みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎の古写真考 1

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                 長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:5878 対馬(6)

 対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。

  ■ 確認結果

 目録番号:5878「対馬(6)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。

 この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。

  82 都々智神社とイギリス軍艦
 対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
 ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

 この項は、再掲。本ブログ次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/62121882.html
 今般、遺産リストで対馬を訪れる機会があり、古写真の現地確認も行った。目録番号:5878「対馬(6)」は、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影しているのは間違いないので、現在の写真を載せる。

 

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                これが星取山無線中継所からの景色  長崎市出雲3丁目

 明治4年(1874)金星太陽面通過観測の最適地として日本が選ばれ、長崎ではフランス隊の金比羅山に対し、アメリカ隊の観測は星取山(当時は太平山。観測を契機に改称)で行われた。
 長崎大学附属図書館古写真データベースにも、ほかに星取山から撮影した作品が数点あるのに、現在の山頂一帯は、NTT長崎星取無線中継所が建ち、高い木立に囲まれ見通しが効かない。
 1月10日に機会があって、NTT長崎星取無線中継所に入れてもらった。構内の様子や建物屋上から景色を撮影できたので紹介する。長崎港口の方は展望できなかった。

 星取山のHP「電話局写真館」による説明は、次のとおり。

    NTTコミュニケーションズ 長崎星取無線中継所 | 長崎県長崎市出雲(星取山山頂)
 坂の町を見下ろし、星の空を見上げる無線中継所。
 坂の町・長崎、星取山山頂にあります。
 町から見えた中継所。
 明治4年アメリカ隊による金星太陽面通過観測が行われたそうです。
 NTTコムとNTT西日本による案内板が設置されていました。
 局前のバス停、「無線中継所前」。
 時刻表によると一日に朝夕2回やってくるようですが、ここから乗り降りする人はいるのかなぁ。
 ひっそりと建てられていた退職記念碑。
 中継所に勤務されていた方でしょうか。思い入れが伝わってきます。

    金星太陽面通過観測の地(長崎・星取山)
明治4年(1874)金星太陽面通過観測の最適地として日本が選ばれ、アメリカ、フランス、メキシコなどから観測隊が来日し、長崎、神戸、横浜、東京で観測が行われました。
アメリカのダビッドソン隊は、星取山(当時は太平山。観測を契機に改称。)に観測所を設け、12月9日、曇天の中、太陽面を通過する金星の観測を行いました。この観測隊には、当時の海軍省(水路寮:現在の海上保安庁)、文部省から係官が同行し、観測機器類や観測方法などが見聞きしました。後日、日本経緯度原点が東京麻布に設けられたのもダビッドソンの尽力によるものです。
なお、上野彦馬は第3写真助手として雇われ、観測所の風景などを撮影しました。また、長崎ではフランスのジャンサン隊も金比羅山(当時は琴平山)で観測を実施し、記念碑や観測台(いずれも県指定文化財)を残しています。
この案内板は、「長崎さるく博」(平成18年4月〜10月)の開催にあわせ、科学史における偉業が当地で行われたことを記すために設置されたものです。
    2006年4月 NTTコミュニケーションズ株式会社 西日本電信電話株式会社
           協力 日本大学芸術学部 長崎市教育委員会(長崎市科学館)
 観測所風景(上野彦馬撮影)、アメリカ隊が観察に用いた望遠鏡。

 この項は本ブログ次を参照。個々の詳しい説明は省くが、山頂からの景色と対比し確認していただきたい。
 正門から入った南側の花壇と退職記念碑は取り払われ、そこにNTTが平成18年6月設置した「長崎星取山 金星観測地点」のプレートが新たに地面に埋め込まれていた。博物館と協議してこの場所と決めたらしい。

長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 巻頭2〜3P 星取山からの長崎市街のパノラマ
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/69562639.html
長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 14P 幕末長崎のパノラマ写真
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/69571092.html
星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/14729187.html
星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66233490.html
長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61823165.html

