みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の珍しい標石

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         風頭山の「晧境目」石と烽火山「亀石」下の石  長崎市風頭町ほか

 ブログ「歩いて自然を満喫しょう!」宮さんが、本年1月発見した石2つ。画像は宮さん撮影ほか。
 風頭公園のは、山頂から龍馬像の方へ手すりの坂段を下る。中間ほど右方5mのところの平たい自然石面に「晧境目」?と大きく刻んでいる。寺町「晧台寺」の古い境界石と思われる。

 烽火山のは、山頂すぐ近く「亀石」の手前の石に、何か文字を刻んでいるという。苔をきれいにするとたぶん文字が出てくると思うのですが…のメール。「亀石」の正体がはっきりするかも知れない。近々、確認に行きたい。
 烽火山「亀石」は、次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/15733402.html

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              鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

 この稿は、研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。前記事(1)の参考として紹介する。関係資料は略。
 写真は、鍋冠山展望台の山頂三角点169.3m、山頂北北西側斜面の採石跡と上人像など。

            7 星取山の観測拠点「囲い石」と鍋冠山の「測点」はどこに
           明治初期、アメリカ隊金星観測と地理局緯度電信測量測点を見る

(1)アメリカ隊の金星観測―星取山  掲載略

(2)地理局経度電信測量―鍋冠山

 星取山の先の碑から山道を下ると鍋冠山へ行ける。次はこの鍋冠山にあった不思議な標石の話である。明治12年から13年にかけて、内務省地理局が鍋冠山と東京赤阪旧天文台との間に経差を電信測量した。山頂あたりの測点の場所に標石が建てられた。『方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた』というのである。

 これは、大正5年4月発行日本天文学会「天文月報」第九巻第1号に、田代庄三郎氏が「長崎に於ける経度電信測量の測点」として鍋冠山の測点を次のとおり報告している。
 『明治四十三年報時球建設の当時経度を定める必要から、先第一に此山の測点を捜索したが分らなかった。爾来四閲年漸く昨今に至つて、其の標石だけを発見することを得た。其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ッに折れて横つてあつた。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた。勿論標石のあつた所に立てゝあつたのではないことは明白である。…』

 田代庄三郎氏とは、鍋冠山の中腹に当時できた長崎報時観測所の所長である。同氏の報告は、金比羅山の煉瓦台再発見につながった重要な記録として、原口先生の報告書に表れている。
 『(地元の方や伊原市議から)その話を聞きながら、記念碑からの方角や発見されたときの状況等をお尋ねした。そして、“それはまぎれもなく探し求めていた観測用の台であろう”という確信を持つにいたった。この煉瓦台については、大正5年に田代庄三郎氏が「天文月報」に次のように報告している。
 「この碑を去る東十五間の所に、長さ二寸一尺、幅一尺九寸、高さ一尺六寸の煉瓦で築き上げた頗る丈夫な台がある。多分此の上に携帯用子午儀でも据付けて、時の観測をやったものであろふ」
田代庄三郎(1916):「長崎金刀比羅山金星経過観測記念碑」、天文月報8,3月号,P.141』

 内務省地理局が実施した三角測量と経度調査については、原口先生の報告書215〜216頁に地理局年報・報告書などを資料として詳しい説明がある。ところが、田代氏が存在を発見し大正5年記している鍋冠山の明治12年「天象観測指点」標石のその後は、何もふれられてない。
このため、私は困ってしまった。
 
 実は、この鍋冠山測点の田代氏稿「天文月報」掲載資料は、京都市上西氏から送っていただいたものである。天門峰と魚見岳の「地理局測点」を照会した「訪ねてみたい地図測量史跡」著者山岡光治氏が、長崎に寄こすかも知れないと言った知人が上西氏であった。長崎来訪を打ち合わせ資料を貰い、来訪は2月下旬実現した。21日午後到着し、天門峰・魚見岳・大久保山・八郎岳、翌22日は昼過ぎまで、金比羅山・星取山・鍋冠山を案内した。

