みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                内院塞の神のスタジイ  対馬市厳原町豆酘内院

 厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。久和隧道を越して下ると与良内院、谷間の橋を渡って豆酘内院となる。
 この谷間の橋を渡って県道は登りにかかるが、登るすぐ途中に海岸部の豆酘内院集落へ行く旧道が左へ下る。「内院塞の神のスタジイ」は、旧道へ入ってすぐ右方の道脇上の斜面に立つので、集落まで行く必要はない。旧道の左には1軒の小さな畑小屋があるところである。
 対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。

               116 内院塞の神のスタジイ  (厳原町豆酘内院)

 内院の入り口の塞の神の背にあるスタジイの巨樹で幹周り6.40m。道路整備の時に一部の枝が落とされていますが、堂々とした枝ぶりと根が美しい姿の良い巨樹です。
 116 内院塞の神のスタジイ  スタジイ  幹回り 6.40m  樹高 18m

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                    対馬藩お船江跡  対馬市厳原町久田

 厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。厳原港のすぐ次の入り江が久田浦で、久田川の河口に「対馬藩お船江跡」がある。
 県道から海岸に新しく架かった「お船江大橋」が見えるので、下って行って橋の中間の階段を利用し久田川の川岸へ降りると、そこに史跡説明板が設置されているそうである。
 まだ町中に史跡案内板が整備されてなく、船着場がほとんどわからなかった。
 最後の写真は、久田浦の南はずれで見た海岸の井戸。
 長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

                      対馬藩お船江跡  県指定史跡

  指定年月日 昭和44年4月21日  所在地 下県郡厳原町大字久田字白子4−1
  所有者 長 美嘉
 厳原港の南、久田浦に注ぐ久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠がある。対馬藩お船江の跡である。寛文3年(1663)の築造で、築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。
 江戸時代、水辺の各藩はいずれも藩船を格納する施設を設けていたが、これほど原状をよく遺存している所は、他に例がない。日本近世史上、貴重な遺構である。

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                   対馬藩主宗家墓所  対馬市厳原町西里

 厳原港から国道382号線により厳原の町の中央通りに進み、今屋敷の交差点から左折して対馬市役所の方へ行くと、この道先が「万松院」への参道となる。
 寺の右手山腹に対馬藩主宗家墓所があり、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登って行く。樹齢数百年の大スギが脇に立つ。
 最後の写真は、金石城跡の復元された庭園から見た万松院。巨樹、石橋の項も参照。
 長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

                   対馬藩主宗家墓所  史跡(国指定)

  指定年月日 昭和60年2月18日 所在地 下県郡厳原町大字厳原西里字金石ほか
  所有者 万松院 
 清水山南麓の宗家の菩提寺である天台宗万松院を中心に、山腹の宗家歴代の墓地を含む広大な地域である。万松院は藩主義智(宗家第19代)を弔って、元和元年(1615)にその法号をとって創建された。
 墓地は、桃山様式を残す山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギが茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段には積極的な朝鮮外交で有名な室町期の貞国ほか、下段には側室などが眠る。
 対馬藩は十万石の格式であったが、壮大な墓地は数十万石の大藩なみといわれている。

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                   万松院のスギ  対馬市厳原町厳原西里

 厳原港から国道382号線により厳原の町の中央通りに進み、今屋敷の交差点から左折して対馬市役所の方へ行くと、この道先が「万松院」への参道となる。
 寺の右手山腹に対馬藩主宗家墓所があり、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギは、この石段脇に3本立つ。
 長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

                    万松院のスギ  県指定天然記念物

  指定年月日 昭和41年5月26日  所在地 下県郡厳原町大字厳原西里192
  所有者 万松院 
 万松院は対馬藩宗家の菩提寺で、国指定の史跡である。以前は、この墓地内や長い参道の石段の左右に20本ばかりのスギがあったが台風などで倒れ、現在は3本を残すのみとなった。
 この3本は、それぞれ目通り幹まわりが5.2m・6.2m・7mで,樹高はいずれも35m内外である。

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                   今屋敷の防火壁  対馬市厳原町今屋敷

 厳原港から国道382号線により厳原の中央通りを行き、今屋敷の交差点から所在図の場所へ歩いて行くと、「今屋敷の防火壁」が見られる。
 Aが県指定防火壁の場所で、案内標識と現地説明板がある。
 Bの場所にも防火壁が残り、「嘉永二 酉三月日 町中 火切」(1849年)と刻んだ石があり、説明板がある。
 長崎県HP「長崎県の文化財」によるAの説明、及びAに設置されている現地説明板は次のとおり。
              今屋敷の防火壁  県指定有形文化財・建造物

  指定年月日 昭和61年1月10日  所在地 下県郡厳原町大字今屋敷705−1
  所有者 海地浮久恵
 この防火壁は、江戸時代につくられたものである。江戸時代、対馬藩の首都府中(現厳原町)は、しばしば大火に見舞われた。藩当局は種々その対策を講じたが、その一つとして天保12年(1841)以後防火壁をつくり、その延焼を防ごうとした。これら石垣によるものは全国的に類例が乏しく、貴重である。
 しかし、今日これらは自然崩壊、ないし屋敷地の改造等に伴い破壊に瀕している。よってそのうちの一つで、最も当時の姿を伝え、かつ天保15年(1844)正月という築造年月の陰刻の見られる本防火壁を指定した。
 
                          今屋敷の防火壁

  県指定文化財・建造物 昭和61年1月10日指定
 石垣は対馬の名物であるが、火災の類焼を防ぐため、火切として高く築かれた石垣の防火壁が、昔の町割の線に沿って設けられた。現在残っているのは数箇所に過ぎないが、最も状況が良いのが本例である。
 刻銘には、「天保十五年申辰正月 消防為 火切築え 高さ一丈三尺 根幅五尺」とある。石垣の全面に火に焙られた痕跡があり、府中(厳原)町屋の軒並を護った貴重な遺跡である。昔は江戸市中にも火切があったが、現在は跡形もなく消滅し、日本中で遺っているのは対馬の厳原だけという。                           厳原町教育委員会

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