みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の古写真考 1

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     長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1) (再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1)

  ■ 確認結果

 目録番号:2882「長崎立山からの長崎港(1)」は、〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊60頁に、「48.福済寺裏山からの長崎港」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  48.福済寺裏山からの長崎港
 長崎港の入江を撮影した風景写真。上野撮影局から約1キロメートル離れた長崎市筑後町に位置する福済寺は崇福寺(No95)、興福寺、聖福寺とともに長崎四福寺と呼ばれる黄檗宗の唐寺で、戦前は国宝指定されていたが、原子爆弾によって全焼した。多数の船が浮ぶ画面左には中島川が見える。
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治10年代  所蔵者 学校法人産業能率大学

 撮影場所は、「福済寺裏山から」と言うより、ほぼ「立山」山頂から撮影されている。本ブログの次の記事を参照。 
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61420708.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48985241.html

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          長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4879 諏訪神社(4) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:4879 諏訪神社(4)

 目録番号:3253 諏訪神社(2)
  〔画像解説〕
  明治中期(1887)頃の手彩色の写真。秋のくんちの踊り馬場から参道入り口方面を見た写真。三つの鳥居が重なって見える。明治中期の、諏訪神社参道の風景。

  ■ 確認結果

 目録番号:4879「諏訪神社(4)」と、次の目録番号:3253「諏訪神社(2)」は、同じ写真である。後者の画像解説は「大鳥居」。解説を入れ間違えている。
 青銅馬を写したこの写真は、〔撮影者:上野彦馬〕のように思われるが、違うところがある。

 上野彦馬撮影の写真は、馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊55頁に、「42.諏訪神社」として掲載されている。同解説は次のとおり。
  42.諏訪神社
 上野撮影局近くに鎮座する諏訪神社。江戸時代初期に造営された鎮西大社諏訪神社は安政4年(1857)に火災で焼失し、明治2年(1869)に新社殿が再建された。No.94も同神社の写真。
  撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治3年(1870)頃  所蔵者 学校法人産業能率大学

 画像を比べると、上野彦馬撮影は撮影の向きが少し左へ寄っている。青銅馬などに蔭がない。拝殿後方左の木立も繁り方が少し違うようである。
 目録番号:4879「諏訪神社(4)」は、画像の鮮明さから、〔アルバム名:上野彦馬(?)〕のとおり、上野彦馬作品とも考えられるが、今のところ、何とも言いようがない。

 諏訪神社境内案内による「神馬像」の説明は、次のとおり。最後が現在の北村西望作「神馬像」
   神馬像(しんめぞう)
 (現在ある神馬像は)平和祈念像の作者故北村西望氏102歳時の作です。昭和59年第16回日展に出品され、昭和天皇の御在位60年を記念して昭和60年10月に奉納されたものです。
 そもそも当神社には、明治3年に三菱重工業長崎造船所の前身である長崎製鉄所より創業記念として神馬像が奉納されておりましたが、大東亜戦争時に国へ供出され、それ以来神馬像は姿を消しておりました。
 故北村西望氏の奉納に際し、長崎の歌人 故池田可宵氏は次の俳句を残されました。
「諏訪の杜 神馬もどりて 竹の春」

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      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 (再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

  ■ 確認結果

 以下、古写真集「上野彦馬歴史写真集成」から、わかった作品を数点、取り上げてみる。
 まず、長崎大学データベースでは、目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」。撮影者は、「内田九一」か、それとも「上野彦馬」だろうか。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊53頁に、「38.高島石炭場」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  38.高島石炭場
 高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和にわたって発展した、いわゆる「軍艦島」を含む一帯。画面左に外国人風の男性ニ名の姿が見られる。画面右には「長嵜高島石炭場 Takashima mine.Nagasaki」の記載がある。
  撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治元年(1868)  所蔵者 学校法人産業能率大学

 一方、上野彦馬門下の「内田九一」が撮影したとする「長崎高島炭鉱石炭船積場」。内田写真株式会社蔵の写真がある。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo04.html

 はたして、撮影者はどちらなのか。撮影した年代もいろいろある。本ブログの次の記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59951394.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/50331356.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61936967.html

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          長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地
  〔画像解説〕 超高精細画像データベース
  上野彦馬アルバム所載の1葉。悟真寺は稲佐山の麓に位置し、慶長3年(1598)の創立という長崎近郊では最初に再興された浄土宗の寺院である。裏山に広がるその墓地は、早くから長崎で客死した中国人やオランダ人の埋葬に当てられており、幕末以降には来航したロシア人なども加えられて、それぞれに区画された墓域をなす国際墓地を形成していた。画面左手の松林の向こうにロシア正教の礼拝堂があり、中央下に蓮池に架かる石橋が見えることからして、現在の「悟真寺国際墓地」入り口に当たる。橋の上の人物は、中央の水桶を天秤で担ぐのは服装からして中国人のようで、両脇の褌に半纏を羽織り、頭に鉢巻きをした人足風の二人はまだ髷を結っているようにもみえる。とすれば、明治初年の撮影であろうか。画面に墓域の明確な区画は見えないが、オランダ人墓地の周囲に煉瓦塀を構えるようになったのは、ずっと下って大正7年(1918)のことであった。

  ■ 確認結果

 目録番号:5313「稲佐悟真寺墓地」は、超高精細画像データベースでは〔撮影者:上野彦馬〕となっているが、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊111頁に「長崎 1860年代 ベアト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  長崎 1860年代 ベアト
 長崎市曙町、悟真寺の墓地。古くから長崎在住の中国人墓地であったが、後にオランダ、ロシア、アメリカ、イギリス等の外人墓地が造成されて、現在の稲佐国際墓地に発展した。世界でも稀な、異教徒混在の墓地。

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         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5881 中島川河口(2) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:5881 中島川河口(2)
  〔画像解説〕
  明治20年以前には中島川の河口は、現在の十八銀行の付近にあった。中島川河口に明治2年(1869)に新大橋が架設されたが、この橋の上から中島川の上流を撮影した写真。写真中央に見える橋は長久橋、左側は築町、右側は西濱町。現在と比べて川の水量が多く、中島川が物資の運搬路になっていたことが分かる。明治初期の写真。

 目録番号:4030 中島川河口(1)

  ■ 確認結果

 目録番号:5881「中島川河口(2)」は、次の目録番号:4030「中島川河口(1)」と同じ写真で、〔撮影者:スチルフリード 〕となるだろう。
 画像解説のとおり、当時の「新大橋」の上から、「長久橋」を撮影しているのは間違いないようだ。この項は次の記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58569154.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58413776.html

 ところで、長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに、同じような古写真が出てくる。 http://nagasaki.n-grit.com/  
 橋は同じだが。川に浮かぶ船の数が違う。「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。「長久橋」が正しいようだが、現在もそのままとなっている。

 この写真は長崎大学データベースに見当たらない。出所を調べていたが、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.1 No.22 1871/4/17 の写真とわかった。資料は九州大学デジタルアーカイブから。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊109頁に「長崎 1871年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  長崎 1871年ころ ファー・イースト
 長崎の河岸に、ところ狭しと並ぶ民家。長崎は入江が多く、舟は重要な交通手段であった。


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