みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の藩境石と塚

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               大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査

 西彼杵半島外海地方の藩境石塚の所在については、これまでこの項や川上氏寄稿により調査の一部を紹介している。
 今回調査したのは、大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚で、「深入の辻」の傍爾石と「ヘン岳」の塚。地元も関心を持って探してくれており、平成20年3月22日、川上、中尾、私が訪ねた。案内してくれたのは、前外海こども博物館長松川先生と地元の高橋さん。

 この2箇所の藩境石塚のことは、藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)98〜99頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の中に、次のとおり記している。

 牧野内平より同所頭出津郷へんたけ、夫より同郷白木迄
 一大塚七拾五 内貳ツ舫塚
 出津郷白木終舫大塚見渡建石より白木頭、夫より同所大さこ赤首中道境ニ終る
 一建石四拾六
 小城海手初の塚より深入之辻迄
 一大塚貳拾四、内壹ツ傍爾石、深入之辻ニ建
  傍爾石銘文
   従是 東南佐嘉領 西北大村領  末ニ向

 「深入之辻」とは、現東出津町の道の駅「夕日が丘そとめ」国道反対側をやや登った高台である。黒崎中学校から行く方が道がはっきりしている。写真のとおりの藩境石(傍爾石)があった。
 次に、現西出津町の「ヘン岳」(漢字では小字あり「変岳」と書く)に向かった。出津教会上の道を進み、この背後の小高い山。奥の民家手前にドロ神父井戸があり、尾根に上がると、神父が拓いたという広い畑があった。

 「ヘン岳」ピークを目指し、雑木の尾根を南へたどる。石を積んだ藩境塚は間隔を置かず次々に現れ、山頂まで10基ほど。先の次のピークまでとその下りで8基ほど見た。
 まだ探せば塚は続いてあるだろうが、山麓は畑地跡や赤道となり不明瞭で、ここで切り上げた。
 なお、資料としては、案内してくれた松川先生の作成稿で、平成17年度文化財サポーター育成講座研修資料「外海における大村藩領地と佐賀藩領地について」などがある。

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                俵坂の「従是大村領」領界石  東彼杵郡東彼杵町

 国道34号線が、長崎県東彼杵町から佐賀県嬉野町との県境「俵坂」に登りきる切り通しの、すぐ手前となる右方のやや高い石垣上に、この領界石が移されて立てられている。車中からなら、よく注意して見てないと見過ごす。
 現地説明板は次のとおり。同じ所に立つ隣りの高い石は「地神」である。

                          領  界  石

 「従是大村領」の領界石は、元禄三年(一六九〇)ここより北西二百メートルの藩境(現在の県境)に建てられました。
 高い所に立つ五尺五寸(一・七メートル)の大村藩の領界石と、その北側の低い所に立つ「従是北佐嘉領」の二・八五メートルと背の高い領界石が、よりそって立つ姿は、当時の旅人たちの目を引く存在でした。
 明治の国道建設後、その所在がわからなくなっていましたが、昭和三十三年、俵坂バス停付近の土中に、上の部分が欠けた姿で発見され、ここに移しました。
                               東彼杵町教育委員会

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                   波佐見の三領石  東彼杵郡波佐見町村木郷

 長崎市では見かけない三角形石柱の三領藩境石。波佐見から有田へ行く県道107号稗木場有田線の佐賀県との県境「峠」から左折して西の方へ車で10分ほど上がった山中にある。岩崎交差点から20分ほど。ずっと道路案内標識があった。最後のすぐそこ60mは歩いて登る。
 波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊65頁の説明は次のとおり。

                      44.境 石〜三領石(村木郷)…

 波佐見は県境の町、以前から藩境の村でした。三領石は、村木峠から西へ入りみかん畑を通り、少し山を登ったところに建っています。高さ7尺1寸(2.15m)幅1尺(30cm)の三角形石柱で、正面に「此三領境東西峯尾続雨水分南大村領 彼杵郡(ごおり)波佐見郷」、右面には同じく「…東西・・・佐賀領 松浦郡有田郷」、左面には「…西北・・・平戸領 彼杵郡早岐郷」と刻まれています。
 今から240年ほど前の寛保2年(1742)に三藩の役人が立ち合って建てた境石です。三領石から東へは野々川の一本杉跡の石碑を経て、小樽の仏坂の境石までは、分水嶺が佐賀領と大村領の境です。以前は大松が点々と並んで境を示していたが、境松のない所や枯れた松には、佐賀は角塚、大村は丸塚を交互に築きました。

