みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の珍しい標石

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         西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町

 明治9年(1876)、太政官布達により、国道、県道、里道(町道)の3等級が定められた。
 明治29年(1896)、西彼杵半島を一周する県道に関する議案が県議会ではかられた。明治
32年(1899)、外海県道が開通し、明治38年(1905)、内海県道が開通となった。
 内海線は、面高を基点として長崎まで15里(60km)あり、1里(4km)ごとに石の道標が立てられた。当時の人は、西海町を早朝に出て、夜には長崎に着いたという。

 西海町「西海町郷土誌」平成17年発行495頁の主要道路建設の項で、西海町面高を基点とする西彼杵半島旧明治県道の内海線に「一里標」を建てたことを記している。
 当時の「一里標」がまだ残っているだろうか。
 この項は次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/39550080.html
 2008年6月、西彼町八木原郷に「長崎十二里」と刻んだ一里標を見かけたことを記事にした。

 全国にはいろいろなマニアの人がいる。HP全国「標石図鑑」(現在HPは、都合により閉鎖)で、この標石を最近、長崎県の標石として取り上げてもらったので、詳しく他の「一里標」の存在を調べることとした。
 西彼町「西彼町郷土誌」平成15年発行316頁に「旧県道の一里塚」として、西彼町に5本の一里塚が建てられたことを記している。
 標石なので、正しくは「一里標」。長崎への距離に応じて「九里標」「十五里標」などと刻んだものもある。以下、「一里標」として説明する。同郷土誌説明は次のとおり。

   旧県道の一里塚
 明治38年(1905)完成の長崎〜面高間の内海県道には、一里塚が設けられた。当町域にも
5ヵ所に一里塚が建てられたが、その後の道路改修などのため、今ではその形をとどめていない。当時の旅人はこれを旅程のめやすとして、近くの木陰などで休息を取っていたのであろう。

 同314頁には、西彼町の当時の「往還図」がある。西彼町で別にわかったのは、上岳郷山中バス停にある標石である。「面高へ六里二分」と刻んでいるから、316頁の標石である。標石は新しく見え、今までバス停傍らになかったと思う。あったら以前に気付いたはずである。どこかに展示していて最近、移設されたものと思われる。
 西彼町の外の3本、鳥加郷よしのドライブイン付近、平山郷大串小学校下、八木原郷皆割石は、所在が今のところわからない。

 基点の面高に戻って、西海町域の旧県道標石を探してみる。大瀬戸歴史民俗資料館に前お勤めの江越先生が知っておられた。西海市西海公民館の正門右に「十五里標」、隣の西海市西海歴史民俗資料館3階に展示品の「十四里標」がある。
 あと1本は、大瀬戸町多以良内郷にある。多以良から行くとトトロのある「柳口」バス停から右の旧県道の道へ入る。西海町七釜郷へ出る中間位の道目木という集落に「一里標」が現存する。この標石は、外海線の旧県道標石と思われる。外海線にも一里標が建てられていたのだ。数回通った道なのに覚えがなかった。
 外海線については、西海市立西海南小学校下、板浦トンネル上の斎場下、西海市役所神社側駐車場あたりの旧県道だった道にも、標石があったと地元の人などに聞いているが、今はないようである。

 以上、現在までの調査により判明した西海市西彼町・西海町・大瀬戸町関係の「一里標」標石5本を、写真によって紹介する。所在地・刻面・寸法は次のとおり。移設されたものもある。

 写真  1〜  2  西彼町郷土誌掲載の「旧県道の一里塚」及び当時の「往還図」

 写真  3〜  5  西彼町上岳郷 山中バス停付近
  正面「九里標」   右面「面高ヘ六里二分」 左面「長崎へ九里」 裏面「長崎縣」
  18cm角  高さ1m

 写真  6〜  8  西彼町八木原郷 JA長崎せいひ大串支店先
  正面「一里標」   右面「面高ヘ三里二分」 左面「長崎ヘ十二里」 裏面「長崎縣」
  18cm角  高さ1.1m

