みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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       長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 127P 明治初期の長崎市街中心部

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

 127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。

  ■ 確認結果

 姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
 著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

 127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。
 ●町年寄の屋敷、諸藩の蔵など健在
 1875(明治8)年に長崎に立ち寄ったアメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚です。大徳寺付近からその頃の市中心部を撮影しています。…

 この作品は、「アメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚」とあるが、同じ写真はデータベースにすでにある。
 上野彦馬?が大徳寺跡から撮影したとされる目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」、目録番号: 6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」の3枚組のうち、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」が、これである。
 執筆者は同じ写真と気付いているのだろうか。したがって、撮影者は「上野彦馬?」と考えられる。
 この作品は、本ブログ次も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58928608.html

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     長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影

  ■ 確認結果

 姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
 著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影
 ●娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺
 写真は遊郭の丸山町と寄合町周辺です。1871(明治4)年ごろ、お雇いオランダ人医師マンスフェルトが撮影したもので、「愛宕山からの景色」と紹介されています。
 右手の大屋根は正覚寺です。写真中央やや手前を、家並みに沿って横切る道が茂木街道です。
 1872年10月、人身売買と売春婦の年季奉公を廃止する娼妓解放令が布告されましたが、…

 この作品は、本ブログ次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/67553561.html
 何度も指摘するが、これは愛宕山の中腹、現高平町の玉成高校旧校舎「榎観音堂近く」から撮影したもので、正覚寺の大屋根の向きは、ここでしか合わない。
 娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺と盛んに説明するが、ここからは正覚寺及び同寺墓地の背後の斜面谷間となって、丸山町や寄合町の遊郭街はまったく写らない。現地確認もしないで、このような解説をいつまでもするのは、研究者の権威が疑われる。

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      長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼

  ■ 確認結果

 姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
 著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼
 ●麹屋町―石と木と紙の造形
 坂本龍馬が勝海舟に従い、豊後から九州を横断して長崎を訪問した1864(元治元)年の春、ベアトはこの麹屋町の筋を撮影しました。湧水に恵まれ、味噌、醤油、酒の麹を作るところから、正保年間(1644〜48)にこの町名となりました。長崎の街中を写した最古の写真として貴重です。
 背後の山は風頭。正面は興福寺の鐘鼓楼です。左上の建物は興福寺の永福庵ですが、現存しません。…

 データベースでは、目録番号:1293「興福寺開山堂と麹屋町(1)」の作品。超高精細画像の画像解説は次のとおり。
 「F.ベアトの撮影。中島川に直交する道路では当時から幅広だった今紺屋・中紺屋町(現在は麹屋町に統合)の通りから興福寺を見通したもの。背後は風頭山。正面の重層の楼閣は、文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、これは戦災で失われ、現在はそこに民家が建て込んでいる。その左上は境内にあった永福庵であろうが、その跡地には明治34年(1901)に鶴鳴女学校が開設され、それが大正11年(1922)に小島地区に移転後は同校の寄宿舎となり、現在に至っている。」

 この作品は、本ブログ次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/60250231.html
 正面の重層の楼閣は、「文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、」とあるのに、なぜ「鐘鼓楼」となるのか。
 興福寺の「鐘鼓楼」は、同じ時期ごろF・ベアトが撮影した目録番号:3246「興福寺の鐘楼(2)」があるとおり、本堂前の庭にあるこの建物(正式名称は「鐘鼓楼」)で、現在も現存する。
 データベースに対し、変なタイトルの変更や間違った解説にすべきでないだろう。

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