みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                       日向神ダム  八女市黒木町大渕

 ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道442号沿いに日向神ダムはある。
 
      日向神ダム

日向神ダム(ひゅうがみダム)は福岡県八女市黒木町大渕、一級河川・矢部川本流上流部に建設されたダムである。
福岡県が管理する高さ79.5メートルの重力式コンクリートダムで、福岡県が最初に施工・管理を行った都道府県営ダムであり、県営ダムとしては現在最も規模が大きいダムでもある。1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害を契機に矢部川の治水と大牟田地域への電力供給を目的とした補助多目的ダムとして建設された。ダムによって形成された人造湖は日向神湖(ひゅうがみこ)と命名された。

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                 笹又の道しるべ(西園橋三叉路)  八女市矢部村矢部

 「笹又の道しるべ」は、現在、国道442号から県道801号が分岐する日向神ダム西園橋の角の崖地下に移設されてある。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。
 HP「矢部村の歴史 」矢部村の開発の項による説明は、次のとおり。道しるべのもともとの建立場所・建立年代・建立者を推測されている。

     矢部の旧道

 矢部は、すべて奥深い山の中にある。
四方峻険な山々に囲まれ、矢部川とその支流に沿って 細長く伸びる谷間に狭い土地がへばりついている。矢部への道は、おそらく原始時代からその矢部川沿いに、谷を渡り岩間をつたい、杣道をたどって細々とつづいていたであろう。
 かつて南北朝の動乱期は、天然の要害として、南朝方のとりでとなったのは必然であった。杣人や武人の通行も多かったであろうその道は、ほとんど尾根を越え、谷を渡って細々つづく杣道であった。都の竹の園で育たれた両親王や供奉の都人にとっては、地の果てに来た思いであったろうことは想像にかたくない。
 最近でもはじめて矢部を訊ねて来た人が、この上に人家があるのだろうかと心細くなったと話す人もいる。昭和十六年に宗像郡から椎葉に嫁した小森ハルコ(六十九歳)は、こんな山中にまだ人の生活があるのかと心細くなり、あまりの淋しさに涙したことを昨日のことのように述懐している。

 筑後路の主要道路を整備し、交通の便を図ったのは、慶長九年(一六〇四)、関ヶ原の功により筑後一円を領して柳川城に入った田中吉政である。吉政は、新田の開発や河川の改修にも力を入れたが、矢部川を境に北に方二間、高さ一間の塚に、榎、樫などを植えた一里塚を築き、南側に一里石を建てて柳川からの里程とした。
 江戸時代になると、矢部村は矢部川をはさんで久留米藩と柳川藩の領有となった。道路は、矢部川をはさんで久留米道と柳川道があった。久留米道(矢部道)と柳川道ともに、両藩では最長の道路で、風光明媚ではあるが、峻険な坂道であった。大渕より上流は、峻峰群立して河岸に迫り、行手をさえぎり、通行や貢納物、産物の輸送はきわめて難渋したルートである。道路の開削、整備には、多くの辛酸と犠牲の歳月を要したことであろう。

 久留米藩の矢部道のルートは、大渕の花巡りから八升蒔、平野を通り空室(うつろ)からこう仏谷(奥 日向神)を巡って鬼塚へ出たらしい。
 柳川道は、柳川街道という。大渕の上月足から通称朝開き(おそらくここに朝日が一番早く当たったであろう)から九十九折の急坂を越え、日向神の黒岩トンネルの上おうむ岩を巡って椎葉に抜け、谷野から伊良道(いらどう)(蚪道(いらど))を通って西園、飯干、笹又、所野へとつづいていたようである。
 蚪道の柳川道に十二里の一里石が建っている。のちに、椎葉から分岐して谷野に下り矢部川沿いに上って飯干、笹又へ通じる新道が出来たという。現在、西園橋の三又路に「右大ぶち左ひご道」と刻まれた石の道標が建っているが年代はわからない。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて、肥後方面や矢部・豊後に旅する人の利便を図っているが、笹又の道しるべも、あるいはその良作という人が建てたのかもしれない。

