みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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            村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

 「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」(現在はHPタイトル「長崎坂づくし」)から、「女の坂」と「しりくい坂」(尻喰坂)。
 この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35〜37頁ですでに紹介済み。写真は、村岡氏撮影の当時の「女の坂」と、現在の「女の坂」首なし地蔵、「尻喰坂」以下宿側入口の状況。この谷間を左上へ越した。

            村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

女の坂(おなごのさか・おんなのさか) 長崎市深堀町5丁目〜長崎市大籠町善長谷

 長崎市深堀町5丁目から長崎市大籠町(おおごもりまち)善長谷(ぜんちょうだに)の間に通じる坂道を、いつのころからか「女の坂」と呼んでおり、道ばたには古い石の地蔵があります。
 旧藩時代、領主の命を受けて注進の文箱を携えてこの道を往来するとき、もし途中で妨げる者があれば斬り捨てご免を許されていた。ある夜、急ぎの使者がこの坂道にさしかかったとき、たまたま一人の身重の婦人が路傍で休んでいました。
 婦人は注進と知るや「決してあやしい者ではございません…」との言葉も終わらぬうちに、一刀のもとに斬り捨てられてしまった。
 その後、夜ここを通りかかると、恨めしそうな姿をした女があらわれ通行人に声をかけるようになった。「女の亡霊!女の坂」と、いつとはなしに「女の坂」と呼ぶようになったそうです。
 領主のお声がかりで、同志相寄りここに地蔵尊を迎え、女の霊を慰めることになったという。
  「長崎県大百科事典」(辻本義典担当) 長崎新聞社 昭和59年
  (参考文献 「西海の伝説」山口麻太郎著 第一法規出版 昭和49年)
 書籍では「おんなのさか」となっていますが、地元の人は皆「おなごのさか」と言っておられました。

 1997/12/31 女の坂・深堀〜善長谷(隠れキリシタンの村・善長谷教会があります)まで、実際に歩いてみました。
 深堀小学校の南側にある、川内公民館前の道を墓地の方へ登ります。山腹の途中にある「キリシタン墓地」の前から、右に行きます。杉林の先の谷間にお地蔵様がありました。お地蔵様の前から右にまいて登っていくと、途中に「大きな石」が左手にあります。さらに右の方向へ登っていきますが、この先からが途中でけもの道になりイバラが道をおおっていたりで、山歩きにかなり慣れている人以外は、女の坂を善長谷まで登るのは今では無理です。善長谷のお婆ちゃんに話を伺いましたが、海岸の新道が出来るまでは、女の坂を通って深堀小学校に通学されたそうです。
 お地蔵様を一人では見つけることが出来ず、お地蔵様まで深堀町5丁目の高比良せいの様に案内して頂きました。高比良さんはかつて郵便局にお勤めで、女の坂を登って善長谷まで速達の郵便を届けておられたそうです。地元の人は、この道を「とのさん道(殿様道)」と呼んでおられたので、この道も「御崎道」の一部なのでしょう。

御崎道について

 長崎から(館内〜戸町〜子ヶ倉〜深堀〜蚊焼)、野母崎・脇岬までの七里(約28Km)の道。江戸時代から、長崎の人たちによる「観音信仰」が大変盛んで、行楽をかねての観音寺参り(御崎詣)でにぎわいました。また、野母の権現山に遠見番所が寛永十五年(1638年)に設置され、外国船を発見すると直ちに長崎奉行に注進され、軍用道路的な性格も有していました。
 地元の人々は、とのさん道(殿様道)と呼んでいます。御崎道の詳細については「三和町郷土誌・昭和61年発行・観音信仰と御崎道/原田博二」をご覧下さい。

しりくい坂(しっきぃ坂)   西彼杵郡野母崎町黒浜〜野母崎町以下宿

 昔、長崎に出入りする要路が六つあり、その一つが「御崎道(みさきみち)」です。御崎道の、野母崎町(のもざきちょう)黒浜〜野母崎町以下宿(いかやど)の間の山越えの急峻な坂です。
  前に行く人の、尻を食いつきそうな急な坂。
  〈親和文庫第18号 長崎ぶらり散歩 原田博二著 親和銀行 平成7年4月発行〉
 東彼杵郡波佐見町には、尻喰坂という地名があります。「波佐見の地すべり地名には…崩の迫(くえのさこ)、ぬず場、ユルギ、ユルサ、小樽、尻喰坂、八の久保などがある。…」として紹介されています(佐世保の歴史・地理/吉富一)。土石流が襲ってきて、逃げまどう人々をのみ込んでしまったのでしょうか?
 地元の人は「しっきぃ坂」と言っておられました。

 1997/12/31 しりくい坂を以下宿から、実際に歩いてみました。
海岸沿いの国道499号線の以下宿のバス停から山の方(東側)へ入り、「野母崎町消防団第12分団以下宿倉庫」前から山への道(北へ)です。竹薮の間を通って、谷間の急な坂を登っていきますが、今では道がはっきり分かりませんでした。
 以下宿のお婆ちゃんに話を伺いましたが、黒浜に高浜小学校の分校があり、しりくい坂を通って分校に通学されたそうです。〈野母崎町以下宿の山口登さんに、坂の場所を教えて頂きました〉

