みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

                    高知城跡  高知県高知市丸ノ内

 国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 高知城跡
ふりがな: こうちじょうあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1959.06.18(昭和34.06.18)
追加年月日: 2007.07.26(平成19.07.26)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 高知県
所在地(市区町村): 高知市丸ノ内
解説文:
 慶長5年山内一豊は土佐国に封ぜられ、翌6年1月掛川城から浦戸城に移ったが、大高坂山の地を選んで築城することとなり、9月鍬初を行い、同8年8月入城した。城の成ったのは子忠義のとき、同16年頃と思われる。
大高坂山は、南に鏡川が、北に江ノ口川がそれぞれ東流する間に挾まれた平地中に屹立する独立丘陵であって、南北朝時代には大高坂松王丸が、降って天正年間には長曽我部氏もここに拠ったことがあり、要地であったことがうかがわれる。
最高所を本丸とし、その北に通路を兼ねた空堀を隔てて稍々低く2の丸を配し、2の丸の東に一段低く3の丸を置く。本丸、2の丸の西から北をめぐり、3の丸の東にわたって獅の段や帯郭状等の平地を連ねている。城壁はすべて石垣をもって固められ、大手口は南東麓に東に向って開き、搦手口は西麓に位する。堀は山裾をめぐって北方江ノ口川の邊に達していたが、いま追手門から南麓居館跡をめぐってその面影をとどめている。
規模必ずしも雄大と称すべきものではないが、その郭、通路等の配置は巧みで、要を得、就中詰門を構えた本丸、2の丸間の通路の設計はひろく賞讃されているところである。
もとより変改のあともあるが、縄張は略々全容をとどめ、天守を始め、本丸書院、詰門、追手門等建物も多く、近世城郭の遺構として、学術上貴重である。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

高知城
 高知城(こうちじょう、Kōchi Castle, Kōchi-jo)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった城。別名、鷹城(たかじょう)。
江戸時代、土佐藩の藩庁がおかれた。江戸時代に建造された天守や追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

概 要
 高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。

戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)[1]または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。

高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。

城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。


 長崎への帰路は、須崎市から国道381号などにより愛媛県八幡浜港へ出て、別府港へフェリーで渡った。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

                    杉の大スギ  高知県長岡郡大豊町

 国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 杉の大スギ
ふりがな: すぎのおおすぎ
種別1: 特別天然記念物
指定年月日: 1924.12.09(大正13.12.09)
特別指定年月日: 1952.03.29(昭和27.03.29)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 高知県
所在地(市区町村): 長岡郡大豊町
解説文:
 天然紀念物調査報告(植物之部)第四輯 一〇一頁 參照 天然紀念物解説 一六一頁 二株ノ杉ノ巨樹相接近シテ立テリ其中南方ニアルヲ南大杉ト云ヒ北方ニアルヲ北大杉ト言フ 南大杉ノ根廻リ五丈二尺四寸幹ト根ノ境界部ノ周圍五丈五尺二寸境界部ヨリ五尺上ノ幹圍四丈九尺アリ 北大杉ノ根廻リ五丈三尺幹ト根ノ境界部ノ周圍四丈四尺境界部ヨリ五尺上ノ周圍三丈五尺アリ 南大杉ハ杉ノ最大巨樹ノ一ニシテ石徹白ノ杉ト伯仲ス 二株の杉の巨樹相接近して立ち、夫々南大杉、北大杉という。 南大杉の根廻り15.87メートル、幹と根の境界部の周囲圍16.72メートル、境界部より1.50メートルの幹囲11.81メートルあり。北大杉の根廻り16メートル、幹と根の境界部の周囲10.60メートルあり。南大杉はわが国における最大の杉として貴重なものである。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

杉の大スギ

 杉の大スギ(すぎのおおスギ)は、高知県長岡郡大豊町杉の八坂神社境内に生育しているスギの巨木である。推定の樹齢は3000年以上といわれ、1924年には国の天然記念物、1952年には国の特別天然記念物に指定された[1][2][3]。根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、神社にみられる木としては、日本最大のものとされ、古来から信仰の対象となっていた[2][4][5]。大豊町(旧大杉村)出身の軍人山下奉文は、この木に因んで「巨杉」(きょさん)という雅号を使用していた[2][6]。著名人の参拝記録が多く、幕末には山内容堂や坂本龍馬、第2次世界大戦後には美空ひばりなどがこの木を訪れている[2][4][7][8]。特にひばりとこのスギにまつわる逸話は名高く、その縁によって遺影碑と歌碑が彼女の没後に建立された[2][4][7]。

