みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

              うきは市筑後吉井重要伝統的建造物群保存地区  うきは市吉井町

 国文化財等データベースによる説明は、次のとおり。国道210号うきは市上町交差点などから北へ入る。「白壁通り」などとなっている。

重要伝統的建造物群保存地区
主情報
名称: うきは市筑後吉井
ふりがな: うきはしちくごよしい
種別1: 在郷町
種別2:
面積: 20.7
その他参考となるべき事項:
告示番号:
選定年月日: 1996.12.10(平成8.12.10)
追加年月日:
選定基準1: (三)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
選定基準2:
選定基準3:
所在地: 福岡県うきは市

解説文: 久留米と日田を結ぶ豊後街道の宿場町で、江戸時代後半は筑後地方の経済の中心的役割を担う在郷町に発展した。明治2年の大火後塗家造が普及し、豊後街道沿いの塗家造の町家群とその北側に広がる屋敷群、吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路が一体となって歴史的風致を形成する。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

                 鏡田屋敷(旧籠田家)と清光禅寺  うきは市吉井町若宮

 うきは市HPの「歴史・伝統文化」などによる説明は、次のとおり。国道210号うきは市上吉井交差点などから北へ入ると、南新川沿いに「鏡田屋敷」がある。後ろ写真6〜7が、近くの清光禅寺。

      鏡田屋敷

 鏡田屋敷(旧籠田家)は、吉井町若宮字鏡田に位置する屋敷型建造物である。
 この建物は、幕末から明治初期に建てられ、その後、座敷と2階の増築は明治26年頃と思われる。当初郡役所の官舎として建てられたといわれ、明治後期に郵便局長を務めた佐藤氏が居住し、その後、昭和初期に籠田氏が居住した。
 敷地の形状は方形をなし、北側には1間幅の才の木溝が流れ、屋敷と道路とを隔てる。
 屋敷のほぼ中央を占める主屋は入母屋造り桟瓦葺き平入りであるが、正面に小さな破風を覗かせる。主屋の西側には付属屋が配され、屋敷地の角に土蔵が配され、北西隅の土蔵との間は玄関へのアプロ-チ、北東隅の土蔵との間は庭園となっている。主屋の東側から南側にかけて水路を引き込んだ池をもつ庭園が広がる。庭園に面した座敷は明治後期の増築で2階の居室を収めた大屋根を架けて建設された。当初の平面は明確でないが、北側に土間を設け南側に居室を設けた小規模の建物であったようだ。主屋小屋組は、居室上部が梁間3間半の2重梁、土間上部が1間半の下屋を組み合わせて、吉井では古めかしい構造である。北東隅の土蔵は、現在、尾花家住宅として利用され、平入り入母屋造りの鍵屋で、背面の一部を取り壊したが、当初は正面の直屋のみで、正面腰壁の海鼠壁も当初は堅板貼りであった。棟札によって正面部分は文久3年(1863)の建築、背面部分の増築は明治26年(1893)であることが知れる。
 なお、この建物は、平成3年の台風被害により取り壊すことになっていたが、うきは市吉井町が町並み保存に取り組んでいることに理解をいただき、所有者の佐賀市在住の籠田和徳氏が吉井町に寄付され、平成9年度建設省(現国土交通省)街なみ環境整備事業により修理復元工事を行った。

 開催期日 利用時間  9時から16時30分まで
 休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日から1月3日まで
 場所・所在地 ・所在地 うきは市吉井町若宮113番地1
 ・伝統的建造物番号6-1・6-2・6-3
 問い合わせ先 うきは市教育委員会 生涯学習課 TEL:0943-75-3343 
 備考 見学料  無料
 使用料 (1時間あたり)
  1階 大広間 160円 1階 中広間 110円 1階 広間 60円 2階 中広間 110円
 敷地面積 1,260.79m2
 建物面積  535.75m2

      清光禅寺

 南新川沿いに足をのばすと、うっそうとした樹木と苔の庭が広がる清光禅寺がある。街中の喧噪を忘れる静寂。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

                      南新川と水神社の由来  うきは市吉井町

 現地説明板は、次のとおり。HP「古賀河川図書館」> 碑文が語る筑後川から引用した。現地には国道210号うきは市上吉井交差点などから北に入る。

碑文が語る筑後川(192)

 南新川の由来(五人の庄屋たちの活躍により完成した川)

南新川の由来
碑 銘  南新川の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町
建立日  ――――――
建立者  うきは市吉井町

 筑後川の水は大石・長野の堰の開鑿以来、今では、17.49?/sを取水可能となり、2250haの耕地を潤している。大石堰の取水口から、水は長野神社境内地をサイホンでくぐり、角間地点において、大きく北幹線、南幹線に分水され、南幹線は南新川を形成する。南新川は主に吉井町内を流れ、素晴らしい水景を創りだし、巨瀬川と古川に注ぐ。その南新川の由来が、次のように、建立されている。

