みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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             深堀の散策 (7)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

 長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
 中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

 写真  1〜  3    城山全景(平山台と大籠町バス停から)と登る途中、平山台団地・為石方面を望む。

 写真  4〜  6   (43)城塁及五条の空溝
  城山(350m)の頂上に東西約200m、南北約100m、厚さ約4mをもって同山頂上を鉢巻状に石片と土をもって構築せられた城塁である。其の年代、目的等はさだかでなく中世期になるものと判定があるのみで学術的解明が期待せられる。
  建長7年(1255年)3月彼杵戸八ヶ浦荘を将軍宗尊親王より賜った時、10万石の諫早をとるか天下の名城城山に赴くか二者択一の際、天下の名城を拝せん旨を申し上げたとの言い伝えがある処より、それ以前すでに構築せられていた事は間違いない。尚此の際附記して将来の参考に資したい。此の城塁の諸所に立射散兵壕が作られているが、これは第二次世界大戦時の末期に米軍の上陸に備えて築かれたものである。
  五条の空溝は西南方に赤土部落方向に作られているもので、規模は長さ約100〜200m、巾約3mの空溝で、溝の両側には石をもって界を作っているものが五条あるもので、之が構築された時代及目的は城塁と共に今尚謎とされている。学術的解明を望むや切なるものがある。

 写真  7〜  9   (44)八 幡 神 社
  標高350mの城山(俵石山とも云う)の山頂にある社で、此の神社は建長7年3月28日上総より下向の際鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分神を奉持して此の地に祀ったもので、此の記録は境内祠に向って左側に石碑があるが今は風化甚だしく剥離し去って読み得べくもないが、その拓本(重建俵石八幡石詞誌銘参照)によれば菩提寺十一世鶴天大キ大和尚の撰銘にして、其の冒頭に「肥の前の州彼杵郡深堀邑俵石山八幡宮は原(もと)総州鶴ヶ岡八幡宮の若社也而して此の地に遷崇して凡そ茲に五百年なり。そもそも彼の八幡は往時三浦義明(系図参照)相州を領し執柄の日專ら住崇したる所の鎮守也」とある処から、三浦氏の崇信の神を奉遷したのもむべなる事である。古来八幡社は武神として崇められ、八幡大菩薩の旗をおし立て南支、ルソン方面を荒し廻った往時を追懐する時、祖先が如何に此の神社を尊崇したかがわかる様な気がする。
  日露戦争の際有海の青年が此の境内にひる寝をした処、沢山の鎧武者が西北方へ向って出陣する様を夢現に見たそうである。其の人は誰であるか探していると前村長の志波原三郎氏から聞いた筆者の青年時代を思い出す。これは取るに足らないかも知れないが附記しておく。

 写真 10〜 11   (45)神 籠 石
  八幡社の境内にある直径約2m位の楕円形の石である。遠い昔石器時代に神を祭る際に用いたものではあるまいか。

 写真 12〜 13    城山の山頂三角点(標高350m)と陸軍省「長崎要塞第二地帯標 第八号」

 写真 14〜 19   (46)愛 宕 神 社
  例年7月23日の夜此の愛宕山(標高250m)で立木を伐って火を焚く神事で、その起源については考証すべき何物もないが、只だ想像されるのは、その昔八幡船として活躍した和寇共が唯一の頼りとして此の山の火を望見した事もあったかも知れない事で、瀬戸内を夜航海すると或る夏の夜島の山上に火が燃えているのを見る事があるとは、松永隆氏の話しで同地には所謂村上水軍がはびこっていた事を想へば、平戸の松浦党、深堀の三浦党も又同じ様な事をしたと想定する事は唐突なことであろうか。又記録によると寛永15年(1638年)幕命により峰火台を始めて長崎に置くとあるをもって、当時唐、紅毛船の来通多く長崎港出入の見張りをなすに恰好な地でもある野母、香焼、伊王島、各遠見所からの峰火を、深堀で集約し長崎の烽火台へ、そして江戸へ3日を要して達したとも言われる。
  此の火祭を主宰する処は3丁目の青年達である。元来3丁目は鍛冶町と呼び火を最も使う鍛冶屋の多い土地柄である此処が、火の神たる火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祭る愛宕神社祭事を主宰するのも当然の事で、今尚続けられている。翌7月24日は獅子舞で早朝から夕方まで、町中の処所を舞い廻る行事が例年行われている。(終)

 写真 21(追加写真) 女の坂の首なし地蔵
  深堀史跡案内図にはないが、深堀から大籠へ出るみさき道途中「女の坂」にある伝承で有名な地蔵。文久元年「深堀郷図」に地蔵堂がこの場所に描かれているので、それ以前の安置と断定してよい。
  伝承の詳しくは、長崎県史談会編「長崎県郷土誌」臨川書店昭和48年刊412頁にある。

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             深堀の散策 (6)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

 長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
 中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

