みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                        深浦の道標  佐賀県白石町深浦

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
 国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。すぐ石塔群手前から彦嶋神社へ左折、旧街道を深浦峠の坂道へ向かうと、道角にまず「右かしまみち」の標石、その先の八天宮祠右にこの碑がある。
 「西嘉島道/南龍王道」の刻字は、「八天宮」の下の部分。薄い彫りなので注意して見る。

   深浦の道標 ふかうら
(杵島)白石町 石道標(自然石) 高1m以下 宝永6(1709) 町教委 移設 (正面)「八天宮、西嘉島道/南龍王道」 2 C

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                     福泉禅寺の石階段  佐賀県白石町田野上

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
 国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。福泉禅寺の入口案内板があり、梅ノ木谷溜池を通って行く。

   福泉禅寺の石階段 ふくせん
(杵島)白石町 福泉禅寺・参道 石階段 4座 天明7-8(1787-88) 町教委 保存状態良好 1 C

 次は白石町HPから「福泉禅寺と和泉式部伝説」
 福泉寺この寺には、2つの興味深い物語が残っています。
 その1つが「和泉式部生誕伝説」で、遙か平安時代藤原氏全盛期のお話です。ある朝、赤ちゃんの鳴き声で目を覚ました福泉禅寺のお坊さんたちが周囲を探したところ、お堂の裏で白い鹿が人間の女の赤ちゃんにお乳をあげていました。そこに隣の塩田の里(現在の嬉野市塩田町)から長者大黒丸夫婦がやってきて、
「私たち夫婦には子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまにどうぞ女の子をお授けくださいと祈願しておりました。すると夕べ、薬師如来様が夢枕に立たれ『おまえたちの永年の信心をあわれと思い、福泉禅寺の裏に一人の女の子をさずけておいた。明日の朝早速に寺に行き、その子をつれて帰るがよい』とお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と申しました。
 大黒丸夫婦にもらわれていった女の子はとてもかしこく美しく成長し、縁あって宮廷に上がることになりました。これが和歌の名手和泉式部だったのです。和泉式部が遠いこの故里を思って詠んだ「ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ」という歌が今に伝わっています。

 2つめは「幽霊の掛軸」の由来です。江戸時代、福泉禅寺の住職東州和尚が修行の旅に出ていた時のことです。ある夜、泊めてもらった駿河国(現在の静岡県)のお金持ちの家に幽霊の掛軸が飾ってありました。和尚が幽霊の掛軸を飾っている理由を主人に尋ねたところ、「この掛け軸は、継母に反発して悪行を重ねる子供のもとに、亡くなった生みの母が幽霊になって『育ての母上に逆らってはいけない』と諭すために現れた姿を描いたものです」という答えが返ってきました。その話に感動した東州和尚が「是非地元の同じ境遇の家庭にもその話を伝えたい」と申し、譲り受けてきたという掛軸が今も福泉禅寺に保存されています。
《 案 内 》 臨済宗。はじめ真言宗寺院として創建。のち禅宗寺院となる。木造十一面観音菩薩坐像は県重要文化財。

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                       梅ノ木谷溜池  佐賀県白石町田野上

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
 国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。福泉禅寺の入口案内板があり、梅ノ木谷溜池を通って行く。白石平野を潤す4段の溜池。

   梅ノ木谷溜池 うめのきだに
(杵島)白石町 溜池(3基) (下段)堤長約400m,(中段)堤長約280m,(上段)堤長約100m (上・中段)享保5(1720)、(下段)明和5(1768)→嘉永4-文久3(1851-63)改築 町教委 昭和24に最上段(4段目)を築造 2 C

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                        城江井樋  佐賀県有田町山谷牧

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
 国道202号から松浦鉄道山谷駅そばの踏切を渡り唐船城跡の山田神社へ向かう。神社前の橋下が水路で、下流へ車道をたどる。有田川が彎曲するあたりの岩面手前に、コンクリート整備された素掘トンネル入水口があり、出水口は約120m先。中間岩場に空気穴も確認できる。
 西有田町史上巻276〜278頁を参照。漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、今は山田神社境内に移されている。

   城江井樋 じょうえ
(西松浦)有田町 有田川 素掘トンネル (水路) 長約120m 嘉永3(1850) WEB 保存状態良好 1 C

 詳しくは、HP「ももちゃんの西有田史跡マップ」を参照。  http://www15.ocn.ne.jp/~housenji/joueibi.htm

   城江井樋
 有田川右岸の二ノ瀬の水田へ水を引くため、嘉永3年(1850)岩をくりぬいて、トンネルを掘ったものである。子ども一人が通り抜けられるくらいの穴で、約120メートルの長さである。
 120メートルといえば、60間、1間1両で請け負ったというから、60両の費用がかかったことになるが、何人もの人夫が途中で逃げ出したり、落盤で命を落としたり、大変な工事だったと聞いている。 
 漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、いまは、山田神社の境内に移された。その記念碑(注1)に「馬頭」樋という文字があり、桃川の馬ン頭(サイフォン)式を参考に作られたようである。
 詳しくは、西有田町史上巻(P276〜278)をご覧ください。こもあれ、先人の着眼、行動には、感激するばかりである。

注1: 記念碑碑文
松浦郡有田郷山谷村爽水有田各分渠漑之水東有石崖阻渠故設馬
頭槭以取水西之水其脩造之費率無虚為村民患焉嘉永
年間鍋島種邑為郷宰庚戌春為相謀命工鑿崖腹
五十歩以通渠流永使灌漑巧亦偉矣時
余攝郷中教導事故聊紀歳月繋之以詩
  昔役五丁徒夸巧 今看(ザン)鑿利三農   〈ザンサク:穿かれた穴〉
  無間然處能盡力 其所無事況有庸    〈三農:山地平地水辺の農業。農業農村農民〉
  要知遺澤千秋後 水汪汪分流不窮
                  草場クツ(革へんに華)撰并書

 松浦郡有田郷の山谷村には爽やかな水があり、田畑を潤している。
 この水は東にある右側の崖が粗雑だったため
 馬頭を設けて水を仕切って水を取り出し西へ流していたが、壊れたり、大水で流されたりして
 その修理のために 多くの費用が掛かっていたため、村民は大変困っていた。
  嘉永年間、佐賀の鍋島種邑が有田郷の宰相として赴任し、庚戌(嘉永3年)の春、
 相談しつつ工事を命じて崖腹を穿ち、五十歩の渠を通し以って灌漑に使い
 その仕事は、巧みて偉大だった。
 時には村のものを教え導きつつ、いささか事故もあったが、歳月之をつなぎ、以って詩う。

 昔の役(仕事)五丁徒に巧をおごる。今、?鑿(ザンサク)を看、三農(山地平地湿地)を利す。
 その間、然る処よくその力を尽くし、其の所事なきを得、 況や役に立つことこの上なし、
 知るべし、遺された澤はその後千年に及び、水はとうとうと分かち流れ、窮することはない。

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