みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の藩境石と塚

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                 三重東樫山の天福寺へ移設されている藩境石

 この項は、2007年7月13日記事”大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認”を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/12697104.html

 「大村郷村記」三重村に記す「櫻の首白眼」に建てられた銘のある大塚「従是 東北大村領 西南佐嘉領」は、東樫山町836番地新道宅前の空き地に放置されていたのを、私たちの調査により判明したのを記事にしているが、この藩境石はその後、地主の希望により2007年11月頃、同宅上部にある天福寺の正門横へ移設されている。

 私たちは、郷村記による元々建っていた「櫻の首白眼」に戻すのが、地域の歴史がわかり良いのではないか。天福寺に置けば目立つかも知れないが、これから価値がでる史跡の保存方法としてあまり感心できない。
 寺に移すにしても、長崎市三重支所前の藩境石とも連合自治会に相談し、費用をあまりかけずに簡単な説明板を付け、いきさつが良くわかるように考えてほしいと願っていたが、それは叶っていないようである。

 天福寺の正門横へ移設されている藩境石を早く見に行かなくてはならないと思っていたが、ついつい遅れていた。先日、川上氏と三重を訪ね確認してきたのが、上の写真である。
 なお、4月11日(日)長崎学さるく”三重樫山などの藩境石とゆうこうの古木めぐり”では、天福寺のこの藩境石と、法要がなかったら同寺の秘仏「金のマリア像」を拝見できる。

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        大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査  平成21年2月

 前外海こども博物館長松川先生や川上氏との3人による長崎市東・西出津町にあった佐賀藩飛地の藩境石(傍爾石)及び藩境塚探しの続き。
 本年1月に「とひ崎」という海岸で、「従是 東大村領 西佐嘉領」と刻んだ藩境石が見つかっていることは、前項を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/35332359.html

 2月28日午前9時、「夕陽が丘そとめ」で松川先生と落ち合う。最初、出津大橋下の四釜(鹿間)海岸へ行く。集落はずれの海岸の道に、藩境石が立っていた土台石が残っていた。大きな広い敷石の中心に、30cm四方位のくり抜きの穴がある。
 「大村郷村記」は、確かにここに「従是 東南大村領 西北佐嘉領 申ニ而」の藩境石を建てたことを記している。しかし、今は集落の人に尋ねても、藩境石のことはまったく記憶にない。はるか忘却外の出来事なのであろう。

 外海歴史民俗資料館に上がると、庭に2本の藩境石が展示されている。立っている1本は牧野に、横倒しの1本は黒崎にあった藩境石を持ってきているそうだ。ド・ロ神父記念館の前庭にもあと1本展示している。
 次に、国道沿い物産販売所「菜園」がある道路公園下の海岸へ行った。「砥石原」といい、「大村郷村記」はここにも「南佐嘉領 北大村領 酉ニ向」の藩境石を記している。辺りをだいぶん探したがわからない。大塚すらまったく探しきれなかった。
 国道上の車道へ行き、次は旧街道の籠立場近く「松尾のさこ」を上手から眺める。薮の谷斜面となっており、ここは調査することができない。

 不在中の日宇さん宅庭を借り昼食。午後は「桜のさこ」からヘン岳に続く北尾根へ上がる。雑木林や一部植林地となっている急な斜面。約1kmの登りやヘン岳との尾根に14基の藩境塚が残っているのを確認した。新しい発見となる。
 ヘン岳とその先は、昨年3月に踏査済み。井出墓地から下ると、市指定史跡「ド・ロ神父大平作業所跡」に出た。煉瓦造建物の珍しい史跡(史跡の項で別項)。ゆうこうの木が大きくなり、蜜蜂用の菜の花畑も満開だった。

 最後の写真が、長崎歴史文化博物館所蔵「文久二年彼杵郡三重紙津村図」。この絵図と藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)101頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の記事が、今回の調査用資料。

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         大村郷村記に記す黒崎村出津郷「とひ崎飛地」の藩境石が見つかる

 新年早々、友人川上氏からうれしいメールが入った。彼は柚の新種である「ゆうこう」発見のきっかけをつくり、昨年のトリノ大会で「世界のスローフード」に認定された。「ゆうこう」の木の分布とともに、三重・外海地区の佐嘉領飛地藩境石や藩境塚も調査している。
 今回、新しく見つかった藩境石は、長崎市西出津町の「とひ崎」という海岸。後日、川上氏から詳しく報告してもらうが、概要のみ知らせておきたい。

