みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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           三和町内地名のルーツ 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」

 「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その28 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」。
 三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.239(平成14年4月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

 字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。本稿は蚊焼と川原を結んでいた「川原道」。長崎県立図書館所蔵「西彼杵郡村誌」明治18年(三和町郷土誌1054頁に転載あり)によると、「河原村」の項に「蚊焼村路 三等村ノ東北字宮田ナル高浜村路ヨリ分レ西北行シテ蚊焼村界(峠)ニ至ル長サ十五町巾一間」とある。蚊焼村には特に記されていない。
 「みさき道」に関係する野母崎ゴルフ場内の地蔵墓石に刻まれた「川原道」は、高浜と川原を結んでいた街道(河原村からは「高浜村路」)のことである。

   三和町内地名のルーツ その28 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」  浦里宇喜男

 蚊焼の南東丘陵地帯に「川原道」なる字名がある。為石地区の「橋山」、川原地区の「東橋山」に接し、旧村時代は村境をなしていた。町の環境センターは、「東橋山」に位置している。
 さて、何故「川原道」なのであろうか。冒頭申し上げましたように、蚊焼と川原の最短の道が、この地を通っているからであろう。

 ご案内のように、70年前の昭和初期、町内には現在の国道、県道は極一部しか開通しておらず、筆者の記憶では、現在の国道499号線が、県道として、布巻を通り蚊焼に通じていたようである。特に川原地区から長崎市に行くには、為石を通り現在の役場庁舎横を通って、蚊焼海岸から野母汽船を利用するのが、一般的な交通手段であった。
 特に、川原地区の上揚、橋川(現上川地区)は、為石を経由することなく、この「川原道」を利用するのが直線的であり、また、経済的でもあった。

 過日、この「川原道」に残っている旧街道を訪ねてみた。現在の町道蚊焼川原道線、また、環境センター敷地で中断されてはいるが、雑木林の中にその小径がある。そして、この街道の一番の高処と思われるところにお地蔵さんを発見した。像の正面は「南無菩薩」とあり、両側面に、願主、河原村、(氏名不詳)。建立が天保五年(1834)午十月となっている。

 余談になりますが、面白いのは、街道とお地蔵さんの関係である。過る3月3日、深堀町の県営住宅団地から、竿の浦に通じる「殿様道」を歩いてみた。距離にして3km足らずの小径であるが、直線的なコースのため、山越えとなっている。この間、なんと、3体のお地蔵さんにお会いした。鎮座の場所も街道の難所と思われるところ、また、人里に遠いところにあり、旅人とお地蔵さんの関係を思い知らされた次第である。

 この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行152頁ですでに紹介済み。「川原道」については、三和町「さんわの足跡」平成16年発行の10頁「渡海船による行商」に思い出の記録がある。「主に里道(川原道)を通った」
 最後の写真は、「みさき道」の蚊焼峠入口。「川原道」の一部でもある。なお地蔵は、「橋山」高処のは、地形変りヤブ道で未確認。「竿の浦」のは現ナフコ背後の谷道に現存している。

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