由 来
 この木は素戔嗚尊が植えたという言い伝えがあり、推定樹齢の根拠とされる[2][4][9]。古文書には、10世紀初めの延喜12年(912年)に京都から来た杉本太郎義家という武士が、木の根元に祇園牛頭天王、貴船大明神、行基菩薩の三尊像を祀ったとの伝承が記されている[2][3][9]。木は根元で2本に分かれ、それぞれ「北大スギ」、「南大スギ」と呼ばれる[2][9]。

 2本のうちでは南大スギの方がやや大きく、根周りが約20メートル、樹高が約60メートルあり、日本最大のスギとされる[10]。北大スギは根周りが約16.5メートル、樹高が約57メートルあり、岐阜県郡上市に生育する国の特別天然記念物「石徹白の大スギ」に匹敵する巨木である[4][10]。このスギは「神代スギ」「天王スギ」「夫婦スギ」などと、異名を多く持つ[2][9]。受胎・安産や護身のご利益があるとしてこのスギの樹皮をひそかに剥ぎ取る者が多かったために、樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状をなしている[11]。

 このスギの所在地はもともと旧大杉村の杉という地名だったところで、村の名、字名、そして土讃線の駅名もこのスギに由来している[9][8][10]。…
 杉の大スギは1954年9月26日の台風9号、1970年8月21日の台風10号によって大枝が折れるなどの被害を受けた[3]。とりわけ1954年に大枝が折損したときは、枝1本でトラック7台分になるほどであった[9]。近年の観光客増加によって根元付近の踏み付けによる樹勢の衰えが懸念されるため、高知県や文化庁の援助のもとに大豊町が保護対策を行い、施設整備協力費としてこのスギやひばりの歌碑を観覧する観光客から大人1人につき200円を徴収している[5][7]。

 杉の大スギは1924年12月9日に国の天然記念物に指定され、第2次世界大戦後の1952年3月29日には、特別天然記念物に改めて指定された[1][3][14]。1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」に合わせて企画された「新日本名木100選」にも選定されている[2][15][16]。

所在地  高知県長岡郡大豊町杉 八坂神社境内
交 通  JR四国土讃線・大杉駅下車、徒歩800メートル

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

                  豊楽寺薬師堂  高知県長岡郡大豊町

 国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 豊楽寺薬師堂
ふりがな: ぶらくじやくしどう
員数: 1棟
種別: 近世以前/寺院
時代: 平安後期
年代: 仁平元頃
西暦: 1151頃
構造及び形式等: 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、こけら葺
指定番号: 00100
国宝・重文区分: 国宝
重文指定年月日: 1904.08.29(明治37.08.29)
国宝指定年月日: 1952.11.22(昭和27.11.22)
所在都道府県: 高知県
所在地: 高知県長岡郡大豊町寺内
所有者名: 豊楽寺
解説文:
 豊樂寺は聖武天皇の勅願によって行基菩薩の開基と伝える。今の藥師堂の建立年次は明らかでないが、様式手法上より藤原時代の建立と思われる。変った平面を持っているが当初からこうした計画であったようである。
 比較的太い疎垂木に大きい小舞の軒廻り、内陣の佛壇及び勾欄等よく時代の特徴を示している。この堂は四国地方最古の建築として貴重である。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

豊楽寺
 豊楽寺(ぶらくじ)は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。正式名は太田山大願院豊楽寺、別名は柴折薬師で、日本三大薬師[1]の一つに数えられる。国宝薬師堂内に安置される伝行基作の薬師如来を本尊とする。

歴 史
 724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求豊足身心安楽」より名付けたとされる。

文化財
薬師堂国宝
 薬師堂 - 平安時代末期建立の四国最古の建造物。入母屋造り、柿葺き、単層、正面5間、側面5間。内陣に如来像3体を安置。1952年に国宝指定。堂正面は中央3間を観音開きの板扉、両端間は連子窓に横板壁とする。側面は前端間を板扉とするほか横板壁、背面はすべて横板壁である。組物は舟肘木、垂木は疎垂木で全体に簡素な構えとする。堂内安置の薬師如来像の胎内に仁平元年(1151年)の年記とともに「五間四面薬堂造立」云々の記があり、この頃に建立されたものと推定される。