 さて鍋冠山の明治12年「天象観測指点」の標石である。山頂より北北西の急斜面でやや下った所とあり、巌岩の山で採石の跡とも表現がある。鍋冠山はそのとおりの山であった。昨年秋から展望公園として再整備完成して一変していた。標石は見当たらない。洞穴の採石跡と苔むした柱状節理の岩間に上人像があった。
 上西氏のするどい観察は、山頂三角点に少し離れた場所に建ててある高さが人の肩ほど、台座のある石祠である。屋根を乗せていたが常夜灯の形をしており、屋根を外せば「子午機」を据えられる薄い平板の石が間にあった。仙台でそんなものを見たと言う。だが、石に連名の刻字は大正十五年のようだ。方位の刻みがないか、石は重くて外して見ることはできなかった。
 上西氏は原口先生を一度お尋ねしたいと思われた。「天象観測指点」の標石のその後に関し記録や知っている人がいれば教えてほしい。

 東山手町の「誠孝院」の入口を通り、「みさき道」は石橋へ下る。「誠孝院は、寛保3年(1743)誠孝院日健が創建。日健は岡山の人で、鍋冠山の山中で日親上人像を発見、大村因幡守純保に大浦(現大浦相生町)の地を懇請、小庵を建てたという。文化6年(1809)以降、長崎異変の際の大村藩の陣屋とされた。昭和初年、寺域狭隘のため、澤山精八郎の寄付により現在地に移転した」(長崎市立博物館刊「長崎の史跡」)

 田代氏稿は、五で鼠島及び三菱造船所第三ドック附近にあった海図経緯度基点についてもふれられている。「小さい島や小区域ではあるが目標となるべきものも存在しておらぬ」結果だった。
 鼠島については、陸軍省第一地帯標石がないかとも小瀬戸で聞いたが、話は聞けなかった。今は陸続きとなり、長崎県がコンテナ基地を造るためさらに埋め立ての計画があるらしい。
 昭和58年平山久敏著「小瀬戸町史跡」はふれてないが、鼠島は黒浜・以下宿で見られる「変はんれい岩」という濃緑色の岩石(県天然記念物)と同類の角閃岩が見られる島である。地元の人は、開発一本やりで後世に残すべき自然や史跡があまりに破壊されつつあることを心配していた。
 三菱造船所身投崎については、国土地理院九州地方測量部が探しておられるが、なにせ構内の入場がむつかしいらしい。

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              鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

 ほしなべ氏HP”長崎遠めがね”の2009年6月26日記事「鍋冠山の測点」は、興味深いからまず参照。 http://hoshinabe.ojaru.jp/276_nabesoku/276.html
 鍋冠山の三角点近くの芝生の中に、一辺が16cmほどの石があり、長崎市史 地誌・名勝編 1938年刊 1967年再刊 p310 には、「明治12年に内務省地理局測量課が 経緯度測量に従事したのはこの(鍋冠山)山上である。今其の遺跡には高さ3尺余りの石柱の一部がある」と書かれているので もしかすると その石柱の「なごり」かもしれませんと、写真付きで紹介している。

 ほしなべ氏が資料としている「天文月報」や「長崎市史」の記録は、京都市に住み近代測量史を研究されている上西先生のサイト”史跡と標石で辿る「日本の測量史」 旧題:三角点の探訪”長崎県の三角点 鍋冠山(下記のとおり)から引用したものと思われる。
  http://uenishi.on.coocan.jp/10lib-sankaku/p420nagasaki.html

 私は、3年前の”長崎遠めがね”鍋冠山記事を見落としていた。上西先生から先日、「つぎのHPで鍋冠山の遺跡に関する記事を見つけました。まだ現地になにかあるようですね」と、メールをいただいた。
 上西先生とは、5年来、懇意にしてもらっている。2006年2月に来崎され、私が天門峰や魚見岳の「地理局測点」など案内し、鍋冠山の標石も先生と探した。写真の場所は先生も見てる。
 鍋冠山のこの時の調査状況は、文字数の制限から次記事(2)とする。研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。

