みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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         「みさき道」がダイヤランド内を通ったと、どうして判断できるのか

 ダイヤランド内に道塚が3地点にあったことは、団地開発前を知る小ヶ倉柳生れの人の記憶談を得ている。少青年時代この辺をよく歩き覚えており、道塚は三和「みさき駅」前にある現物を見せると、これと同じであったと断言された。現在、蚊焼在住の山村氏である。。蚊焼峠入口の茶屋の特定で奇縁となり、話を聞くうちにダイヤランドに道塚があったと言い、さらに千本山の砲台の件もわかった。たいへん世話になった方である。

 ダイヤランドに道塚があった所は、明治地図にある分岐で、文久古地図に地名が表れている「山頭」「一本松」など3地点であると思われる。関寛斎の日記・これらの地図類から当時の「みさき道」はダイヤランド内を通ったことは間違いない。

 道塚の所在は、菱重興産を通じ三菱地所開発本社に問い合わせて貰ったところ、今団地内にあるカドムラ企画が当時測量に当られたことがわかった。だが、道塚の所在や当時の詳細な図面は不明であった。

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                  「みさき道」は、戸町の海岸を通らなかったか

  新地・松ヶ枝・浪の平あたりは、海で街道はなかった。現在の戸町に行くにも、必ず二本松から今の戸町小学校前まで下った。昔はここまで海岸線が入り、「杉の浦」というさびしい漁村であった。異国船の来航により寛永15年(1638)野母遠見番所が設けられ、この頃から各地の長崎警備が強化され、戸町番所が置かれ魚見や白崎に台場が築かれた。安政6年(1859)大村領だった戸町村は、交換されて天領となった。

 戸町から海側の山腹を小ヶ倉塩屋まで行く道はあったかも知れないが、魚見岳台場の二ノ台場付近を通る道となり、一般の通行はあまり許されなかったと思う。明治29年でも深堀森氏は小菅から源右衛門茶屋へ上っている。こちらの道が多く利用されるようになったのは、小ヶ倉柳の先が整備された明治の後年からであろう。磯道の海岸から小ヶ倉柳間に「柳渡し」の私渡一艘があったことは、明治18年「西彼杵郡村誌」に書かれている。

 平氏「肥前国深堀の歴史」によると、佐賀藩二代目藩主光茂が寛文12年(1672)9月16日、深堀巡見の際、「西泊・戸町番所を見廻ったのち戸町から陸路深堀に到着した」(光茂公御年譜)とある。これがこの小ヶ倉上揚を通っていた道と思われる。

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         「源右衛門茶屋」は、ダイヤランド入口近く高比良造園内にあったか

 この付近は、小ヶ倉茶屋家の所有地である。私は昭和60年頃、ここに「御崎道」の道塚があることは知らなかったが、力士墓があったことは覚えている。ダイヤランドは昭和56年起工、昭和59年4月から販売を開始した。高比良造園はここで店を開いており、植木を買いに行ったからである。力士墓は、平成4年7月相光石油スタンド横に移された。ただ谷桜碑は、なぜか竹林内に残る。

 ここに道塚や力士墓があって、茶屋家子孫が茶屋のいわれを、今の力士墓のそばに立派な石碑をもって建立されたことを考えると間違いない。
 この茶屋は、明治29年2月当時も営業していたことが、深堀森家の記録(別項)で確認できた。

                   〔近くにある力士墓と茶屋いわれ碑文〕
 この力士墓は天保十年ごろ東京相撲で活躍した「二子島力士」と慶応四年ごろ宮相撲の強豪であった「熊ヶ谷力士」のものである。往時この界隈は、御崎道の主要路で岬の「観音寺」参りの商人や深堀武士達の往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる。
近年団地開発が進み付近の様子もすっかり変りこの碑の存在が忘れられ、おろそかにされてきた経過もあったが、父茶屋仙次郎の遺志をくみ、土地造成を機会にこの地に再建立したものである。
    平成四年七月吉日      再建者 茶 屋 義 行 筆者 園 田 義 光

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      新小が倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石は、どんなもので位置を動いてないか

 新小が倉1丁目にある。ここは旧大村領戸町村と佐賀領小ヶ倉村の藩境で、長年の藩境紛争が天明7年(1787)解決し、白崎とともに藩境石が建った。詳しくは別項「大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査」を参照のこと。

 石の位置は、断定はできないが当時の藩境が今の町界と変わらなかったら(住居表示実施で町界が変更しているが、この地点は変わらない)、少しは昔の街道筋から動いているだろうが、ほぼ間違いないと思われる。小が倉バイパスの工事前を知る小ヶ倉の年配の人はそう言う。昔の写真は中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」にある。

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                「戸町カルルス」とは、どんなところだったか

 「みさき道」は、二本松山中の道塚から下道へ下る。弁慶橋のガード下をくぐり、小が倉バイパスの「弁慶岩」バス停に出、戸町の谷へ下ると「戸町カルルス」の跡あたりを行く。

 「温泉はチェコスロバキアのカルルスバート(カルロビ・バリ)の鉱泉を結晶させた薬品、カルルス水を沸かしたことからカルルス温泉と呼ばれた。戸町カルルスは、玉蝉園とも称した。明治34年頃、戸町の藤田東三郎・東人親子が開設、敷地は約1,000坪で、4・5月は藤や菖蒲、9、10月は萩や楓で賑わったという。園内には温泉場があり、中川カルルスに対して戸町カルルスと呼ばれた。」(市立博物館刊「長崎の史跡」南部編から。古写真は長崎大学附属図書館所蔵分)

 この上手の竹林に由緒ある井戸が残る。水はパイプで戸町海岸の製氷工場へ送られていたらしい。やがて戸町の一方通行交差点と出合い、戸町中学校の方へ向けてバス道を行く。少し手前から左へ石段を上がると墓地があり、中学校前へ達する。

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