は全て請け負うという、今で言う赤十字の理念に通ずる考え方で多くの患者を治療したとされています。この時の模様は「奥羽出張病院日記」に詳しく記述されています。

 官軍に参加した中堅から幹部のほぼ全員が新政府で要職を占める中、寛斎は奥羽戦争の終結を待って徳島に戻ります。そして明治2年徳島藩医学校を創立し、更に徳島藩病院を開設、寛斎は院長に就任します。
 その後、短期間ながら海軍省に出仕し、甲府山梨院長に転任しますが、2年ほどで徳島に戻り、明治7年に現在の徳島市城東高校付近で開業します。
 徳島での開業医・寛斎は「赤ヒゲ」的な活動をした事が記録に残っています。貧しい者からは代金を得ず、富める者からはきちんと頂く。しかし自身は質素を旨とした生活だったようです。また、折に触れて蜂須賀家の墓域である眉山に登り、若くして亡くなった蜂須賀斉裕の墓所を訪れていました。

 こうして、一応のところ功成り名を遂げた寛斎が北海道移住を 公表したのは、72歳の時だったと言います。既にこの時、長男である又一は札幌農学校(北海道大学の前身)で学び「十勝国牧場設計」という論文を著した後でした。斗満地区(現在の陸別町の他、足寄町、本別町の一部を含む)の広大な土地を払い下げられた寛斎は、現在の陸別町関に入植し、関農場を開きました。
 陸別という土地は一から拓くには大変困難な土地柄でした。思うように作物が実らず、疫病で牛馬を多数失った事もありました。それにうち克ったのは、寛斎の「農場を拓く」という強い意志と、又一の「アメリカ流大規模農場」への夢だったと思います。しかしその二人の意思と夢の微妙な違いが悲劇となってしまいました。
 寛斎は農場を拓き、それを小作人(農場で働く従業員)に分け与えて自作農を育てようという考えでした。一方で又一はアメリカ流の大規模農業をめざし、スケールメリットを求めたのです。それが一つの要因となり、寛斎は自ら命を絶ったのでした。享年83歳でした。

 医師としての寛斎の業績としては銚子時代における種痘が挙げられます。かって難病であった天然痘は種痘を施すことで防ぐことができるという知識が日本に入ってまだ間もない頃の事でしたが、寛斎は銚子で積極的にこれを推進しました。また、著書「命の洗濯」では海水浴と登山を奨励した他、1年足らずの甲府時代は梅毒検査を協力に推進したという記録も残っています。北海道に渡ってからは一旦医籍を返上したのですが、医師がいないという状況を見たせいか、復活させて時折診療に当たったようです。

 加えて、文化人としても寛斎は当代一流で多くの文化人、知識人と交流がありました。中でも明治時代の文豪徳富蘆花との交流は有名で、その著書「みみずのたはこと」では一章を割いてその関わりを著述している他、二人の間に交わされた手紙が多数残っています。寛斎自身も前述した「長崎在学日記」に代表されるように非常にこまめな人物で、多くの手紙と著作、日記が残っています。趣味の歌は、「白里」と号して約300首が残っています。「白里」の意味は、その出身「九十九里」を示したもので、「百里」から「一」を引いて白里としたそうです。
 寛斎の足跡は、陸別駅に併設されている関寛斎資料館でたどる事ができます。また、町内には歌碑、顕彰碑が多数建立されています。

 「忍」 忍びてもなお忍ぶには祈りつつ誠をこめて更に忍ばん 八十三老 白里
     町内青龍山麓にある顕彰碑

  壮年者に示す
    いざ立てよ 野は花ざかり今よりは 実の結ぶべき 時は来にけり 八十二老 白里
     これも青龍山麓にある歌碑。ちなみにこの石は元は陸別小学校の門柱でした。

                       (資料提供:陸別町関寛翁顕彰会)

(注) この稿は、研究レポート第1集に収録している。長崎医学伝習所時代の「長崎在学日記」の中に、文久元年4月、仲間3人で御崎観音詣でをした貴重な紀行文がある。
 なお、HPは紹介していないが、関寛斎は司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。

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        明治18年「西彼杵郡村誌」による各村の当時の道路状況の一覧表

(注) この表は、当会の研究レポート第1集27頁に掲載している。

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