みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の珍しい標石

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                   茂木町道路元標  長崎市茂木町

 茂木町が長崎市に編入したのは、昭和37年(1962)。長崎市茂木支所は天草ラインフェリーターミナルの前にあるが、旧茂木町役場は、若菜橋の少し上流の右岸にあった。
 現在はその跡地に、茂木商工会館と長崎市消防団第34分団第1部の建物が建っている。

 国道324号線に代わった旧県道沿いの道。消防団前の駐車場隅に「茂木町道路元標」が残る。旧町時代の標石。他に刻みがないので、町が設置したものかや、設置年代はわからない。
 長崎県庁正門脇には、石垣の中に「道路元標」がある。側面に「国道基点」「昭和35年7月 長崎県」。JR道の尾駅を出て、すぐ左の道路沿いには、同じような「県道基点」の標石を見ている。

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                 「水神神社跡」の標石?  長崎市八幡町

 「水神神社」は現在、長崎市本河内町の本河内低部水源池下の道路沿いにある。
 承応元年(1652)渋江公師が開創。最初、出来大工町にあったが、後に炉粕町に、さらに元文4年(1739)八幡町の銭屋川の倉田水樋の水源付近に移転した。
 大正9年(1920)本河内の水源池に近い現在地に移転した(長崎の史跡 南部編)。

 ところで、八幡町当時の「水源神社」とは、どこにあったのだろう。紹介したものがない。古絵図を調べるなり、現在の神社に聞けばわかるだろうが、銭屋川の倉田水樋の水源付近とあるから、とにかく付近を訪ねてみた。
 近くに「水神湯」(後の八幡湯)という銭湯も、昭和50年代まであったので、この場所も確かめたかった。

 「倉田水樋水源跡」の史跡碑は、中島川沿いの伊勢の宮先、「阿弥陀橋」から少し上流の右岸にある。支流の流れ込み(これが水源か)がある角である。
 「倉田水樋水源跡」は次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/43433181.html
 横が駐車場となり、駐車場の裏手へ回ると石祠があった。すぐ近くの住家入口前には、古い標石と立石がある。以前から見かけていたが、標石を今回は良く見て、写真にしてきた。
 上部の刻字が不明、「……社 有地」と読める。

 路地の奥を伝い八幡町本通りへ進むと、また家角と途中の路地に、標石らしい石をあと3個、見た。「八幡町 9」の街区標識下の標石は、最初のと同じである。
 今回はここまで。標石を付近でまとめて見た報告。一帯は古い石垣や石段が残り、標石をただの境界柱で終わらせない雰囲気がある。
 「水神神社跡」がここだとは、まだわからない。「長崎古今集覧 上巻」436頁の同神社には、「荒神堂右 古鎮道寺遺址」のような字を見る。
 現地に近い中尾氏へ、詳しい調査をまた頼んでみたい。「水神湯」も調べ忘れだ。 

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         片淵で見つかった標石―長崎実録大成などに「豊後 臼杵」の記録

 「臼杵陣所」という刻面のある標石が、現在、「片淵3丁目公民館」の建物下に保管されている。標石が見つかったいきさつは、次のとおり。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/45011381.html
 縦15cm、横18cm、高さ45cmの石柱。5年ほど前、公民館左方の道路工事した際、ショベルカーが掘り出した。自治会は長崎市文化財課に報告し、文献調査と保存を願い出たが、はっきりしたことがわからず、公民館前に置いたまま、5年が経っていた。

 2隻のポルトガル船が来航したのは、正保4年(1647)。長崎警備のため出陣した臼杵藩(大分県)が、この辺りの農家などを借り上げ、陣所を構えたものなのか。また、事件後、西日本の諸藩は、長崎に自前の蔵屋敷を設け、聞役を置き、長崎での情報を速やかに入手して、長崎出陣に備えるようになった。
 蔵屋敷を置いた藩は14に上がる。佐賀藩では所領が長崎に隣接していたために、支藩(鹿島支藩)や大身の家臣(諫早領・深堀領)も自らの蔵屋敷を設けていた。

 ほかの小藩も、蔵屋敷や陣所などを置いた可能性がある。当時の事件を思い起こさせる珍しい標石?ということで、近くの西山に住む長崎楽会中尾氏に調査を頼んでいた。「豊後 臼杵」の記録を中尾氏が見つけてくれた。
 「田辺茂啓著 長崎実録大成 正編」と「松浦東渓著 長崎古今集覧 上巻」。いずれも長崎文献叢書にある。関係部分は、上記写しのとおり。
 「異国船来津之節諸家陣所之事」などに、「豊後 臼杵」藩の「用場所」として「長崎村之内馬場郷」の地名が出てくる。

 両文献の記述内容は違う。記録年代はいつか、陣所と用場所の違い、標石との関係などは、今後、専門的な研究に任せるしかない。
 片淵で見つかった貴重な標石「臼杵陣所」が、早くに解明されるよう望みたい。

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            加勢首にあった剣道場−「錬武館」の標石  長崎市現川町

