みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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            小榊の散策 (5) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

 「小榊の散策」(5)は、神ノ島・四郎ケ島で見かける「長崎要塞第一地帯標」3本と、その他珍しい標石類。そして神の島公園からの展望。

写真  1〜    8 長崎要塞第一地帯標
 長崎要塞の第一地帯とは、明治31年(1898)から建設が進められた神ノ島砲台等を中心とした長崎要塞の法が適用される「防御営造物の各突出部を連結する線」内の地帯を指す。その区域の外線に設置されたのが「長崎要塞第一地帯標」と思われる。

 1−A  四郎ケ島北側海岸(確認 長崎要塞第一地帯標 第一号)  神ノ島から四郎ケ島へ繋ぐ佐賀藩が築いた石積みの海道約270mは、コンクリートにより護岸され、これを渡りきってすぐ右手海岸の岩の上に建っている。岩自体も少し高く標石も高い。神ノ島を向いており、神ノ島側からすぐ望見できる。
 1−A−2  四郎ケ島小島の小ピーク上(確認 長崎要塞第一地帯標 第二号)  小島は四郎ケ島の東の島だったが、台場構築のため埋め立てられ、地続きになっている。小島には2つのピークがあり、東側突端の低いピークの岩場上にも要塞地帯標の第二号があるのを、後日、発見した。神ノ島内海側の釣り人がよくいるコンクリート堤防の上手である。
 1−B  同上海岸神ノ島側(確認 長崎要塞第一地帯標 第二十九号)  四郎ケ島の第一号標石のちょうど対面にある。海道にかかる道のすぐ右脇となるが、竹が密生した中にあるので気をつけて探す。第一地帯を一周した最終番号標と思われる。第一地帯標はこのうち、現在のところ7本を確認している。

写真  5〜    9 その他の珍しい標石
 「陸軍」「防二」   四郎ケ島へ渡る海道の神ノ島側右海岸にある。第一地帯標二十九号のすぐ近く。「防二」の意は不明。
 「陸軍」        四郎ケ島へ渡る手前の神ノ島側集落の墓地内にある。陸軍用地の境界標柱と思われる。
 「四建三角点」「四建基点」   四郎ケ島へ渡って左手の埋め立てた小島の堤防の方へ行く。小島の小ピーク草つきの間にある。長崎外港計画にかかった当時の、建設省第四建設局が設置した工事用の三角点の基点と思われる。
 「四建水準点」  上記三角点のすぐ近く。最近、ブルが均した道の終点あたりの広場で見つかった。これも同工事用の水準点と思われる。

写真 10〜   10 神の島公園
 長崎港の西側先端部。小瀬戸と陸続きとなった神ノ島の高台。かつて「長崎要塞」があったところが、「神の島公園」として整備されている。神の島バス停から徒歩10分。
 平成16年度完成の韓国風展望所がある。長崎港口の諸島と海の展望が良い。東に女神大橋、南西には百万ドッグの造船所が見え、西には五島灘が一面に広がり、夕日が映える所である。地元で花壇を作り、各種のアジサイを多く植えている。

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            小榊の散策 (4) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

 2009学さるくの江越弘人先生作成資料「神の島から福田まで」などによる神ノ島関係の説明は次のとおり。
 「金水温泉跡」は大浜町の町域となるが、網場の脇の近く海岸にあるためこの項に含めた。

写真  1〜    2 神ノ島の埋め立て
 神ノ島はもともと文字通りの島で、佐賀藩深堀領であった。対岸の小瀬戸は幕府領で浦上村淵の一部であった。神ノ島と小瀬戸との間の海峡は、長崎と福田方面との大切な航路となっており、江戸時代には、船が通過できるようにしばしば浚渫していたという。
 この海峡が何時埋め立てられたのか、長崎の年表や諸書には記載が無く不明である(市立博物館発行『長崎の史跡 北部編』には、昭和42年に埋め立てによって陸続きになった、とある)が、土地の人々の話によると「戦時中、捕虜の人々の手で神ノ島、小瀬戸両方の山を削り埋め立てた。それは昭和16,7年のことである」(小瀬戸の人の話)とか、「自分が小学5,6年生の頃(昭和11,2年ということになる)、朝鮮の人々の手によって埋め立てられた。その人達の宿舎が木鉢や小瀬戸にあった」(神ノ島の人の話)などと様々である。
 なお、昭和42年は、長崎外港臨海工業地帯造成の一環として深堀・香焼島間の埋め立てが翌43年に渉って行われているので、神ノ島・小瀬戸間は既に陸地化していたものを、土地を均したり、護岸をしたりして整備したものではないか。

写真  3〜   11 長崎要塞地帯と神ノ島
 嘉永4年(1851)に佐賀藩が四郎ケ島に当時最先端の台場を築いたが、この時、対岸の伊王島や地先の神ノ島にも台場を設け、最新式の大砲を設置した。神ノ島の標高78mの山頂で字名を「飛渡」というが、ここにも砲台が設置され、外海の中ノ島・松島の方向に砲口を向けていた。四郎ケ島や伊王島、神ノ島の大砲は、明治維新前後には撤去され、戊辰戦争の時には、佐賀藩の重要な戦力として大活躍をしたという。
 なお、明治維新後の長崎の防衛は、大黒町の佐賀藩蔵屋敷前に砲台を設置し、長崎守備砲隊を置いたことに始まる。その後、明治32年に佐世保要塞砲兵連隊の一個大隊が竹の久保に配属され、翌年、近くに(現在の淵中学校)長崎要塞司令部が設置された。
 長崎要塞は、長崎港を防衛するのが目的であったから、まず、神ノ島と蔭の尾島に砲台が構築された。神ノ島には、「飛渡」の地に高砲台、島の西南堂の下に低砲台の2つの砲台が設置された。高砲台は28cm榴弾砲8門が港外に砲口を向け、低砲台は、9cm速射カノン砲4門で長崎湾口に砲口が向けられていた。

写真 12〜   22 金水温泉跡
 大正7年の福田村郷土誌に紹介されている「金水温泉」は、硫黄分を含んだ鉱泉(冷泉)で、あまりにも不便な所にあったため、収支が償なわず放置され忘れられてしまった。
 現在はすぐ側を神ノ島工業団地への道路が通り、ゴミ焼却場の真下を通る「金水トンネル」出口下側の海岸に湯治場はあった。木鉢村の近藤栄次氏が経営していた。

 金水温泉跡は、2007年6月記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/9907098.html

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