みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                      楢津地先の荒籠  久留米市城島町楢津

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。青木中津大橋交差点から筑後川左岸沿いの県道711号を、江島地先の荒籠を過ぎ、上流へ六五郎橋近くまで進む。河岸の船着場へ降りる道があり下ると、上流に荒籠があった。上流の橋は六五郎橋。
 リストのは、多分これだろうと思うが、そこから下流を眺めると、壊れた小さな石積みが見える。どちらなのだろうか。

      楢津地先の荒籠 ならつ、あらこ
久留米市 筑後川(左岸) 石水制 長約20m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 C

 補足すると、楢津には3つの荒籠があったと、地元漁師は言う。筑後川の河川工事で壊されたが、六五郎橋近くの元船着場のは、残っているという話で訪ねた。

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                     江島地先の荒籠1・2  久留米市城島町江島

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。青木中津大橋交差点から筑後川左岸沿いの県道711号を上流へ約600m進む。江島バス停があり、河岸の船着場へ降りる。左右に江島地先の荒籠が確認できる。下流に写るのは青木中津大橋。

(写真 1〜 4)  江島地先の荒籠1 えしま、あらこ
久留米市 筑後川(左岸) 石水制 長約45m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 C

(写真 5〜 9)  江島地先の荒籠2 えしま、あらこ
久留米市 筑後川(左岸) 石水制 長約25m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好(天端をC補強) 筑後川の荒籠群(小型) 3 C

 補足すると、荒籠は上流から下流にかけて、1,2…と数えるから、掲載写真もその順とした。そうすると、「江島地先の荒籠2」は、HP「筑紫次郎の伝説紀行」による「おせん荒籠」である。
 次を参照。古写真(10枚目)も同HPから載せたが、「頼母荒籠」は旧三潴町ので、「おせん荒籠」と別場所の荒籠のよう。    http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/064arako.html
 「夏ですから、少し怖いお話しとまいります。それも江戸の女が久留米で殺される。男の我がままと女の一途が産んだ悲劇の結末は…
 時は慶応から明治に移って間もなくの頃でございます。筑後川岸の江島(現城島町)から突き出た荒籠あらこに、若い女の他殺体が引っかかっているのが発見されたのです。…」

 伝説は、という話だが、地元で「おせん荒籠」を知っているのは、古い漁業者だけとなった。HP筆者も最近亡くなられたと聞いた。注意するのは、この「江島地先の荒籠1・2」は、干潮時だけしか姿を見せない。私が最初の調査でわからなかったはずである。2回目朝も潮が満ちかけもう確認できず、数日過ぎた旅行帰りに再び寄って、やっと対面することができた。地元漁師が「おせん荒籠」は、ここと言うから、場所は間違いないだろう。

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                  荒籠(あらこ)−「筑後川の碑」から   大川市中古賀

 筑後川の「荒籠」を理解してもらうため、大川市教育委員会が設置している「荒籠」説明板と、HP「筑後川の碑」の内容を載せる。
 この項は、HP「筑後川の碑」の次を参照。
  10 04 治水の碑 荒籠(あらこ) 福岡県大川市 ーーーーー 大川市教育委員会
   http://hi.mymy.jp/chikugohi/arako.html
 
荒籠(あらこ)
  碑 銘  荒籠
  建立地 福岡県大川市
  建立日 ―――――
  建立者 大川市教育委員会

 筑後川は御境川とも呼ばれている。上流は天領日田、下って中流右岸は黒田藩、その対岸には久留米藩、なお下って右岸佐賀藩、その対岸には柳河藩にそれぞれ属し、互いに土地争いと水争い絶えなかった。荒籠は筑後川に建設された石積の水制であって、水の勢いを対岸に向わせる役割があり、自国領の護岸守るために築造されたが、他領との争いにもなった。荒籠について、筑後川沿いに碑が、次のように建っていた。

 「荒籠
 荒籠とは、堤防から川中に向けて石垣を築き出したもので筑後川のこのあたりに多く見られる。
 荒籠がいつごろから造られるようになったのかははっきりしないが、江戸中期には久留米市小森野から若津までの二十二キロメートルに二百九十ヵ所近くも築かれている。筑後川の著名な荒籠は久留米藩の百間荒籠(大川市道海島)、柳河藩の永松荒籠(柳川市八ッ家地先)、佐賀藩の千間荒籠(佐賀県大詫間)などがあげられている。とくに道海島の百間荒籠は明暦二年(一六五六)の建設当時全長二百間(約五百六十メートル)あったといわれる。荒籠は陸への昇降場というだけでなく、護岸、川床の浚渫洪水防止干潟の造成などの目的で築かれたようである。
 特に各家に井戸を掘っても水質が悪く、飲料水として適しないこの地域では飲料水の汲みあげ場としても利用されていた。しかし荒籠を築くと、そのはね返った水は余勢をかって対岸を削ることもあり、佐賀藩、久留米藩領、柳河藩領が川を隔てて相対している。
 大川の地域では荒籠の新設や改修となると相対する藩や村どうしの荒籠騒動が起こったといわれている。
          大川市教育委員会」

 以上がその内容で、建立地は「福岡県大川市」とし、国土地理院地図に赤丸のある場所である。説明板と荒籠の写真があるが、地図もどうもしっくりしない。2度訪ねてやっと説明板の所在場所と、写真の荒籠がどこなのかわかった。
 国道208号大中島の手前、大川橋交差点から筑後川左岸沿いの県道47号に入り、上流に向かう。約1.5kmほど行って、大川家具工業団地前の新橋水門先から船着場の河岸へ下る道がある。大川市設置の荒籠説明板はここにあった。大川市中古賀という地区の河岸である。対岸大中島にもあまり荒籠が確認できないのに、大川市教育委員会はなぜここに設置したのだろうか。下流の馬ノ丞に小さな荒籠はたしかにあるようだが、ここからは見えない。

 次は、本調査は「(社)北部九州河川利用協会」からのご支援により実施しました。」という、HP「筑後川の碑」に掲載した荒籠の写真。これは大川市説明板設置のこの場所からではない。次記事とするが、県道47号でさらに青木中津大橋の上流に行って、久留米市城島町江島の荒籠2基の写真(3枚目の写真・説明板とはまったく別の場所)である。そこに混同があり、この荒籠が干潮時にしか見えないため、私は調査に苦労したので、HPには写真説明と地図説明の配慮をお願いしたい。

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                         菰田船継所跡  和水町下津原

 現地説明板は、次のおり。県道6号和水町下津原の菊池川を渡る菰田橋の右岸にある。

      菰田船継所跡    所在地  和水町下津原字菰田

 安政2年(1855)の「菊池川全図」で、岩村川と菊池川の合流点すぐ下流に66間の石積みが記されています。ここが菰田船継所跡で、近世の水上交通の要所にも数えられる一方、船着場としても活用されてきました。以前は4階建ての商家が建っており、往時が偲ばれます。
 寛永期(1624〜43)においては、菊池川中流から高瀬蔵納の拠点3箇所のうちの1箇所として繁栄しました。…(中略)…
 明治になると、10年(1877)の西南戦争の際、菰田での渡河を記していることから、陸上交通の上でも重要な位置を占めていたことがうかがえますが、船継所の機能は次第に失われていき、鉄道の発達により物資輸送は陸上運送へと推移していきました。
            平成21年3月    和水町教育委員会

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