みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 766 横浜山手からの運河

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 766 横浜山手からの運河
  〔画像解説〕 超高精細画像データベース
  6枚組の360度パノラマ写真の左2枚分。ほぼ中央の西の橋の先の分流点で中村川は堀川(画面右手前)と派大岡川(画面右上方)に分かれる。眼下の家並みは元町、堀川の対岸は造成中の外国人居留地。派大岡川に沿って松が植えられているのは吉田新田の汐除堤、その向こうに遊水池の一ッ目沼が見えている。満潮時には堤の水門を閉じて海水の流入を防ぎ、干潮時に沼の水を放流するようになっていた。沼はまた漁業にも活用されていた。遠方は太田丘陵である。左手の地肌も露わな崖は居留地造成のための土取場であろう。その右手にその名と不釣り合いな「大神宮」の小さな祠が見えている。派大岡川の堀川間の土地は手前が横浜新田、向こうが太田屋新田。横浜新田にはすでに土が入れられ、家屋が建ち始めているが、太田屋新田はまだ沼地の状態である。その造成は明治に入ってからのことになる。

  〔画像解説〕 メタデータ・データベース
  ベアトによる1865年10月の書き込み。横浜の山手から居留地の裏の吉田新田を望む。左の丘には外国人と編み笠および半裸の日本人がみえる。橋は西ノ橋、中央の家並みは元町になる。

  ■ 確認結果

 目録番号: 766「横浜山手からの運河」は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の〔解説編 横浜写真小史〕174頁には、「5.パーカーの「新しい横浜の全景」と推測される写真」として掲載されている。

 撮影者は、イギリスの写真家「パーカー」か。メタデータ・データベースの撮影者は、「F.ベアト」となっている。さてどちらだろうか。

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         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り
  〔画像解説〕 超高精細画像データベース
  写真左側が下西山町、右側が片淵である。大手橋の袂から川沿いに、片淵方面へ少し下った所から撮影した写真である。大手橋の袂には、その昔、長崎氏の大手門があったことから川の名も堂門川と呼ばれた。現在は、一般に中島川と呼ばれている。昭和57年(1982)長崎大水害後の災害復旧河川改修工事に伴い、写真中央の川の関は取り壊されてしまった。写真上部、樹木の繁った所の石垣上の建物は、現在の富貴楼である。富貴楼の前身は、千秋亭と言い、寛政の昔から「松森の千秋亭」と言われ、大変有名であった。今も長崎の一流の料亭である。明治20年(1887)頃、長崎を訪れた伊藤博文がここに宿泊した際、女将内田トミの求めに応じて、その名に因んで「富貴楼」と命名したものという。富貴楼の裏口は、松森神社の境内である。樹木の間から松森神社の本殿屋根がみえている。松森神社には、県指定有形文化財「職人尽」の彫刻が本殿を囲む瑞籬の欄間に飾ってある。

  〔画像解説〕 メタデータ・データベース
  写真上部の建物は現在の富貴楼にあたる。現在は西山川と称されているこの川の周辺はこの写真の景観とは非常に異なっている。背後に写っている山は金比羅山である。

  ■ 確認結果

 目録番号: 650「中島川風景下西山町辺り」は、〔画像解説〕で「川の名も堂門川と呼ばれた。現在は、一般に中島川と呼ばれている」と説明しているが、中島川本流は二股から右へ上がる。
 堂門川なら、メタデータ・データベースの解説どおり「現在は西山川と称されている」とし、中島川支流である説明をした方が良いと思われる。

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           長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号: 365 茂木街道(1)
  〔画像解説〕 超高精細画像データベース
  茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。そこを過ぎると、茂木街道は一気に、長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。また、この峠を分水嶺として茂木において橘湾に注ぐ、若菜川が流れている。この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない。外国人居留地が建設された当時、外国人が茂木に行く楽しみの一つは、日本の田舎の穏やかで美しい自然に触れることであった。