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                諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

 平成17年春、長崎市の大久保山から戸町岳に残る大村藩と佐賀藩の藩境石塚を、私たちが調査した。結果は、研究レポート第2集やこのブログ先項に載せている。
 この時、最近調査された近郊の藩境塚で、「森山町郷土誌」から諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚の例を、概略で次のとおり紹介していた。

  (資料4) 森山町郷土誌 光富 博氏稿「諫早史談会 森山探訪資料」 平成16年  185〜188頁
(3)諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚
 藩境に石で築かれた御境塚が森山町・愛野町合同調査(註1)により、諫早領唐比村と島原領愛津村の藩境に存在することが確認された。合同調査によると御境塚は日吉神社の鳥居わきの山中に南東の方向へ五七五mに渡って分布している。諫早領の御境塚は円形で十八基、島原藩の塚は四角形で十三基、合計三十一基の御境塚が残されている。この外に潰れた四角形の御境塚ニ基が残っている。
 この御境塚はいつ築かれたのか不明であるが、安永八年(1879)、双方の境に諫早領と島原領より御境塚ニヶ所を新規に築き、道の終点に双方より石を一つ宛埋めて中心の目印とした。この塚ニヶ所の上に杉壱本宛植えて双方の境目とした。(註2)
 この御境塚に関係する記事が『日記』(註3)の安政四年(1857)六月十一日の条にみえる。この記事を読み下しに直して次に掲げておく。(略)
 註(1)平成十五年四月九日、「藩境石塚」について、森山町教育委員会,森山町郷土誌編纂歴史部会及び愛野町教育委員会、愛野町郷土誌学習会による合同調査を実施した。
  (2)『日記』安永八年九月ニ十一日の条。(諫早市立諫早図書館蔵)
  (3)『日記』安政四年丁巳五月ヨリ七月迄。(諫早市立諫早図書館蔵)

 ここの藩境石塚は、一度は見ておきたかった。思い立って平成20年2月23日、愛野町の現地を訪ねた。国道251号線唐比交差点から愛野の方へ左折し、ほどなく行くと小原バス停がある。右前方の小山に日吉神社があり、山王自然公園として整備されていた。巨石が多いのには驚いた。神体も石である。頂上広場に展望台があった。

 藩境石塚は、ここにはない。公園入口の鳥居のところからすぐ右方へ分岐する広い車道があり、行くと「NER PLUS ナイロン(株)」の正門でつき当たり。この会社の敷地外周の山中に藩境石塚が残る。公園には、入口にも何の案内図や藩境石塚の道標はない。場所を探すのに苦労した。諌早市で何とかしてほしい。
 現地の「藩境石塚」説明板は次のとおり。このあたりで確認されている13基の石塚が、連続して見られる。町の指定文化財。史跡石柱があった。

                 藩 境 石 塚     愛野町乙字山王2番18

 島原藩と諫早藩の境の印として積まれた石塚です。古い記録によると、南北一・五キロに四十二ヵ所となっていますが、今は三十一ヵ所現存しています。
 島原藩は、一辺二メートルの□形で十八ヵ所、諫早藩は、一辺二・二メートルの○形で十三ヵ所確認されています。
 石積みの高さは、六十〜七十センチメートル、一個の雑石の長さは三十センチメートル前後です。塚間の距離はまちまちで、同間隔ではありません。
 このような藩境石塚は、諫早藩と大村藩の藩境である鈴田峠近くの風観岳の山中にもわずかに残っています。
 この石塚は、島原藩・有馬晴信の頃、諫早藩・初代龍造寺家晴が諫早に入部後、約四百余年前の天正年間に積まれたものと考えられています。
                    平成十七年二月一日   愛野町教育委員会

