みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

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                      アダドゥーナー(安多手井)  石垣市宮良

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号宮良西バス停の少し先から、南側の市道に入り下って行くと、「アダドゥーナー」の史跡説明板がある。
 洞穴湧水を再建時に丸い井戸状にしたのではないか。井戸の中までは確認忘れ。

      アダドゥーナー(安多手井)
石垣市 (石垣島) 下又屋敷遺跡 洞井(湧水) 深12m(斜道21m) 18世紀後半以前 市史跡 現地解説板/WEB 現在は放置状態(ゴミも) 1771年の明和大津波で埋没(それ以前から存在)→再建/40段の石段で洞内に降りていく洞窟湧水(ウリカー) 3 B

 現地説明板は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。

      アダドゥーナー  石垣市史跡  昭和55年10月31日指定
 この井戸は人と水とのかかわりを知るうえで大切な遺跡である。宮良むらの由緒あるウリカー(降り井戸)として、昔から人びとの信仰を集めている。ウリカーとは、直接水面まで降りて水を汲む井戸のことで、傾斜する降り道には40段の石段が設けられている。
 「八重山旧記」に「安多手井」と記されているこのアダドゥーナーは、宮良むらの歴史とかかわりの深い「下又屋敷遺跡」(しいむぬかくいせき)の内にあって、下の村創設のころ、神に願立てして水脈を掘りあてたという伝承がある。以来、神の水として崇信され、共同井戸としても広く利用されてきた。
 近年は各自の井戸や貯水タンクが普及したことや、上水道が敷設されたことにより、共同井戸としての利用はなくなったが、アダドゥー願いは今でも続けられている。
 また、周辺には外本御嶽があり、磁器や陶器、鉄滓などの遺物も出土している。井戸の深さは12m、斜道21mである。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
      昭和62年10月  石垣市教育委員会

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                     明和大津波遭難者慰霊之塔  石垣市宮良

 現地碑文は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。国道390号宮良橋を渡り左折して、老人ホームなごみの里の先まで行くと、右手高台に上がる「明和大津波遭難者慰霊之塔」の案内標識がある。慰霊之塔は、1枚目写真の岩の後ろ側に建立されているから、岩の左から回り込んで下る。

      16.明和大津波遭難者慰霊之塔
碑 文
 八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち たちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
 津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半潰あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
 こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作 飢饉 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし その影響はまことに計り難いものがあった この天災から二一二年 狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
 一九八三年(昭和五八)四月二四日
 明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

※ 「古記録大波之時各村之形行書」は、「おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ」と読みます。

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                           ちびすく石  石垣市宮良

 HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。国道390号宮良橋を渡って左折し100m程度行った右手の畑の中に「ちびすく石」という津波石があるらしい。HP写真には、石がはっきり写っている。
 私が現地を訪ね撮影した場所(ズームできる)と同じと思われるが、すでに石全体が木立に覆われ木立も伸びて、背景の赤屋根の建物(老人ホームなごみの里の施設か?)も見えず、HP写真と合致するかどうかわからないが、一応、紹介しておく。畑の奥まで入り、石面を良く確認するべきだった。

      ちびすく石
 宮良川に架かる宮良橋の北東にある津波石です。宮良川を遡った津波によって打ち上げられたと伝えられています。
 「ちびすく石」は市街地から北上し、宮良橋を渡って左折し100m程度行った右手の畑の中にあります。「ちびすく石」はこのように、畑の中にあります。

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                   宮良川のヒルギ林・宮良橋頌徳碑  石垣市宮良

 現地説明板は、次のとおり。国道390号宮良橋の橋上から「宮良川のヒルギ林」は一望できるが、橋手前右側の駐車場から下に降りると、説明板がある。

      天然記念物 宮良川のヒルギ林  昭和47年5月15日指定
「宮良川のヒルギ林」は宮良川の河口から上流の両岸1,500mにわたって発達し、その面積225haで、メヒルギ、オヒルギそしてヤエヤマヒルギなどの種類を中心としたヒルギの大群落であります。
 また、指定地内には前記の種以外にハマナツメ、カカツガユ、ヒメガマ、オキナワシャリンバイ、サルカケミカン、アダンなどもみられます。
 ヒルギ林は熱帯から台湾、沖縄を経て鹿児島県まで分布し、海岸や河口などの泥地に成林する特異的な群落です。
 本地域は石垣島の代表的なヒルギ林として指定してあります。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。     文 部 省・沖 縄 県