 正保四年(一六四七)に「久留米領大道小道 之帳」という道路台帳のようなものが作られている。それによると、
「一、本分村より矢部村豊後境目迄六里六町、
但豊後ノ内梅野村へ出ル
 此内川壱ツ 渡リ七所
  黒木川ちんノ内(陣の内) 渡リ
        広サ拾五間、深サ壱尺
  同川塚瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐尺
  但久留米領木屋村より柳川領木屋村へ渡ル
  同川とくう瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐
  尺、但柳川領木屋村より久留米領木屋村へ渡ル
  同川花遶ノ渡リ、広サ拾三間、深サ弐尺、
  但久留米領大渕村より柳川領大渕村へ出ル
  同川鬼塚ノ渡リ、広サ七間、深サ壱尺五寸
  但柳川領矢部村久留米領矢部村へ渡ル
  同川三瀬ノ渡リ、広サ八間、深サ壱尺、但
  久留米領矢部村より柳川領矢部村へ渡ル
  同川柴庵ノ渡リ、広サ五間、深サ壱尺五寸
  但柳川領矢部村より久留米領矢部村へ渡ル」
とある。

 黒木町本分から矢部村柴庵まで七ヶ所の瀬を渡っていたが、そこには小さな板橋か丸太橋が かかっていたのであろう。また、久留米領から柳川領へ、柳川領から久留米領へ交互に入っているのもおもしろい。けわしい谷間がつづくこの地では、両藩の了解で、通行手形なしで行き来した生活優先の事情がよくわかる。
 矢部村では、鬼塚と三瀬、柴庵の三ヶ所の渡りがある。鬼塚や柴庵の瀬は大体想像がつくが 三瀬とはどこであろうか、中間から下った谷の合流点あたりを三ッ渕というそうであるから、その辺りの瀬ではなかったろうか。
 貞享元年(一六八四)北矢部柴庵から竹原峠を越えて日田郡梅野村(中津江村)に通じる「川沿新道、別名豊後別道」が開かれ、豊後への往来も便利になった。それまでは杣道であったのを官道として整備したのであろう。柴庵から八知山鉱口あたりを通って竹原へ上る近道がそれに当たるのではないかと思われる。

 蚪道(十二里)所野(十三里)虎伏木(十四里)に残る一里石や西園橋の三又路に残る道しるべは、当時の交通、道路のようすを知るうえで貴重な史料であり、子孫に継承すべき史跡として大切に保存しなければならない。
 なお、久留米領の笹又にあったといわれる一里塚や肥後境三国山の麓にあったという一里石や境木は今は見あたらない。…

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータに、次のとおり登載された。

      矢部村矢部の道標 やべ、やべ
八女市 西園橋三叉路<矢部街道> 石道標 江戸期? WEB(みさき道人) 移設 (正面)「右 大ぶち/左 ひご、道」 2 C

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               矢部村の里塚石(十二・十三・十四里)  八女市矢部村蚪道ほか

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。矢部支所前案内図や所在地図のとおりだが、国道沿いでないため場所がわかりにくい。詳しい場所説明をそれぞれに付記する。
 資料図は、黒木町教育委員会「郷土の文化財 改訂第一集」昭和63年発行の102〜103頁を参照。  

(写真 1〜 5)  矢部村の里塚石(十二里) やべ
八女市 (蚪道)<矢部街道> 一里石(自然石) 1630年代以降? WEB 移設? (正面)「柳川より十二里」/「柳河」でなく「柳川」と標記/「十一石」までと全く形態が異なる→より後年の可能性 2 C
 ・国道442号日向神ダムの西園橋から県道801号に入り、少し行って右山手の蚪道集落への道を上がる。集落先に十二里石がある。方角的には、ダム鶴橋真上の南山側あたり。