  「南新川の由来(五人の庄屋たちの活躍により完成した川)
 この川は、江戸期初頭、旧江南村に住んでいた五人の庄屋たちが思い立ち、この地域の村人と一緒に造り上げた人工の川です。新川が出来る前のこの地域は、周辺の川の水位より土地が高かったため、水が思うように使えませんでした。そのため7、穀物の収穫量も少なく農民の飢えを見兼ねた五人の庄屋たちは、筑後川の水をどうにかして引き入れようと話し合い、ここから10キロ離れた筑後川上流の大石に取水口と西部へ水が流れる用水路を造る工事の嘆願書を久留米の有馬藩に出しました。この嘆願書には「工事の費用は、五人の庄屋が全部受け持ち決してお上にはご迷惑をかけませぬ。」と書かれていました。
 1664年1月11日に工事が始まり長野村の入り口には五人り「はりつけ台」が建てられ、これを見た人々は「五庄屋どんを殺すな」とばかりに老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、約2ケ月という短い期間で人工の川(南新川)が完成しました。南新川とうきは市の北部を流れる北新川は、西部の田畑を潤します。新川は田畑だけでなく、その水源を利用した水車や唐臼が造られ、精米、製粉、また製麺、酒造、櫨蝋や菜種油等の工業も支えました。それらは久留米と日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えた吉井町の商業にさらなる発展をもたらしました。また、新川の水は吉井町中の小さな用水路としても流れており、人々の防火・生活用水としても活用され続け、今もこの地域を潤しています。」

碑文が語る筑後川(193)

 この川(しん川)の由来

碑 銘  この川(しん川)の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町(吉井小学校校門前)
建立日  −
建立者  −

1664年大石・長野堰が開鑿され、その用水が吉井町を貫流し、南新川と呼ばれている。そのしん川は、吉井小学校の前を流れている。小学生は登・下校の時に、この川を渡っている。校門の前に、その碑が建っている。

  「この川(しん川)の由来
 今から三百年前ほど前の浮羽地方の土地は非常に肥えていましたが、土地が高く水に乏しいのでひでりのため作物がみのらず、が死する人がたくさんあってこまっていました。五庄屋はどうかして、これを救おうと思い立ち久留米藩主有馬候に筑後川の水を引き入れる工事を願い出ました。しかし、藩主は工事の容易でないことを思われて、なかなかおゆるしになりませんでした。
 そこで、五庄屋は死を決して嘆願し「もし事が成就しなかった時は、私共五人をお仕置きください。」と申し出ました。そこで長野の土手に五つのはりつけ台が立てられ工事が始まりました。郡内の人は、なさけ深い五人の庄屋を殺してなるものかと昼夜一生けんめい働き、女、子どもまで手伝って木や石をはこび、こんなりっぱな川ができました。
 それまでは、水が少なく作物がとれなかったこの地方もこの川の水のおかげでどんなひでりの年でも田うえができ、収穫の多い土地になりました。これは五人の庄屋と村人たちが心を合わせ必死になって力を盡したからです。これから二キロメートルばかり東の方に五庄屋をおまつりした長野水神社があります。その又二キロメートルばかり東の方に筑後川の大石堰があり、そこからこの川の水を引いています。」

碑文が語る筑後川(194)

 水神社の由来

碑 銘  水神社の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町
建立日  −
建立者  うきは市教育委員会

うきは市吉井町には、大石・長野堰から筑後川の水が引かれ、その水は南新川を造りだした。その南新川の流れは、素晴らしい親水空間を創りだしている。南新川のほとりに水神社が建っている。

  「水神社の由来
 この水神社は、吉井町で最も小さい九尺二間の拝殿と、奥の神殿は石祠という昔ながらの素朴なたたずまいですが、吉井町を東西に貫通する用水路(南新川)の要に位置する大切な川の神様で、日々の暮らしや生産流通に深く関わって、長く地域の人々の尊崇を集めてきました。
 水神社を包むように流れる水路が掘られたのは、三百年以上も昔。当初は灌漑用でしたが、すぐ生活用水にも利用され、防火用や水上運輸にも重宝されました。やがて、水車を回して新しい動力エネルギー源となり、数々の新興産業を育てては、吉井町の富と文化を生み出してきました。その一方では、恐ろしい水害や悲しい水の事故をも齎しました。
 人々は川に感謝し、川を恐れ、川と大事にふれあうことの大切さを知り、それを形に表すため、この水神社を祀って天保十三年(一八四二)秋に建立したと伝えられています。この一帯の地名を「金川」といいますが、「金を生み出す川」から、名づけられたという説もあります。    うきは市教育委員会 」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

                       志波村控石  朝倉市杷木町久喜宮

 HP「筑前 国境石散歩」その他の筑後境国境石による説明は、次のとおり。国道386号原鶴温泉入口交差点先の「道の駅 原鶴 ファームステーション”バサロ”」東隣り民間会社前庭に道路側を向いてある。

      志波村控石

文 字
 不明 
 不明
 志 波 村 抱
場 所
 志波村(現朝倉市)にあった石であることは間違いないのですが、どこにあったものかは不明だそうです。
 旧杷木町(朝倉市)は豊後と筑後に接していましたが、志波村は筑後境側です。
 現在は、朝倉市(旧杷木町)の民間の会社の前庭にあります。
備 考
 控石だと思います。
 肝心な2面が読めません。いつも思うのですが、家に帰って画像でみると読めそうなんですが…

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

                         山田堰水神社の大クス  朝倉市恵蘇宿

 現地説明板は、次のとおり。国道386号が杷木町へ入る手前、恵蘇宿バス停近くに山田堰水神社はある。後ろの写真は、国道対面の恵蘇八幡宮の大クス。

    県指定天然記念物  水神社の大樟
    県指定 昭和38年1月16日  所在地 朝倉郡朝倉町大字恵蘇宿
 朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮と国道をはさんで反対の筑後川よりの本流から山田大堰による堀川への水取口水路の上に祀られている水神社の境内、社殿右側に聳立した老樟樹である。
 この樟は社殿建築の際、約2m程度埋め立てられたもので、恵蘇八幡宮の樟に匹敵するものと思われる。
   胸高幹囲 8.2m  樹高  21m
 枝張り東西南北それぞれ16、7mで勢力旺盛な樟樹である。
            福岡県教育委員会

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
みさき/michito
みさき/michito
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事