みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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            ドイツ村公園(板東俘虜収容所跡)  徳島県鳴門市大麻町

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。後ろの2枚は、鳴門市ドイツ館 第九の里と鳴門市賀川豊彦記念館。ドイツ橋などは別掲。

板東俘虜収容所

板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)は、第一次世界大戦期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。ドイツの租借地であった青島で、日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1917年から1920年まで収容した。1917年に建てられ、約2年10か月間使用された。

概 要
1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後同大佐)。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られている。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。

板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化された。

遺 構
ドイツ村公園入口板東俘虜収容所跡地のうち、東側の約1/3は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されている(残る西側は県営住宅や一般の住宅地になっている)。2007年11月から鳴門市教育委員会による発掘調査が行われており、地中に埋まっていた建物の基礎などが再確認された[2]。鳴門市では将来国の史跡への指定を目指すとしている。

近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「鳴門市ドイツ館」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができる。

8棟あった兵舎(バラッケ)の建物のうち半数は第二次大戦後まで残り、引き揚げ者用の住宅として利用されていたが、1978年までにすべて解体された[3]。これらの建物には解体後、民間に払い下げられたものがあった[4]。長らくその所在は明確ではなかったが、2002年に倉庫や牛舎として再利用されているバラッケが発見され、現在までに同様に再利用された建物は8カ所発見されている。最初に再発見された2つのバラッケ(安藝家バラッケ・柿本家バラッケ)は2004年に国の登録有形文化財に登録された。このうち柿本家バラッケは2006年にドイツ館南側の「道の駅第九の里」に解体・移築され、店舗施設「物産館」として利用されている。

地元ではその後発見されたものも含めた建物を元の場所へ移築復元することを目標としたNPO法人が2008年10月に結成された。

映画『バルトの楽園』撮影に際して2005年に板東に建設され、撮影終了後2009年2月まで公開されたロケセット(BANDOロケ村)はドイツ村公園とは別の場所で規模も実際とは異なるが、2010年4月に一部を移築の上で「阿波大正浪漫 バルトの庭」として再公開するにあたり、現存する実際のバラッケ1棟も敷地内に移築・公開された[5]。

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                    極楽寺の長命杉  徳島県鳴門市大麻町

 四国第二番札所「極楽寺」境内の薬師堂前にある大スギ。環境省の巨樹巨木林データベースでは、幹周4.65m、樹高15m、樹齢伝承1200年。「長命杉」と呼ばれている。
 鳴門市指定天然記念物(昭和42年11月9日指定)。

 極楽寺HPの紹介は、次のとおり。

 境内にそびえる杉の老巨樹があり、人々から「長命杉」と呼ばれている。伝承によると、弘法大師が当山にて二十一日間の修法を終えられたのち、この木を自ら植えられて、行く末永くこの寺を守護するように祈願をこめられたという。そしてこの木の肌に触れると、その逞しい生命力の感応によって長命を保ち、天寿を全うすることができるという信仰が永く伝えられ、長命杉の名が生まれたのである。

 伝承は別としても、樹高30m以上にも及び、幹の周囲6mを越え、樹肌に無数の深い亀裂と、そのため生じた荒々しい彫紋は巨大な龍の鱗を思わせる。その蒼空を目指して真直に伸びる様は、丁度龍の昇天を想起させる。少なくとも樹齢1100年を経たこの老大樹の生命力は現在もなおその枝葉に緑を茂らせているのである。この樹が人々の強い信仰の対象となっていることも、当然のように思われる。

 千年以上の風雪に耐えた老杉の霊気を受けると、長寿だけでなく病気平癒・身体健全・諸願成就が叶うと言われている。現在、長命杉(鳴門市天然記念物)保護のために熱心な信者の寄進による柵がもうけられ、紅白の紐をつうじて霊気を受けるような作法となっている。

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                    極 楽 寺  徳島県鳴門市大麻町

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

極 楽 寺
所在地 徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地

極楽寺(ごくらくじ)は徳島県鳴門市大麻町桧にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第二番札所。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:極楽の 弥陀の浄土へ 生きたくば 南無阿弥陀仏 口ぐせにせよ

歴 史
寺伝によれば、奈良時代(710 - 784)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。
天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治2年(1659年)に阿波藩主によって再建される。

境 内
・本堂 - 江戸時代初期(1659年)建立
・大師堂 - 江戸時代初期(1659年)建立、安産大師(修行大師)像安置
・観音堂 - 江戸時代中期建立
・薬師堂 - 江戸時代末期建立
・山門(仁王門)
・長命杉 - 空海手植えと伝えられる樹齢約1200年余りの杉。鳴門市天然記念物。
・一願水掛不動尊
・仏足石

重層の朱塗りの山門を入って右へ進むと右手に手水鉢がある。この先を左に折れると、石段手前に仏足石がありその右手に一願水掛不動尊と観音堂がある。石段を上がった左に薬師堂、その後に長命杉がある。正面奥に本堂があり、その右に大師堂がある。

文化財
・木造阿弥陀如来坐像(重要文化財・秘仏)
・両界曼荼羅図・地獄極楽図(徳島県指定有形文化財)

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                    霊 山 寺  徳島県鳴門市大麻町

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

霊 山 寺
所在地 徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126番地

霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市大麻町板東にある高野山真言宗の寺院。竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)と号する。釈迦如来を本尊とする。とくしま88景に選定されている。
四国八十八箇所霊場の第一番札所である。第一番の本寺を起点として遍路を始める人が多いため、巡礼装束である白衣や金剛杖、菅笠、納経帳、掛け軸など様々な巡礼用品を揃えられる売店が本堂横と駐車場にあり、遍路初心者には遍路作法なども伝授している。
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌:霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり

沿 革
寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創されたという。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け第一番札所としたという。本尊の釈迦如来は空海が刻んだもので左手に玉を持った坐像である。

室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1673年 - 1693年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたが明治時代の出火でまた多くの建物を失った。本堂と多宝塔以外は近年の再建である。

札所番号
寺伝その他の言い伝えでは空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も渡唐前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。

江戸時代に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人が大坂で四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)を出版した真念であり、この真念がはじめて八十八箇所を特定し札所番号を定めた。当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが一般的であったので、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第一番札所と定めたと推測される。

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                 鳴門スカイライン  徳島県鳴門市鳴門町ほか

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

徳島県道183号亀浦港櫛木線
鳴門スカイライン

徳島県道183号亀浦港櫛木線(とくしまけんどう183ごうかめのうらこうくしきせん)は、徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦から鳴門市瀬戸町を結ぶ一般県道である。
大部分がかつて有料道路であった鳴門スカイライン(なるとスカイライン)であり、現在でも同路線の愛称として使用されている。カーブが非常に多く、オーバースピードになりやすい。

歴 史
・1972年03月10日 - 徳島県道183号亀浦港櫛木線として認定。
・1996年08月01日 - 鳴門スカイラインが無料開放。

解 説
鳴門の渦潮で有名な鳴門海峡、波の穏やかな瀬戸内海、小鳴門海峡の二つの瀬戸を渡る道である。県内屈指のドライブコースで、山と海の素晴らしい景色を眺めることができる。
また、途中のウチノ海では釣り用のいかだ群の風景を眺めることができる。他にも、ゴルフ場やホテル、休憩所等もある。島田島の中央には四方見展望台がある。

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