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                 鈴田峠から風観岳の藩境石塚  諌早市・大村市

 鈴田峠は、諌早と大村の境。鈴田峠から風観岳に残る藩境石塚の見事さは、話に聞き、HPにより見ていたので訪ねてみた。鈴田峠から歩くつもりだったが、HPに山道の地図がなく、峠駐車場に何の案内もない。
 地元の人も知らず、峠手前「トンネル上」バス停の鈴田峠甘酒まんじゅう屋のところから車道が上がっていると聞いて、バイクで登った。
 私は国道34号線から行った。どうもHPは、昔の長崎街道の鈴田峠から話が進んでいるようなのに、今となって気付いた。

 途中の集落に石祠があり、au無線塔の先に山道の案内があったが、そのまま頂上近くまで走った。車だと5分位。この一帯の尾根に藩境石塚があった。最大の三角塚は、一辺の長さ4mほどある。まっすぐ歩いて行くとすぐ山頂。
 巨石の広場に、「従是東佐嘉領」の文字を削って、転用された「遥拝所」の石柱があった。建立の刻は「明治卅年四月三日 本高来郡破籠井村 総代柿本覚六」か。

 あと1つの石碑は「明治三十七、八年日露戦役出征軍人凱旋紀念櫻」。が、桜はなかった。三角点が見あたらず、墓石を間違って書いた思われるHPもあった。山頂から先へ少し下ると、風観さんの石祠があった。下の集落のと同じようだ。後は何もなく引き返した。
 HP「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」の説明は次のとおり。これを参考に行ったのだが、「硯石」を見てなく、また同氏のには、別に近くの大村市今村川畔「藩境石(今村川)」があることを知らず、調べそこねた。再度、出かけねばならない。
 最後の写真は、国道34号線の諌早市真崎町側から見た風観岳。

                    HP 「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」

 長崎街道の鈴田峠から、大村に向かって右手に入ると、風観岳に上がれる。(01/05/2002)
 昔から、大村と諫早の境界である、風観岳(236.7m)。鈴田峠から、風観岳の遥拝所の間で、藩政時代の、国境標識である、藩境石塚を見ることが出来る。
 この石が、硯石で、大村諫早間の鈴田峠の目印。この石から、右手に上って行くと、風観岳の山頂に上がれる。途中に分かれ道が、二箇所ほどあるが、上に向かっていけば大丈夫です。
 この塚は、三角塚と言い、藩境石塚の一種だが、境界が、「く」の字に折れたところに築かれたもの。風観岳の山頂に行く途中に、遺された、この石塚は、確認された中では、最大のものです。

 四角く積まれた、この形の藩境石塚は、角塚といい、諫早(佐賀)藩が築いたものです。また、丸く積まれたものは、大村藩が築いたもので、丸塚と呼ばれます。
 藩境石塚は、約30m間隔で、設置されていて、享保10(1725)年に築かれたそうです。
 この藩境石塚は、全部で三百数十基が築かれたそうですが、この諫早西部の丘陵地帯に、60基ほどが確認されています。
 しかしながら、その多くは戦後の開発や開拓で消失しています。せめて、現在残っているものだけでも、文献資料を伴う、大切な歴史遺産として、遺していきたいですね。

 風観岳山頂の東端にある、東方遥拝所の文字が刻まれた石柱があります。この石柱は、もともと、街道の硯石の傍にあって、「従是東佐賀領」と書かれていた、石柱だったそうですが、その文字が削られ、明治時代に、現在の場所に、移されたものです。藩境石も、こんなリサイクルをされるとは、思ってなかったでしょう。
 風観岳の山頂は、日露戦争の出征兵士凱旋祈念碑などもあり、上の石柱と併せて、軍国主義時代の遺物になっています。
 現地の状況からすれば、昔は、東側に諫早湾や、多良岳連峰を望む、絶景の地だったようですが、現在は、杉の木立に隠れて、遠景を楽しむことは出来ません。

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