 次は、東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、郷土の誇り40頁にある三浦道場の記録である。
 現川分校は、平成20年4月高城台小学校の開校によって同校の分校となった。裏手の墓地内にあった三浦家の墓や「筆子塚」も、すべて今は茨城県に移されたらしく、見ることはできない。

    49 幕末の矢上現川住 剣術家 三浦助之烝

 幕末現川で道場を開いていた、剣術家三浦助之烝については、現在現川町矢上小学校分校の裏手の墓地内に、三浦助之烝の師匠の石祠が建っている。
 師匠の徳を讃えて碑を建立したものを、一般に「筆子塚」という。師匠は、赤松二郎(次郎)、独歩斎鉄仲と号し、水戸藩浪士、一刀流と神陰流をあわせて、神陰一刀流と称した。
 赤松次郎と矢上との関係は、幕末諫早領公により武術の奨励により、長崎に住んでいた水戸浪士赤松二郎が、現川の三浦道場と矢上神社境内の林田道場に、師匠として招かれた。…
 ※三浦道場は、幕末に道場で寺小屋をもち、明治になると、道場を校舎として、児童を集めて授業を始めた。これが矢上小学校現川分校創立の前身となった。

 郷土誌に表われていないが、現川の加勢首にも剣道場があったそうである。
 現川分校の前を通りJR現川駅から現川峠を越し、長崎市西山台団地へ出る道を上がって行く。この谷の集落が「加勢首」で、最奥の家のきれるところのちょうど左側道路脇に、古い観音堂と墓がある。現川峠越しの旧道が前に残る。観音堂の石燈籠には「文化七年 仝十月吉日」銘。
 観音堂裏の車道から一段高い墓地に、細長い標柱と自然石に乗った墓碑を見かけた。

 18cm角、高さ2.3mの標柱は、4面に次のような意を刻んでいる。
 「大正二年大演武会二於テ総裁宮大勲位功二級 貞愛親王ヨリ七十歳尚ホ演武ヲ栄トシ今詞ヲ賜ヒヤ」「総裁宮ヨリ演武□□中術ノ精錬ナルヲ表示セラレキ」「本会二功不勘トメ総裁宮ヨリ褒章及ビ記章ヲ賜ヒキ」「錬武館主誌之」
 一方、古い自然石に乗った墓碑は、「樋口銕市之墓 玄武斎勇道智剣居士」「大正八年十月二十四日生」と刻む。いかにも剣術家らしい戒名だが、標柱とは年代が合わない。

 畑をしていたすぐ下の家の奥さんに聞いてみた。ここは諫早市に住む樋口家の先祖墓。 墓名の樋口銕市氏の先々代くらいから、この車道下の今は竹林となっているところで、剣道場を開いていた。これが「錬武館」という道場ではなかったか、という話である
 杉澤翁昭和7年図の「現川維新前後の面影」を見ると、加勢首の現地の場所に「錬武館」と、墓下に「樋口」邸が描かれている。

 「樋口家」といえば、先の「筆子塚」の石祠建立施主名に三浦助之烝・林田要之進に続き「樋口善太夫」の名がある。
 同郷土誌18頁の「12、樋口渡瀬」には、「矢上橋付近を樋口渡瀬といい、矢上の豪族樋口一族がこの近くに住んでいたものと思われる」となっている。
 加瀬首住いだった剣道場主「樋口家」も、これら武勇一族の流れをくむ家系ではなかっただろうか。地元において詳しい考証をお願いしたいものである。 

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                雲仙キリシタン殉教道の標石  雲仙市小浜町雲仙

 小浜から国道57号線により雲仙へ登ると、標石は雲仙の入口「札の原」にある。有家や諏訪の池からの県道と合流したすぐ先。旧道が右方に少しの区間残り、道脇の植え込みの中に、「雲仙キリシタン殉教道」の説明板とともに、この標石がある。
 現地説明板による説明は次のとおり。
 この先にあるカトリック雲仙教会は、ローマ法王・ヨハネパウロ11世初の長崎訪問を記念し、雲仙で殉教した信者に捧げるため、1981年建てられた。

                        雲仙キリシタン殉教道

 江戸時代、時の幕府がキリシタン信者に対して改宗を迫り、あらゆる弾圧を加えたことがありました。1627年(寛永4年)から1632年(寛永8年)まで雲仙はキリシタンの責めの場所となり、地獄につけたり、熱湯を浴びせる等過酷な迫害が加えられ尊い生命を信仰に捧げた数多くの者がでました。しかしさすがの幕府も信者たちの厚い信仰心まで打ち消すことができませんでした。
 この地点は小浜方面と有家方面から登ってきてちょうど合流する所で、長崎あるいは有家、口之津地方の信者たちがこの道を歩いて雲仙に向ったといわれます。なお、右下の石柱はその当時の道しるべで、下記のように刻まれています。

  これよりうんぜん十八丁(18町 約1.8km)
  左 みなんめみち(左 島原半島南部道)
  右 をばまみち(右 小浜道)

                   昭和55年6月  雲仙小浜ライオンズクラブ


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