  〔画像解説〕 メタデータ・データベース
  茂木街道は長崎から茂木への街道。写真はこの街道途中にある田上を撮影。田上はこの街道の峠になり、街道の要所であった。

  ■ 確認結果

 目録番号: 365「茂木街道(1)」は、〔画像解説〕で「この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない」と説明している。

 これは誤認だろう。街道のように見えるのは、実は水車の水路である。明治20年(1887)6月開通した人力車や荷車が通る茂木新道は、写真外の右側を通っている。
 茂木新道から見た若菜川支流河平川にあった水車小屋の風景となる。したがって、撮影年代はその後と考えられる。
 この項は次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/47808941.html

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        長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 328 大浦海岸通り(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号: 328 大浦海岸通り(1)
  〔画像解説〕 超高精細画像データベース
  小川一真アルバムの一枚。大浦海岸通りの洋館群が海上から撮影されている。右の橋は明治22年前後に架替えられたポーストリングトラス橋の下り松橋(松ヶ枝橋)で、元の橋は明治3年(1870)に架けられた。建物は右から大浦11番ドイツ領事館、10番は外国人の社交場であった長崎クラブ、9番は2棟あってスタンダード・オイル、8番は空き地で7番はホーム・リンガー商会、6番はイギリス領事館、5番はジャディ・マセソン商会とヴェランダ付き2階建て洋館が続いている。大浦10番の前には電信柱が見える。長崎電灯株式会社ができたのは明治22(1889)年4月で、電信柱は26年(1893)から建てられたので、この写真はそれ以降の撮影である。この建物の屋根越しに明治15(1882)年建築のラッセル館(現活水学院)とその尖塔が見える。海上の小船は大船に荷物を運ぶサンパン。街路の中央(文久年間に埋め立て拡幅)の松の木は大きく成長している。撮影は20年代後半。

  〔画像解説〕 メタデータ・データベース
  明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)。 

 目録番号:4732 大浦海岸通り(6)
  〔画像解説〕 超高精細画像データベース
  作者不詳の大型蒔絵アルバムの1枚でBUND NAGASAKIと印字。ほかの写真の撮影時期から推測して、明治25年(1892)頃、海上から大浦バンドを撮影したものである。右手に少し写っているのが大浦11番のドイツ領事館。10番は居留地の外国人社交場であった長崎クラブ。以下9番スタンダード・オイル。次の洋館も地番は9番である。目録番号328(整理番号8-2)の写真と較べるとこの横の洋館がない。8番は空き地で7番がホーム・リンガー商会。次の旗竿が立っている緑壁の建物が大浦6番のイギリス領事館、5番のピンク壁の大きな洋館にはアジアにおけるイギリスの大商社ジャディ・マセソンが入居していた。丘の上には明治15年(1882)新築のラッセル館(旧活水学院木造本館)が見える。大浦10番の長崎クラブの前には電信柱が見えるが、これは明治26年(1893)以降長崎電灯株式会社が設置したものである。街路の松木の高さを比較することで類似写真の新旧が判る。

  ■ 確認結果

 目録番号: 328「大浦海岸通り(1)」の〔画像解説〕で、超高精細画像データベースは、「海上から撮影されている」とあるが、「下り松橋(松ヶ枝橋)」手前の突堤から撮影できたのではないか。
 旧長崎税関下り松派出所(現長崎市べっ甲工芸館)の6番波止と思われる。

 メタデータ・データベースは、「手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)」と解説している。「下り松橋(松ヶ枝橋)」でないか。建設年代を記すのは、いかにもこの鉄橋?が明治3年に造られたように取られる。
 この項は次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/47961781.html

 目録番号:4732「大浦海岸通り(6)」も、海上からではなく、同突堤からだろう。

 長崎市教育委員会編「長崎古写真集 −居留地編ー」平成15年刊第3版の62,63頁にも同じような写真が掲載されている。141頁図版解説では、両作品とも「下り松南側の波止から撮影したもの」となっている。 

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