みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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          五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋  五島市池田町・吉田町

 石田城跡五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋。五島高校第2校門内のアーチ式石橋「石田城本丸眼鏡橋」や国道沿い堀端前「蹴出門」の桁石橋は、すでに以前紹介している。
 HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。風景・史跡の項も参照。
 「石田城跡五島氏庭園」は、 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/56830793.html
 「明星院」は、 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/56678257.html

 写真  1〜  8  第 k-052 番 心字が池の石橋  五島市池田町石田城内五島氏邸

  安政5(1858)年に庭園が造られたとあるので、その時の架橋であろう。蹴出門の石橋を渡って石垣に沿って場内に入り左手に門構えが見える。三十代盛成公の隠殿として城内に築かれた石田邸。この邸内に心字が池と呼ばれる林泉式の庭園が有名。この庭園は安政5年、京都の僧善章が金閣寺の丸池を模して造られたと言う。(08/07/2008)

  忍び通路を見てから庭園に向う。大きな楠木には諫早の者は驚かないが、大谷渡やビロウ等が茂る庭園は趣が違う。正面左手に見えるのが一番上の写真の石橋。なんでも盛成公が亀が好きとかで亀の形を模したという築島。左手の石橋が尾に成って右手の上を向いた石が頭のようだ。
  反時計回りに庭園を廻る。さっそく小さな橋を渡って左手には一番上の築島の対を成す築島がある。ここのも同様の石橋が架かっている。
  母屋の対岸に見えていた石塔は、朝鮮の役の際に第二十代当主純玄公が加藤清正と共に戦った際に持ち帰ったと記されているが、純玄公は文禄の役に小西勢の一番隊に兵700名で参戦し陣中で疱瘡に罹り亡くなって酒樽に浸されて帰国したはずである。この時に持ち帰ったとしても持ち帰ったのは陣中で第二十一代当主となった玄雅公であったはず。
  もしくは慶長の役の出陣の時であったかもしれない。どちらにしても私の見る限り韓国で見かける五重の塔に酷似していることは確かだ。
  もう少し進むと池の排水を行う水路にも橋と言うか暗渠がある。まぁこれも石橋と言えるかもしれない。その先では最初に紹介した築島に到着する。

 写真  9〜 14  第 k-051 番 明星院の石橋  五島市吉田町

  文化7年(1810)3月架橋とある。
  弘法大師空海が唐での修業の後、福江島に立ち寄り大宝寺や此処、明星院の開基に関わった事は有名だが、この明星院に石橋が架かっていることは案外紹介されていない。
  境内の案内板には「泮池(ばんち)、池の中央に橋をかけ池を半分にした形式で中国の造園思想から生まれ日本では平安鎌倉時代の庭園形式で橋を渡れば、そこは仏の世界を現している」と書かれ、橋の架橋に関しては「奉寄進、御倉奉行、杉 東蔵、大浜清蔵、築瀬友八、二十一世大恩代、文化七年庚午三月」と記されていた。(07/31/2008)

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            福 江  石田城跡・五島氏庭園・五島高校  五島市池田町

 五島市観光協会「五島市観光情報サイト 五島」史跡・名勝などによる説明は次のとおり。

 写真  1〜  3    石田城(福江城)跡    種 別 県指定史跡
  指定年月日 昭和41年9月30日 所在地 五島市池田町1番1号 管理責任者 五島典昭
  寛政年間から文化、文政、天保、弘化へと続く幕末、ロシア、アメリカ、イギリスの黒船が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫る。文化5年(1808)イギリス軍艦が長崎港に侵入、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するという、いわゆるフェートン号事件もあった。幕府は嘉永2年(1849)7月、五島藩に「城を築き海岸防衛を厳重にせよ」との築城許可を与え、ここに五島氏の半世紀にわたる築城への願望が成就した。15年の歳月、工費2万両を使って、文久3年(1863)石田陣屋の跡に福江城が完成した。石田という地名にちなみ石田城ともいわれる。
  城郭は、東西160間(約291m)、周囲740間(約1346m)、野面積みで堅牢な石垣を持ち、城郭の三方を海に囲まれ、日本民族、日本国を守るという使命を持った海城である。
  現在、本丸跡には五島高校、三の丸には福江文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館、五島家始祖家盛公らを祀る城山神社がある。

 写真  4〜 15    石田城五島氏庭園    種 別 国指定名勝
  指定年月日 平成3年11月16日  所在地 五島市池田町1番7号  所有者 五島典昭
  嘉永2年(1849)8月、幕府の命令により福江城(石田城)の築城が始まった。完成間近となった安政5年(1858)30代盛成公は家督を子息盛徳公に譲り、藩校「育英館」を北の丸小松原(現福江裁判所一帯)に移し、その跡に隠殿と庭園を造った。
  心の字をかたどった池にちなみ、心字が池庭園ともいわれる。この庭園の作庭者は、京都の浄土宗の僧、全正であり、彼は、和歌、茶事、囲碁、作庭に堪能で、五島藩の御庭方を命ぜられていた。庭園は、平成元年から同3年まで奈良国立文化財研究所が池の水を抜き、浚渫して調査を進めてきた。
  その結果、江戸時代以来の伝統的日本庭園の地方伝播を示す好例であり、溶岩や南方系植物など地方の特色ある風土が加味された貴重な庭園である。また、作庭時期が明確で、建物も一体となって保存されていること、保存例の少ない城郭内の庭園で、庭園文化史上高い価値があるとして、平成3年、国の名勝に指定された。
  「五島氏庭園のクスノキ」は次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/56778265.html

 写真 16〜 19    長崎県立五島高等学校 (学校HPから)
  躍進〜夢を紡ぐ城跡(まなびや)〜 明治33年(1900)に五島中学校として開校し,平成12年(2000)に創立100周年を迎えた。普通科と衛生看護学科の2学科を設置。生徒総数632名,教職員数66名(平成21年4月現在)。
  五島高校は福江城(石田城)の城跡にある。したがって校門は福江城の門ということになる。第1校門は外堀から入る門になり,国道に面している。第2校門は内堀を渡る前に入る門になり,この第2校門の内側が五島高校の主な敷地になる。五島高校の生徒は毎日この2つの門をくぐって登校している。

  写真は第2校門内のモニュメントと石田城本丸眼鏡橋。五島ただ1つのアーチ式石橋。嘉永6年(1857)架設。長さ8.6m、幅員約4.7m。

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                    保食神社のスギ  五島市玉之浦町小川

 福江港ターミナルから国道384号線大荒交差点まで行き、県道27号線により二本楠まで行く。交差点は左折して玉之浦方面への県道164号線に入る。中須へ出て中川トンネルを抜けすぐ左折する。玉之浦中学校があり奥の集落が小川である。

 集落内の小川バス終点から先へまだ進むと大きな橋があり、ビニールハウスの右道へ入る。川を渡ると左方に小川神社がある。大スギは鳥居と本殿の間に立つ。
 五島市堤町諏訪神社のスギと幹囲は同じで、福江島2位のスギにランクされている。
 本殿右横には、木で作った船型の小さいものが多く祀られていた。
 
 2003年福江市針本氏作成資料「福江島の巨木達」1スギによる説明は次のとおり。
  保食神社  ス  ギ  3.24m  風格の有る杉。痛みも無くまだまだ成長できるだろう。

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