 さて、ほしなべ氏の記事の石だが、きょう宮さんと鍋冠山山頂へ確認に行った。掘り始めるとすぐ動き、石柱ではない。ほしなべ氏には悪いが、単なる平らな石だった。
 鍋冠山へは、2006年2月以後、私は数回通い、山中をだいぶん探した。標石の痕跡は見つけきれなかった。もともと山頂部は柱状節理を成している。石柱に似たような石片が多いが、自然のものばかり。その後、調査はあきらめていた。
 きょうの調査も上西先生へは、残念な報告をしなければならない。何かわからない新しいコンクリート石柱は西斜面に1本あった。


鍋 冠 山 (169.3米 四等 2006/2/22)
点名:戸町
地図:長崎西南部

長崎市大浦天主堂の500メートル南にある丘で全体が公園になっています。長崎の街と長崎港を望める展望台があります。三角点標石の北面には「009 864」の刻字がありました。

1879年(明治12)から翌年にかけ内務省地理局が、この鍋冠山と東京赤坂葵町にあった天文台との経度差を測定しています。しかし現在、その遺跡はなにも残っていませんが公式記録はあります。[内務省地理局測量課:日本全國三角測量報告 天文之部 第貳 明治十四年 長崎、大阪、京都 1881(気象庁蔵)]

其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ツに折れて横つてあった。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象觀測指點」とあり、兩側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあった。 [田代庄三郎:長崎に於ける經度電信測量の測點 天文月報 九巻一號 大正五年四月 日本天文學会 1916 p5]

明治十二年 内務省地理局測量課が經緯度測量に從事したのは此の山上である。今其の遺阯にや高サ三尺餘の石柱の一片がある[長崎市役所:長崎市史 地誌編 名勝 清文堂出版 1938(1967再刊 p310)]

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             井手正兵衛の碑  西海市西海町七釜郷字半助山より下る

 ”字半助山の南側斜面にある水田の先端より100mの所に水路があり、沢と水路が交差した場所に、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と自然石(蛇紋岩)に刻まれた碑がある。約4kmに及ぶ七釜の大井手て呼ばれる水路を作った井手正兵衛の記念碑である。
 当時、七釜の住居地には水源がなかった。井手正兵衛は、柚木川より水路を作り、水田への取水、また郷民の飲料水確保を目的として、水路を作った。現在もこの水路のことを、井手氏の名前を称え、「井手」と呼ぶ。最近まで、水路の補修のため、一軒から一人作業に出ることを「井手轟」と言った。”

 以上は、西海町「西海町郷土誌」平成17年発行の記念碑、宝塔一覧751頁にある碑の写真付き記録である。同郷土誌の農林業457頁にコラムで、次のとおり詳しい記事があった。
 
     七ツ釜の大井手

 県道遠見岳線を登り、字半助山に至る。半助山の南側斜面に、広い水田(913−2)がある。その水田の先端より沢伝いに約100m下ると水路があり、沢と水路が交差した所に「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)がある。
 水路を上流へ約500mさかのぼり、柚木川上流と交わるところが、水路基点である。この基点より水路を等高線ぞいに辿れば、字半助山・ワルカリ・横尾・大迫・平山・石原・立石・山田と経て落保へと至る。大迫の水計(みずはかり)から分岐して伊立浦川の水源となり、岩谷川・山田の奥・伊立浦の水田を潤している。山田から分岐し、大川の川(うーこうの川)の水源となり、山田・大川新田を潤している。

 さらに余水は住民の飲料水として最近まで使用されていた。七ツ釜の住居街には現在もほとんど水源が見当たらない。井手正兵衛は、主に飲料水確保のため水路を計画したように思われる。
 水路の長さは約4km。幅は上流が約1m。下流に行くにつれて狭くなる。高さはまちまちである。現在、この水路を、井手氏を讃え、「井手」と呼ぶ。最近まで、一軒につき一人が水路の補修に参加することを「井手轟」と呼んだ。