 橋を渡ったバス停のところに宮良橋「頌徳碑」がある。HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、概略は次のとおり。

      15. 宮良橋頌徳碑  宮良
 宮良川の河口付近には、17世紀中頃から交通の要として架橋が行われてきました。当初は石積みの橋で、架設に重要な役割を果たした人物として、元宮良頭職・宮良長重の名が伝えられています。その後、石積みの橋は木橋に架け替えられますが、以降、何度も災害で破壊され、その度に補修、架橋建設が繰り返されてきました。しかし、明和の大津波(1771年)で破壊された後は橋が架けられる事は無く、人々は干潮時を見計らって浅瀬を伝って渡るなど不便を余儀なくされたそうです。
 明治を迎える7年ほど前に、禁制の真宗の信徒であるとして今帰仁から無期流罪を言い渡され、石垣島に流刑され真栄里に滞在していた「仲尾次政隆」が私財を投げ打って木橋を架けました。しかし、その翌年、台風によって破壊された為、再度、私財を投じ架橋を復興させました。島人と蔵元役人は仲尾次氏の赦免請願書を王府に提出、その功績により1864年に赦免されたということです。人びとは橋の完成を喜び「宮良川節」という民謡を作り仲尾次氏を称えました。
 宮良橋が鉄筋コンクリート製になったのは昭和8年です。同工事の竣工祝賀式典は同10年に行なわれ、その際には、架橋の沿革などを刻んだ「頌徳碑」が橋畔に建立されました。
 現在の橋は、1997(平成9)年に架けられたものです。

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               とふりやの高こるせ石・津口北の端の高こるせ石  石垣市大浜

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。国道390号沿い大浜公民館から国道をしばらく下る。右側に牧場があり、この手前の農道を奥へ進む。牧場ブロック塀のところに「とふりやの高こるせ石」がある(写真1〜7)。
 あと1つの「津口北の端の高こるせ石」は、国道をもう少し進む。右に大浜海岸展望所があり、ここから沖合を眺めると、はるか彼方の海上に見えるのが「津口北の端の高こるせ石」のようである。ズームでも良く写せなかった。国道先の橋際から海岸へ出ても、この津波石は沖合に見える(写真8〜12)。

      とふりやの高こるせ石
石垣市 (石垣島) とふりや 津波石 1771年 国天然 WEB 牧場の一角にブロック塀や石積みの延長として使用→外側からのみ見学可 明和の大地震の前後に島で起きた不思議な現象を記録した『奇妙変異記』に記載/津波大石と違い明和の大津波によるもの 3 C

 HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

      高こるせ石(たかこるせいし)
 石垣島南東部の大浜(沖縄県石垣市字大浜船着原)の国道390号線に面した個人牧場と畑地の境界にある津波石です。2,000年前の先島津波でコルセ御嶽(黒石御嶽)に運ばれていた石が、1771年の明和の大津波で再び北方に約600m移動したものと考えられています。大中小の3つに分かれており、合計推定重量は約700トン。「奇妙変異記」には、元々、コルセ御嶽の中に2つの石が並んでいたものが、津波で流されてひとつが畑地(「とふりや」という所)に、もうひとつが沖合にそれぞれ移動したと記録されています。

 畑地の石は「とふりやの高こるせ石」と呼ばれ、沖合の石は「津口北の端の高こるせ石」と呼ばれています。今回指定を受けたのは、畑地の「とふりやの高こるせ石」の方です。
 この津波石は、現在、牧場のブロック塀や石積みの延長上(南側)として利用されています。塀の外側からの見学ができますが、牛がいたり農作物の栽培が行われていたりしますので注意して下さい。
 「とふりやの高こるせ石」は牧場の南端に位置しています。沖合中央にあるのが「津口北の端の高こるせ石」です。

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