 写真  9〜 11  西海町黒口郷 西海市西海公民館正門右
  正面「十五里標」 右面「長崎ヘ十五里」 左面「面高へ二分」 裏面「長崎縣」
  17cm角  高さ0.9m

 写真 12〜 14  西海町黒口郷 西海市西海歴史民俗資料館 3階展示品
  正面「十四里標」 右面「面高ヘ一里二分」 左面「長崎へ十四里」 裏面「長崎縣」
  17cm角  高さ0.9m

 写真 15〜 17  大瀬戸町多以良内郷 道目木集落
  正面「一里標」   右面「面高ヘ四里八分」 左面「瀬戸へ二里」 裏面「長崎縣」
  18cm角  高さ1m

 写真 18       基点?の西海町面高港
  外海に面した面高港は、天然の良港である。岬の海岸線は屈曲し、奥行1000m・幅500mの湾内は、台風時の避難港として早くから知られていた。陸路においても、長崎市から西彼杵半島の県道終点であった。旅館や遊郭が立ち並ぶなど、町は海陸共に交通の要所として繁栄した。(西海町郷土誌5頁)   

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               島原街道の田結にある道案内標石  諌早市飯盛町里

 長崎学さるく行事で5月31日、島原街道を矢上から江の浦まで歩いた。講師の諌早市郷土館織田先生が教えてくれた標石。国道251号線は、東田結交差点で池下・大門を回ってきたもう一方の国道と合い、カーブして田結川を渡る。
 川の国道ガード下にかがんで通る小橋がある。この小橋の道が昔の島原街道となる。渡ってコンクリート舗装した里道を登って行くと、すぐの三叉路に道案内の標石が立っていた。

 正面「←江ノ浦 有喜 島原 諫早、→戸石 矢上 長崎方面」、右側面「→西明寺ヲ経テ江ノ浦 船津」、左側面「寺平青年団」の刻み。14cm角、高さ55cmの標柱。年代の刻みはない。新しい感じがする。先生の話では大正時代のものでなかろうかということ。
 この小道をまっすぐ登ると、国道から中村三郎の歌碑がある西明寺へ上がる車道にいったん出た。だからこのあたりの地名は寺平であろう。島原街道は2つある現在の飯盛トンネル上へと登って行った。

 青年団が建てた道案内の標石は、長崎市茂木町の河平川谷間に例がある。「戸町ニ至ル」「昭和三年十一月 御大典紀念 河平青年団」。これと似たような造りと彫りで、田結の標石の年代は、やはりこのあたりであろう。

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              三菱長崎造船所「三造」の標石  長崎市岩瀬道町

 長崎の外国人居留地跡標石の項で、長崎クラバー園入口などにあった「三菱用地」の標石写真を載せていたが、これより古いと思われる標石を見かけた。
 場所は長崎市岩瀬道町。三菱重工業(株)長崎造船所本社ビルがある。第三ドックの先に迎賓館「占勝閣」が見える。「岩瀬道」の次の「八軒屋」バス停から現在の県道236号線ができる前の旧道の坂段道に入り、立神へと歩いてみた。

 昭和30年頃までは、車やバスが通う道は飽の浦までで、立神・西泊・木鉢と次々と山越えして歩かなければ、小瀬戸まで行けなかった。陸の孤島といわれた地域で、船が唯一の交通手段だった。今はトンネルができ、神の島も陸続きとなって、この地域は発展を続けている。
 八軒屋バス停から旧道を登りきると、岩瀬道町と東立神町の町境。ちょうど住居表示板に挟まれて、電柱の根元に「三造」と刻んだ標石があった。寸法は16cm角、高さ50cm。
 三菱造船所の古い境界標だろう。現在、ここは民間の住宅地のようだ。

 本造船所の歴史は、日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として出発。幕府から明治政府に管理が移った後、1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後、民営の造船所として、戦後も多数の艦船を建造しているとあった。工部省所管「長崎造船局」時代の1879年(明治12年)に、立神第一ドックがすでに完成している。
 標石の年代を一番古く見積もると、三菱に払い下げがあった1887年(明治20年)ともなろう標石ではないだろうか。