 さて、「大井手」を築いた地元の偉大な先賢者、井手正兵衛のこの碑はどこにあるのだろう。地元や市教育委員会に聞いても、現在は場所をほとんど知る人がいない。郷土誌編纂委員の方を、今さら煩わす訳にはいかず、山奥を1人で探してみることとした。
 「半助山」自体がわからず、市管財課で「七釜郷913−1」の地籍図を取った。航空写真で交付されびっくりした。これから見当付けると、半助山の水田(黄線枠)は、県道122号線と広域基幹林道西彼杵半島線が交差する右方谷間にある。地形図に水田記号がある所である。

 広域林道の七釜トンネル上の先に県道122号線から分岐して、右へ入る林道(九州自然歩道と白岳集落へ出る)がある。高圧線鉄塔37、33号へ行く標識がある。この上の山が「半助山」だろう。山腹を1kmほど進むと右谷間へ下るコンクリート舗装の分岐道があった。水田専用車道で、目指す水田へとすぐ降りた。
 後は郷土誌の記すとおり、水田の先端より沢伝いに約100m下ると、廃用となった水路跡があり、沢と水路が交差した所を探したのだが、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)を見つけきれない。

 沢の石の状況が変わっているのだろう。この倒れている石がそうだとすると、水流で磨耗している。碑があった場所は間違いないと思う。ここよりさらに50mほど沢を下ると、水量の多い柚木川本流と出合った。
 時間をかけて再調査が必要だ。結果がわかり、碑の現在の写真を写せたら、後日報告する。
 最後の写真は、九州自然歩道沿いで白岳集落近く、柚木川上流にある滝。

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         大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標  西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか

 西海市大瀬戸町から県道12号線により大串の方へ向かう。長崎県立西彼杵高校グランド先に西海市立大瀬戸中学校があり、左折してこの道へ入る。1kmほど走ると、右脇に立派な標柱が立っている。
 正面「紫雲山公園登山口」、右面「新四国八十八ヶ所霊場入口」、左面「昭和三十四年四月吉日」と裏面に建立者を刻む。23m角、高さ1.6m。本題はこの石柱ではない。

 ここからまた少し走る。登りきった所が旧街道の変則四差路になって小高い丘が残り、真ん中に方角・集落名を刻む道標の標石が立っている。
 4面に刻面があり、「東 大串」「北 多以良」「西 板ノ浦」「南 かしノ浦」と刻んでいる。19cm角、高さ65cm。小さな標石だが、昔から重要な往還道分岐だったのだろう。このあたりの地名は板浦大抜というようで、瀬戸樫浦郷との境となる。

 ここに標石が残っていることは、地元でも良く知られているようだ。大瀬戸歴史民俗資料館から聞いて訪ねたのだが、同じような標石が実は瀬戸下山郷の往還道にも残っている。
 大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の廃藩置県以後の各村の村勢(1)里程などの503頁を読んでいて気付いた。古い標石の写真があった。詳しい説明はなく「下山の往還道にあった往時の道標」とのみ記している。

 「西 瀬戸」と刻まれ、板浦大抜の標石と刻面が違う。「あった」と過去形のような説明も気になり、瀬戸下山郷へ行ってみた。大瀬戸中学校入口の交差点に戻り、大串方向へ県道12号線をしばらく走ると、「下山」バス停があり、雪浦から羽出川沿いに上がってきた道と合う。
 当時の往還道は、この先少し行った小道である。右へ入ると往還道の分岐があった。郷土誌に写真が載っている標石が、畑の土手に無造作に倒されてあった。

 立てて見ると3面に刻面があり、「西 瀬戸」「北 大串」「南 雪ノ浦」と刻んでいる。18cm角、高さ75cmの標石である。
 放置されているのはもったいない。大瀬戸歴史民俗資料館へ知らせ、立て直しをお願いした。
設置年代はわからない。いずれも明治以前か、明治初期の標石と思われる。


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