(注) 平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」。「長崎県の坂」またはそれぞれの坂名により検索していた。作成の着眼に感心した資料である。
 現在は、HPタイトル「長崎坂づくし」となって、内容は一新している。「女の坂」のみ、東山手と南山手・小島周辺の坂の中に含まれ掲載されている。

 「女の坂 深堀〜善長谷 市内からは離れていますが、思い出に残る坂道でしたので収録しました。隠れキリシタンの里・善長谷と深堀をつなぐ道でした。今は途中まで通れますが、善長谷までは草木が生い茂って行けません」とあるが、道はすでに平成17年頃、私たちが切り開き大籠町まで完全復元。長崎学さるく行事「江戸期のみさき道歩き」などで歩いている。

 後段の「御崎道について」や「しりくい坂」は、現在のHPでは省略されたが、黒浜〜以下宿間の「しりくい坂」(尻喰坂)は、「岳路みさき道」の区間である。
 私たちが同じく平成17年頃、踏査して切り開きルートは確認。一部行事で利用している。

 「女の坂」は、次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/27777871.html
 「尻喰坂」は、次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/14599440.html

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            ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年

 「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。みろくやHP ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム 第130号「みさき道は、抜け荷の道?」2003年3月。
 この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35頁ですでに紹介済み。

           みろくや HP 「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年3月
             ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム  第130号

 長崎から長崎半島を南下して西彼杵郡野母崎町脇岬に至る約28Kmの古い街道をご存じですか? この道は「みさき道」と呼ばれ、江戸時代は脇岬にある観音寺へ参詣するための道でした。この観音寺は京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)の末寺とされ、当時の観音信仰の一大霊場だったそうです。
 鎖国時代の長崎の人々は物見遊山、今でいうハイキングに近い感覚で参詣し、おおむね1泊2日の行程で行き来していました。中には朝早いうちに出発して参詣を済ませ、夕方には戻ったという健脚もいたというから驚きです。

 みさき道は唐人屋敷にほど近い十人町から始まります。そこの坂段を上り、東山手から石橋へ下り、出雲町〜二本松〜戸町中学校〜ダイヤランド〜土井首郵便局〜深堀町〜大籠町〜三和町(西彼杵郡)〜蚊焼峠〜黒岳〜野母崎町殿隠山〜堂山峠〜観音寺というルートです。(分カル人ハカナリノ長崎通)
 現在のみさき道は、車道になっているところもありますが、山あいや小高い丘をいく土の道も多く、便利なハイキンググッズに身を固めた現代人でもその道のりはかなり大変そうです。道筋にはこの街道の整備に出資した「今魚町」(現在の魚の町)の町名が記された道塚が数カ所残されています。

 みさき道のスタート地点、「十人町(じゅうにんまち)」の町名はちょっと変わってます。江戸時代、脇岬にほど近い権現山で長崎港に入港する外国船を見張るための「遠見番所」に勤める役人が10人いて、交代で勤務する彼らの役宅10軒がこの町にあったからだそうです。(通勤ガ大変ダネ)
 この「権現山遠見番所」は、島原の乱で一揆軍を攻め落とした直後、幕府がポルトガル船の来航を見張る為に設けたのが始まりです。さらに長崎半島には海防警備のため台場や番所が全国に類を見ないほど何カ所も設置されました。いわばこの一帯は日本屈指の要塞地帯だったのです。みさき道はそういったところに勤める役人らの通る道、いわば軍事の道でもあったといえます。

 またみさき道は、抜け荷(非合法な商取引)の道ともいわれています。脇岬が唐船の風待港だったことから、その時を利用して抜け荷をやる人が観音参りと称してこの道を往来したというのです。抜け荷は発覚すると遠島(島流し)などの厳しい処罰を受けましたが、それでも魅力は大きかったらしく、あとを絶ちませんでした。
 抜け荷といえば、もと遠見番が、仕事を辞めた後も役宅の近くに住み、そこから唐人屋敷まで穴を掘って品物を得、抜け荷をしたという珍事件が長崎奉行所の犯科帳に記されているそうです。(遠見番ハ薄給デ暮ラシモ厳シカッタヨウデス)

◎参考とした本と資料
 「わが町の歴史散歩(1)」(熊弘人著) 「長崎ぶらり散歩」(原田博二著) 「白帆注進」(旗先好紀・江越弘人著) 「第65回みろくや長崎食文化講座〜みさき道って何?〜」(講師 中島 勇)

(注) みろくやHP「ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム」は、気のきいた長崎歴史コラム。ただ、この「みさき道は、抜け荷の道?」は、参考とした本と資料に一部、疑問が多い。
 「みさき道」のルートや密貿易との関連は、コラム筆者自身で正しく研究してほしかった。

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