 国道202号線により出津大橋を渡り「出津教会」と食事処「日浦荘」前を通り、しばらく行くと、道路公園の手前に物産販売所「菜園」がある。
 左方に海岸へ下る車道があり、途中の分岐は左へ行くと、村崎宅の前で車道は終る。コンクリート坂道を海岸へ下る。長い防波堤があり、角力灘の大角力・小角力の岩礁が見える。
 これより磯伝いに出津側へ300mほど戻る。小さな先端となり、「日浦荘」の建物が見えてくる。ここが「とひ崎」と郷村記に記されている海岸と思われる。
 ちょうど物産販売所の高台の下くらいとなる。

 沖の先へは岩礁が飛び飛びに浮かんでいる。手前の磯の岩下を探すと、白い石柱が不釣合いに転がっている。寸法は23cm角、高さ80cm。刻字は1面のみ「従是 東大村領 西佐嘉領」。まぎれもない藩境石。
 石の存在は、地元の人が前から知っていた。昨年4月、地元の研究家、前外海こども博物館長松川先生に話があり、川上氏は松川先生から本年1月4日、現地へ案内してもらっている。

 川上氏からメールが入り、先日、同海岸を訪ねた。波が洗う海岸に、藩境石はよく残っていたものだ。刻面が上向きなのは、同氏らが1月4日写真を写したためらしい。
 少し調べてみた。この藩境石のことは、藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)101頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の中に、次のとおり記している。

 とひ崎飛地
 一傍爾石文化十酉年(1813)熟談之砌、新規相建、銘書左之通
   従是 東大村領 西南佐嘉領 西北大村領
 (以下、文政11年(1828)大風により相損、元修復したことも記している)

 最後の図絵は、長崎歴史文化博物館蔵「文久二年(1862) 彼杵郡紙津村図」から。「とひ崎」(青線囲み)海岸の位置に凡例とおりの「舫塚」(もやいづか:両藩で建てた藩境石と塚)の記号が表示されている。やはり、昔からこの近くの岩間に建っていたのだ。
 平成20年3月の「大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査」は、次を参照。
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/35332359.html

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              俵坂関所跡の藩境石  佐賀県嬉野市嬉野町大字不動山

 長崎・佐賀県境、国道34号線俵坂峠手前切り通し右上へ移設されている長崎県側の折れた「従是大村領」の藩境標石は、次の項で紹介している。
 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/34938677.html

 これは峠を越えて嬉野町へ下る国道すぐ下の旧道「長崎街道 俵坂関所跡」に立つ「従是北佐嘉領」の藩境標石である。
 関所跡の現地説明板は次のとおり。
                         長崎街道 俵坂関所跡

 江戸時代、幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼び、正しくは俵坂口留番所である。戦国時代にすでに関所としての機能があったと伝えられるが、創設の時代は不明である。
 江戸時代になると長崎街道として佐賀、大村両藩の藩境の要地となり、特にキリシタンの取締りが厳しかったといわれる。敷地面積二百余坪、建物は間口四間(七.二m)奥行七間(三.六m)の構えで、侍一名、足軽九名が監視にあたり、通路には門札が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた。
 大名行列御通行のおりには、番所役人が威儀を正して平伏し、送り迎えをしたといわれる。
 明治維新を向かえ明治四年(一八七二)の廃藩置県によって廃止になった。
                                     嬉野町教育委員会 

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                   今村川岸の藩境石塚  大村市今村町

 国道34号線西諫早の貝津町交差点から長崎日大高校の方へ左折し、三浦回りの県道37号線へ入る。津水大橋から今村川沿いを行くと今村橋があり、長工醤油先から小橋を渡り川の右岸土手道を進むと、水門がある広場にこの藩境標石が立つ。
 現地説明板は次のとおり。塚は説明板上の高台にすぐ2基ほど見られる。

                        藩 境 石 塚

 ここ今村川の川岸に立つ標柱には「従是(これより)東佐嘉領真嵜村 西大村領今村、此下江川(えごう)」と書かれています。これは藩政(江戸)時代の国境石柱で、ここを起点として藩境石塚が約三十メートルおきに点々と諫早・大村境を北上しています。

 大村郷村記によると、享保十年(一七二五)に設置され、その数三百数十基、大村は丸塚、諫早は角塚を交互に築きました。大村藩・佐賀藩共に厳重に守って来たもので、修理の場合も両者役人立合いのもとに厳正に行いました。しかし戦後の開発、開拓によって、その多くは消失しています。当会のこれまでの調査では、六十基が西部丘陵で確認されていますが、今後、未踏査の区域の調査が進めばもっと増えるものと思われます。

 藩境石塚は、その時代、命がけで護ってきた貴重な境界標柱であると共に、文献史料を伴う歴史遺産であり、大切に保存すべきものである。
 讃州谷(説明は略)
                     一九九九年三月    西部地区の環境と文化財を守る会

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