みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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              史跡「戸町御番所境内」の境界標石のあと1本はどこに

 戸町番所跡を訪れたのは、平成18年5月。戸町トンネルを港内の海側に回り込むトンネルのできる前の車道を行く。戦後建てられた市営住宅は払い下げられ、国分町住宅に行く車道の登り口が、県指定史跡「戸町御番所跡」の正門となっており、立派な石垣が残っている。

 入口に来てすぐ目につくのは、昭和39年史跡指定当時、市が建てた大きな史跡説明板の石碑である。戸町番所の敷地は、港口に向かって斜面に沿って3段からなっていたようだ。しかし、この碑にあるとおり、宅地等の開発でもって遺構の確認はほとんどできない。番所の当時の姿は、一部残る石垣や石段の道などから偲ぶしかない。

 石碑の碑文を見て気づくのは、”わずかに境界要所に建ててあった「従是御番所境内」と刻まれた石標九本の内四本を現存するばかり”との部分である。標石を探した。この標石が史跡に指定されている。
 1本は、この正門に据えられており、「七番標石」。1本は、この正門からまっすぐに石段道を奥まで登ると、最奥の畑の端に立てかけられており、「六番標石」であった。

 あと2本がわからなかった。山頂近くに大型マンション「アプローズ長崎南六番館」が建設されており、平成19年2月完成し、山頂に駐車場から行かれた。ここは「水本城址」でもある。
 「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間 弐拾九間半 亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」の四面に刻みのある「五番標石」を確認した。寸法は21cm角、高さは90cm。
 マンション建設中のまだ工事現場で、どうしてもわからないのは、「四番標石」である。

 (追記 碑文全文)             史跡 戸町御番所跡
寛永十九年(西暦一六四二年)肥前藩主鍋島勝茂侯幕命によりこの地(当時西彼杵郡戸町村字下郷)に御番所を設け対岸西泊御番所とともに各々士卆五百余人を駐屯させ両番所とも鍋島黒田両藩にて隔年交代に長崎警備に当り明治維新に及んだ世に両番所を沖の番所又は千人番所という
戸町御番所の跡地一万坪余は維新後その所有者が転々ののち明治二十五年国分氏に至ったが一方市街の発展に伴い様相が変化し昔日の面影をとどめがたくわづかに境界要所に建ててあった「従是御番所境内」と刻まれた石標九本の内四本を残存するばかりでかくては由緒ある史跡も世に忘れ去られるの憾がある
偶々この戸町番所跡が県文化財として指定されたのを機に同憂の士相はかり国防的重大な役割を果した史跡を末代に記念しかたがた地域保護開発の功労者国分顕藏翁の遺徳を顕彰するため碑を建てるものである         昭和三十九年三月   長崎市長 田川 務

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                   大谷町にある「筑州建山」の標石は筑前屋敷の境界柱

 大谷町は長崎港の対岸地区にある。水の浦町が町界町名の変更により「水の浦町」と「大谷町」に分かれた。この町は鎖国時代、西泊番所で長崎港を警備した筑前黒田藩兵士の宿舎と馬場があった。

 屋敷の境界を示す「筑州建山」と刻んだ貴重な標石4本が、大谷町のカトリック飽の浦教会から九州電力飽の浦変電所にかけての尾根石段道に残っている。

 旧渕村の歴史を顕彰する会作成「幕末の水の浦」説明板は、水の浦バス停」近く日光タクシーの川端に設置され、絵図がある。

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                  田上の徳三寺近くに明治44年「祝捷山登口」碑が見つかる

 写真のとおり由緒ある珍しい標石が、田上の徳三寺近くで見つかっている。2月21日見学に行った。
 「祝捷山登口」と刻んだ碑は現在、国立長崎病院前バス停上の寺駐車場の入口左隅に置いてある。徳三寺の話によると、寺前の県道工事のとき折れたのが発掘され、補修して横たえていると言う。
 碑の寸法は、24cm角、高さ114cm。正面「祝捷山登口」、左面「道仙松在此山中」、右面「此坂路百間改築 明治四十四年十月竣工 田中直三郎」

 この石らしい記録は、昭和13年「長崎市史地誌編名勝舊蹟部」祝捷山の項で見つけた。
 「西北なる小島、田上方面よりの入口には各石柱を対立せしめ小島口には日耀千旗影、山呼萬歳声と刻し、田上口には武威揚海外、義気貫天中と刻す、西道仙の題する所である」。
 碑の背面に刻字はないようだが、別のところの石とは考えられない。旧茂木街道沿いから祝捷山へは両方の登り口があった。

 「祝捷山」とは、日露戦争の戦勝を記念し西道仙が命名。田中直三郎が整備した。山頂の自然石にも大正3年山名が彫られ、現在運動公園となって隅に移設されている。「祝捷山登口」碑はこれより年代が古い。
 西道仙書の田上口の1本「武威揚海外」も、この横に現存して立っていた。

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           「従是神崎御焔硝藏掛並常住小屋境内」の標石2本があった

 「神崎台場」は長崎港の入口に位置し、鎖国時代、対岸の「魚見岳台場」(国指定史跡)とともに長崎港の警固する重要な台場で、古台場・新台場・増台場とも設けられた珍しい台場である。
 増台場は文化7年(1810)構築され、山中に焔硝藏の遺構もあることは知られていたが、平成18年12月、江越先生と私がこの藏の周辺を調べ、当時の「境内標石」2本を見つけた。
 石油油槽所となっている古台場跡には、昔の英国ライジングサン(RS)会社の英字境界標があった。

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               福田網場脇に冷泉の「金水温泉」湯治場があった

 大正七年「福田村郷土誌」に、次のとおり「金水温泉」の記述がある。
「古来世人に知られる観音崎の湯は、俗に「金水温泉」とも言う。硫黄等鉱物を含有し、創傷・かさ類・微毒・脚気等の諸病に特効あり。将来適当なる経営をなさば有望なる富源なり。」
「一時、其名遠近に聞こえし福田観音崎の湯は、木鉢村近藤栄次の経営なりき。然るに位置不便なるため収支償わず、それ故に幾多の特効に関わらず今は全く放任せらる。」

 明治34年(1901)年測図国土地理院旧版地図には、「福田村」の「田」の字の左にはっきりと海岸埋立地と建物2棟が表示されており、当時から営業されていたことがわかる。

 昨年11月、この温泉跡を探した。女神大橋を渡り神の島工業団地へ通じる「金水トンネル」を出た所のすぐ下の海岸に、源泉池と湯壷跡が残っていた。西海の海岸にまぼろしの温泉を見たようだった。

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