みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                   弁天檪(鞍掛け檪)  産山村大字大利字北向 

 現地説明板は、次のとおり。県道216号により産山村大利へ向かう。南部公民館手前まで行くと、ここに車道入口があり、「弁天坂の石畳」まですぐ行ける。石畳道を下ったカーブのところから山道をしばらく行くと、「弁天檪(鞍掛け檪)」に着く。
 関連情報サイト「老樹名木が語る『ふるさとの自然・歴史・暮らし』」第332号も参照。
   http://www.kininaru-k.jp/bns/back_doc/11082007/roujyu.html

      日本一の大檪 (鞍掛け檪)

 樹高20m、枝張東西10m・南北13m、樹径0.91m、幹囲2.9m、樹齢推定630年
由来
 七福神は福徳賦与の神として知られ、その中の弁財天は美女の形容詞で、弁天様と言われ親しまれている。弁財天が山鹿の祠に帰る途中の坂が急で、乗っていた鞍が牛の首まで下がったため、道の傍にあるこの檪の枝に鞍をかけて休息したことから、鞍掛け檪といい、その坂道を弁天坂と呼ぶようになった。この檪には母を思わせる豊かな両の乳房に似た瘤があり、これを弁天の垂乳という。
 昔、旅人が精根尽きてこの木の下に眠っていると、優しい母の懐に抱かれ乳を飲む夢を見ていた。朝の光に目が覚めると檪の落ち葉が蒲団のように体を包み、垂乳から露が雫となり口に流れていた。檪の精を吸った旅人は、体力を回復して、再び旅を続けたという。以来、女性はこの瘤にさわると乳を授かると伝えられ、今日に至っている。
 注  檪は、ぶな科で全国に分布し椎茸原木、薪炭材として利用されている。この檪の大きさ樹齢とも日本一といわれ、産山村の材木にも選定されている。古名を「ツルバミ」と呼び染料に用いた万葉植物の1つ、万葉集巻十二のなかに「つるばみの、一重衣のうらもなく、あるらむ子ゆえ、恋ひわたるかも」と詠まれている。
                     産山村教育委員会

 説明板の「日本一」というのは、どうかと思われる。「櫟」は「クヌギ」だろう。「巨樹を調べる:環境省 - いきものログ - 生物多様性センター」によると、幹囲3m以上のクヌギの巨樹は、全国で18本が報告されている。

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                        弁天坂の石畳  産山村大利・片俣

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道216号により産山村へ向かう。水恩碑や大利石畳道路のあるところから豊後街道に入るが、弁天坂の石畳までは、まだ歩いて1.2kmある。そのまま県道を進み、南部公民館手前まで行くと、ここに車道入口があり、「弁天坂の石畳」まですぐ行ける。

      弁天坂の石畳 べんてんざか
(阿蘇)産山村 <豊後街道> 石畳道 長80m,幅2.5m 文化8(1811) 村史跡 村教委 火山灰土のため何度も普請/昭和59から5年かけて復元整備 施主:惣庄屋・久住善兵衡/「弁天様が牛に乗って下られたので弁天坂と呼ばれる」との伝承 2 -

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               十五里塚・茶沸場跡・へき谷の道標  阿蘇市波野大字小地野

 HP「旧街道ウオーキング 人力」豊後街道を歩くによる説明は、次のとおり。

      宮地〜坂梨〜久住
 …笹倉に入り、57号線が右に大きくカーブしているところで、左側民家の塀の横に「参勤交代道石畳」と「豊後街道/歴史の道」の標柱が並んで立っているので、ここから左折して進む。
 
 ここはきれいに整備された道で杉林の中、木漏れ日の中を歩いていく。気持ちがいい道だ。
 左手に「十五里塚」の案内板が立っている。

 その先、やはり左手に「茶沸場跡」の案内板が立っている。参勤交代の道路の途中に何ヶ所かの休憩所として茶屋があり、昔からこの地を茶沸場と呼んでいたのは、茶を沸かして飲んだという言い伝えがあるからと思われると説明されている。

 「ヘキ谷の道標」がある。「前 熊本 鶴崎道」「ひだり ならきの なんこう」「明治元戌辰十二月建 播州龍埜 准南堂碧松」と刻まれており、「熊本城から61.5km、鶴崎港より62.5km」と書かれている。ほぼ豊後街道の中間点まできたということだ。…

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                        笹倉の石畳  阿蘇市波野大字小地野

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号により笹倉交差点先の集落外れまで行くと、左へ入る豊後街道の旧道に「参勤交代の道石畳」説明板がある。石畳はあまりはっきりわからないが、アスファルト舗装の左側部分にわずかの幅の石畳跡が確認できる。

      笹倉の石畳 ささくら
阿蘇市 <豊後街道> 石畳道 長約10m,幅1.8m 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道・豊後街道p.131 復元 街道上に残存した敷石を集めて復元したもの 4 -

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                     坂ノ上お駕籠据場  阿蘇市一の宮町中坂梨

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。一の宮町中心部から国道57号により滝室坂上の坂の上バス停まで行くと、4〜5軒の集落がある。「坂ノ上お駕籠据場」とは、このあたりの豊後街道の道筋であろう。

 調べると坂の上バス停手前約600mの写真の場所に,「参勤交代道」と「カヲの墓」の案内板があった。この説明板に「参勤交代の時、この場所は駕籠を置き、「坂梨手永」と「久住手永」の人足交代の場所でもあり休息の場所となった。休憩中の殿様にお茶を献じたといわれる美人の「カヲ」に殿様が恋をしたという話が残っており、その墓標がこの奥に建てられている」と説明されていることがわかった。
 「カヲ」の墓碑までは、ここから約200m奥へ歩く。

      坂ノ上お駕籠据場 さかのうえ、おかごすえば
阿蘇市 <豊後街道> 駕籠据場 江戸期 市教委/歴史の道・豊後街道p.128 藩主休憩所で、人夫交換の場でもあった/道の一部が広くなっている 3 C

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