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        明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (3)  長崎市田中町

 明治33年9月などに建てられた矢上村にあった街道(国道・県道)標石が2つ現存していることは、次により紹介している。
 矢上町  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/29315742.html
 東 町  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/46041890.html
 ところが、矢上村の標石があと1本あった。最近、諌早市郷土館の織田先生の話から、田中町中尾にも残っていると教えてもらった。
 明治期の標石だが、今のうちに記録しておく必要がある。先生もその意向である。

 標石は現在、中尾公民館すぐ上の浦山正勝氏が保管されておられる。12月26日同宅を訪れ、見せてもらった。上部が折れ、いささか無残な姿である。
 刻面は次のとおり。寸法は15cm角、高さ73cm。
  正 面  →西 山
  裏 面  ←本河内
  左側面  矢上村中尾
  右側面  明治三十四年八月建

 矢上村の明治34年測図国土地理院旧版地図を末尾に掲げたので、所在場所は地図により確認。刻面から見ると、現在の中尾ダム堰堤近くの川沿いの分岐に、最初はあったと考えられる。
 あるいは大正6年、上流の「鮎帰橋」がアーチ式石橋となったので、その分岐に移された可能性はある。「鮎帰橋」は、次を参照。http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/21576324.html
 「→西 山」とは、田の川内を通る現在の九州自然歩道の道で、木場峠を越えて西山ダムへ出る旧道である。
 「←本河内」とは、中尾から平床を通り木場峠へ出る現在の市道は当時はなく、中尾から中尾峠を越えて、本河内の日見トンネル西口へ出る旧道と思われる。

 中尾ダムは、長崎水害緊急ダム事業として平成12年度完成。ダム底となる標石は、一時、中尾ダムに新しく架かった吊り橋「中尾大橋」脇の石祠のある道脇に移された。
 ところが数年前、車がぶつけたか無残に折れて、放置されていた。標石がこれ以上破損しないよう、浦山氏が見かねて同宅の庭に運び、標石を保管されている。織田先生に報告しておいたそうである。

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            相生地獄坂「(聖?)徳太子上リ道」の標石  長崎市相生町

 長崎は坂の街。高台にも家が密集し、各所に「地獄坂」と名をつけた坂が多くある。大浦地区の「相生地獄坂」は、石橋電停からジョイフルサンの角を行った奥左の急な坂段道。長崎グラバー園の最上部、第2ゲートへ出る。
 少し離れた左側を「長崎グラバースカイロード」の斜高エレベータが上がる。同エレベータは、地獄坂のつらさを解消するためにもできたと思われる。

 「相生地獄坂」の坂段登り口の左電柱脇に、写真のとおりの古い標石があった。正面は上がはげているが「(聖?)徳太子上リ道」、左面に「道路十坪 寄附者…」。
 「(聖?)徳太子」の意味と場所がわからない。
 この道はさらに上に上がると「鍋冠山」(標高169m)山頂に着く。東山手町「冠鍋山誠孝院」(昨日寄ったら、扁額の字は確かにひっくり返っていておもしろかった)から直接行かれる、最も近い道となるようである。この辺りも考えて、調べてみたい標石と思われる。

  (追 記 平成20年12月27日)
 広助氏のHP「広助の丸山歴史散歩」に、次のとおりあるので参照。
 聖徳院跡(しょうとくいん-あと)  白石稲荷神社の北隣にある六角形の塔は聖徳院(六角塔)と呼ばれ、… 鍋冠山の由来は、東山手町にある冠鍋山誠孝院と関係が深く、江戸時代に山のふもとで日親上人(通称:鍋冠日親)の石像が発見したことによります。

 「ほしなべ」氏のコメントにより、12月26日に鍋冠山の六角塔を訪ねた。脇に石塔があり、「聖徳殿建設記念碑」「大正十二年十月 報恩会」と確かに刻まれていた。


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