(写真 6〜10)  矢部村の里塚石(十三里) やべ
八女市 (所野)<矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB 原位置? (正面)「柳川より十三里」/同上 1 C
 ・国道442号日向神ダムの最上流部。国道が対岸へ渡る橋の手前にそば処大駐車場がある。右手に入ると荘巌寺前に十三里石がある。こちらが旧矢部街道。

(写真11〜17)  矢部村の里塚石(十四里) やべ
八女市 (虎伏木)<矢部街道> 一里石(粗く整形) 1630年代以降? WEB 原位置? (正面)「柳川より十四里」/同上 1 C
 ・国道442号八女市矢部支所前からなお進む。紫庵バス停を過ぎ左からの川沿い市道に入る。このあたりが虎伏木。橋の先に案内標識がある。小沢を渡り田の道脇に十四里石がある。

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               黒木町の里塚石(七・九・拾・拾一里)  八女市黒木町土窪ほか

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。所在地図のとおりで、詳しい場所説明は省く。七里石のほかは、国道442号沿い。いずれも黒木町教育委員会の案内板や説明板が、文字が消えかかっているがある。
 資料は、黒木町教育委員会「郷土の文化財 改訂第一集」昭和63年発行の102〜103頁を参照。八里石は河岸に埋没しているという話で、所在不明である。
 
(写真 1〜 4)  黒木町土窪の里塚石(七里) くろぎ、つちくぼ
八女市 <矢部街道> 一里石(道標兼) 1630年代以降? WEB(みさき道人) 移設 (正面)「七里」、(右面)「左 木屋道」/同上/建立年については不明な点が多いので17世紀の道標と言える証拠はない 2 C
・国道442号黒木町田本交差点などから南へ矢部川の橋を渡り、旧矢部街道に出る。西へ戻り天満宮の所は上道を行く。丘上となるあたりの中島宅横角にこの里塚石がある。他は国道沿いでわかりやすい。

(写真 5〜 8)  黒木町木屋の里塚石(九里) くろぎ、こや
八女市 <矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB(みさき道人) 移設→個人宅内 (正面)「九里」/同上 4 C

(写真 9〜12)  黒木町大淵の里塚石(拾里) くろぎ、おおぶち
八女市 <矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB(みさき道人) 原位置? (正面)「拾里」/同上 1 C

(写真13〜16)  黒木町大淵の里塚石(拾一里) くろぎ、おおぶち
八女市 (上月足)<矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB(みさき道人) 原位置? (正面)「拾一里」/同上 1 C

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                        第二大行司橋梁  東峰村宝珠山

 HP「土木遺産in九州」による説明は、次のとおり。県道52号の東峰村宝珠山馬場あたりから見た「第二大行司橋梁」(松尾の眼鏡橋)。

くりきの・だいにだいぎょうじ・ほうじゅやまきょうりょう
栗木野・第二大行司・宝珠山橋梁        福岡県東峰村

所在地・完成年等
●所在地:福岡県朝倉郡東峰村、JR日田彦山線
●完成年:1938年(昭和13年)
●設計者:不明
●施工者:不明
●管理者:JR九州
●文化財指定等:経済産業省近代化産業遺産(宝珠山橋梁)

施設の形式・諸元
【栗木野橋梁】橋長:71.20m 径間:14.00m(5連)
【第二大行司橋梁】橋長:54.90m 径間:14.00m(4連)
【宝珠山橋梁】橋長:79.20m 径間:14.00m(5連)
●形式:無筋コンクリート充腹アーチ

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
 これら橋梁群は、大肥川と分岐する宝珠山川と平行に走るJR日田彦山線に架かる橋群で、昭和13年に完成した橋梁です。大行司から次の筑前岩屋までの間には、3ヶ所にコンクリート多連アーチ橋があります。
 地元では、「めがね橋」と呼ばれ親しまれ、イベントなども開催されています。沿線には、日本の棚田百選にも選ばれた竹の棚田や、棚田親水公園などがあり、懐かしい九州の風景を楽しむことができます。

交通アクセス
 大分自動車道 日田ICより車で約15分

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