拝観情報  開門時間 - 9〜16時
交通アクセス - 土讃線 大田口駅 徒歩30分
所在地 - 〒789-0234 高知県長岡郡大豊町寺内314

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

             吉野川中流と大歩危・小歩危  徳島県三好市山城町ほか

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

大歩危峡

 大歩危(おおぼけ)は、吉野川中流域に位置する渓谷(先行谷)。
吉野川西岸の徳島県三好市山城町西宇地区の歩危茶屋付近から高知県長岡郡大豊町大久保地区の一部までと、その対岸となる徳島県三好市西祖谷山村の一部を指す総称でもある。峡谷そのものを指す場合は大歩危峡(おおぼけきょう)と呼ばれることが多い。夏季には多くのラフティング・カヤック愛好者を集めるほか、百年以上の歴史がある大歩危峡遊覧船で知られている。数km下流の小歩危(こぼけ)と共に、大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)として一括りにされることが多い。剣山国定公園に含まれている。
 大歩危駅から下流側1キロメートルの国道32号線沿いに「ラピス大歩危」という、岩石・鉱物を展示した博物館がある。
 なお、那賀川上流域の徳島県那賀郡那賀町にも歩危峡(ほききょう)という峡谷があるが、大歩危とは関係ない。

地名の由来
 川沿いに変成岩類が露出する一般には漢字説(「大股で歩くと危険」)が有名であるが、昔から現在の漢字で表記していたわけではなく間違いである。 「ほき、ほけ」は断崖を意味する古語である。「おおぼけ」という音に対して、文化12年(1815年)編纂の阿波史では「大嶂」の字を充てており、明治6年(1873年)の地租改正の際に当時の三名村は「大歩怪」の字を充てている。地租改正の際に「こぼけ」には「小歩危」の字を充てており、後に「小歩危」に合わせて「大歩危」と表記するようになった。

大歩危峡の特徴
 この地域の地質は三波川帯に属し、変成岩類で構成されている。大歩危は砂質片岩および黒色(泥質)片岩を主体として構成され、吉野川沿いは砂質片岩が多く露出する。変成岩中に礫(れき)の原型を留めた礫質(れきしつ)片岩が含まれているものもある。大歩危の礫質片岩は含礫片岩として徳島県天然記念物に指定されている。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

                  加茂の大クス  徳島県東みよし町加茂

 国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 加茂の大クス
ふりがな: かものおおくす
種別1: 特別天然記念物
指定年月日: 1926.10.20(大正15.10.20)
特別指定年月日: 1956.07.19(昭和31.07.19)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 徳島県
所在地(市区町村): 三好郡東みよし町
解説文:
 天然紀念物調査報告(植物之部)第二輯 一二四頁 參照  第六輯 三九頁 天然紀念物解説 一四四頁 本樹 Cinnamomum Camphora Nees. et Eberm. ハ田圃ノ間ニ立テリ地上五尺ノ幹圍四丈、地上二間ノ處ヨリ十二本ノ太キ枝ヲ分ツ枝ハ七八十尺ヅヽ四方ヘ擴リ樹形壯大ナリ

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

加茂の大クス
 加茂の大クス(かものおおクス)は、徳島県東みよし町加茂(旧三加茂町)にあるクスノキの巨木。国の特別天然記念物に指定されている。新日本名木百選選定。

概要・歴史
 吉野川南岸のJR徳島線阿波加茂駅の北東にる、旧若宮神社の社地跡にあり、源平の頃よりあると伝わっている。1926年(大正15年)内務省告示第58号により天然記念物に指定され、1956年(昭和31年)に文化財保護法に基づき国の特別天然記念物に指定された。
 昭和以降、周辺の開発の影響により樹勢が低下したため、県や町により周囲の水田を買い取り、周囲に土を入れるなどして、樹勢の回復につとめている[1]。

データ
 平成19年11月1日の環境省による計測値
所在地:東みよし町加茂1482番地
樹齢:約1000年
根回経:23.35m 幹経:16.72m(環境省巨樹測定基準) 14.10m(地上1.3m凹凸を含まない)
樹高:26m 枝張東西:52m 枝張南北:42m

全1ページ

[1]


.
みさき/michito
みさき/michito
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事