 写真  1〜  5   (38)座 禅 石
  菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ2つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切っている。
  此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟りがあると信じられて誰も伐る者がない。
  (老木は「タブノキ」。次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/30671123.html

 写真  6〜      (39)藩 主 の 水
  座禅石より東約100mの谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。

 写真  7〜 14   (40)カトリック部落善長
  此の地の歴史は比較的新しく、文化年間(1804年)甚介の子佐八が六家族を旅芸人の風を装い三重樫山から脇岬の木場、ゆりさき(鯨浜附近)を経て此処に住みついた。住みつく条件として八幡神社の毎月の祭礼及お水方として藩主用の水汲みの役を果す事であった。八幡社の祭礼を行う事は勿論隠れキリシタンで表向きは菩提寺の檀徒であった。それは佐八の碑銘には実三悟道信士天保九戌三月十三日とあるを見ても明らかである。(略)

  明治維新信教の自由が認められ、此処に於いても今迄で隠れキリシタンで迫害を避けていたので、公然とキリスト教徒として立つ事の会議を開いたが、一部は今迄自分達が祀って来た神があるのではないか、何も明治になって信教の自由が認められたからと言って改宗の必要はない。との両論に分れその結果としてカトリック教徒は善長に残り、今迄通りの一派は蚊焼の岳路に袂を分つ事となり、今もカトリック教会に属せぬ「離れ切支丹」として密教的信仰を持ち続けている。八幡社の祭礼は今尚此の岳路善長の人達に依って祀り継がれている。濃緑のきれいな砂も同地から運び来ったもので、神社の200m手前の鳥居の根方に履物を脱いで参拝するを礼とし、水も途中休む事なく、肩から肩へ担いつがれて運ばれると言われている。

  尚此処で深堀藩とカトリックの関係に就いて江湖の誤解を解くため参考迄に記しておくが、非切支丹深堀藩の支配下にあった所に、案外カトリック教徒の部落が多い事は特異的であろう。例へば三重の樫山、戸町の奥の大山、長崎港口に位置する神之島、蔭の尾、伊王島、そして善長等皆そうである。按ずるにこれは当藩においては同教を奨励はしないまでも黙認していたのではないかと思われる。海外との密接な関係(例えば貿易)などにより、耶蘇教への本質的理解が充分にあったのだということも考えられる。
  (「善長谷開拓碑」は次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/14435142.html

 写真 15〜 16    善長谷教会上にある「ゆうこう」の大木    

 写真 17〜 18   (41)俵   石
  直径約30cm長さ1m〜1.5mの柱状の石が地中に規則正しく配列され或は地上不規則に散乱し其の数量は無数である。これを俵石と呼んでいる。
  一説は古代人の手になるとするもので宮摺方面から為石に運び同所の川をさかのぼり平山方面から城山に運び石垣を築いたとする説。又一方「柱状節理」と言う言ふ現象により俵石が出来たとする自然説があって、考古学的はたまた地質学的に興味深いと思われる。

 写真 19〜      (42)亀   石
  俗称簡笥石と言われ1m×2m×1m位の石に亀の甲状に線が入った石で、俵石群から東北約100mの中腹にある珍しい石で、俵石と同様人工、自然の両説あり。

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             深堀の散策 (5)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

 長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
 中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

 写真  なし     (33)有 王 塚   略

 写真  1〜  2  (34)遠見番所跡
  現在はその跡はないが、今香焼への送電線鉄塔が建っている附近にあったと伝えられている。此処で香焼島の遠見台(円通寺の上の高い処)と連絡を取り異国船の出入を監視した。

 写真  3〜  4  (35)煙 硝 庫 跡
  旧藩時代の火薬庫で、其の位置は現在秋葉社附近の八幡神社の一の鳥居附近であったと伝えられている。

 写真  5〜  9  (36)箱 式 石 棺(大籠町778の2)
  大籠町に切石をもって築かれている。その築方から見て可なり古く、将来研究される価値あるものと思われる。
  (大籠町バス停下の公民館から石段を下ると、小さな三浦神社(旭琴姫大明神)がある。新田神社より古く、端島の人が主に信仰した。旧社は現在の鳥居前の竹薮。ここに石棺があり30年ほど前、ある大学が一帯の発掘調査をした。石棺は並んで4基確認され、櫛・貝など出土した。現在は下に小屋ができ切土されているが、石棺の片側半分は残っている。近くの家の庭にある石が、蓋となっていた浜石の一部である。 大籠町西清氏の案内説明談)

 写真 10〜 11   三浦神社近くにあるアコウとエノキの大木 

 写真 12〜 17  (37)新 田 神 社(大籠町)
  新田義興を祀る神社で、其の奉起の原因及時期はさだかでないが義興が矢口渡に誘殺されたので正平13年(1358年)で、それより100年位前に此の地に新田正久が居住していたと言われている。

 写真 18〜 19   新田神社手前の地蔵堂。かつての分校跡地

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