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            長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5638 新大工町通り(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:5638 新大工町通り(1)
  [画像解説]
 明治中期の新大工町の町並みである。通りは広く、人力車があちこちに見える。慶長11年(1606)頃大工が集まって大工町ができた。その後、大工町(本大工町)は手狭になり、当時の町外れに新大工町が分離した。寛永18年(1641)には内町の一つであった。寛文12年(1672)に出来大工町が分離している。旧新大工町は昭和56年
(1981)に伊勢町と分離した。

 目録番号:6129 新大工町通り(2) (1)と同じ。掲載略。

  ■ 確認結果

 目録番号:5638「新大工町通り(1)」と、目録番号:6129「新大工町通り(2)」は、長崎明治手彩色写真帖となった同じ作品。キャプションに「新大工町」とあり間違いない。
 長崎ケーブルテレビで近年、「NAGASAKI古写真らいぶらり〜」があっている。私の家は視聴してないが、先日は新大工町周辺の放送があった。

 知人入江氏がこの番組をいつも見ており、「江戸時代の絵地図を見ると、この場所に「天神」と書かれているものもあれば、「いふくじ」と書かれているものもあります。江戸時代は神仏混淆で両方がこの長崎村桜馬場郷の地に在ったのですが、明治の神仏分離令(神仏判然令)により天満宮だけが残りました」
 入江氏からケーブルテレビ放送部へこの内容を知らせ、その後に放送された番組の最後に補足説明があった。他にも新大工町関係の古写真でわかったのは、入江氏の研究によると次のとおり。

 「長崎大学古写真、目録番号:5638、目録番号:6129は「新大工町通り」としているのは良いのですが、「NAGASAKI 古写真 らいぶらり〜」での説明は大手橋を渡って新大工町通りに入った付近から撮影されたように話され、右側の窪んだ場所に舞鶴座が建ち、現在玉屋になっていると話されていました。長崎大学古写真の小さな写真を見ると、私もそのように思い込んでいました。
 しかし、番組内の拡大した写真には擬宝珠の欄干のある橋が写っていました。新大工町に大手橋の他に橋が在るはずもありません。

 そこで見つけたのが添付した写真です。   http://4travel.jp/travelogue/10889685 から。
長崎大学古写真と同じ場所から撮影したもので、前下がりの地形であること、左の角の家の様子、人力車が常駐していることから、撮影地点は諏訪神社一の鳥居前と考えます。私が作成した地図の×の地点です。
 江戸時代は橋の手前に木戸があり、木戸番所があったようです。長崎大学の古写真には橋そばに番所小屋(明治期は交番)らしきものが建ち、警察官?が立っています。

 この写真をアップした方はそこに気付いておられて、「当時の馬町と新大工町の町並み 中央の石畳は、長崎街道の入り口で、両脇に人力車や荷車が留めてあります。中央に大手橋の親柱が見えています。大手橋の名称は、曾て長崎氏が領主だった頃に、この橋が城の大手方向にあったことに由来しています。」とあります。
 しかし、正確には右側は出来大工町で、その後取り壊されて馬町交差点となった場所です。撮影地点の背後が北馬町と南馬町です。」

 私も目録番号:5638「新大工町通り(1)」の中央部分を拡大して、両方の古写真を比較した。左奥に同じ擬宝珠の親柱や欄干が、たしかに写っている。これは後、橋拡幅の際、撤去された。右手前のは消火栓?だろう。
 親柱のところの道路は、アーチ状に盛り上がり、現在も新大工商店街入口の通り下部に残る西山川(堂門川)のアーチ式石橋「大手橋」に間違いないようである。

 現在の「大手橋」は、本ブログ次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/31708397.html
 この記事でもふれているのは、「親柱が、暫らくは付近にあったが、無くなってしまったと聞いていたが、電車通りの向うの曹洞宗光雲寺の門柱になっていると聞いて見に行ってきた。残念ながら文字は確認できなかった。」という話が興味を引く。
 「光雲寺にある石橋の親柱」は次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/19461356.html

 入江氏から教えてもらったが、「大手橋」親柱のあと1本のその後については、「眼鏡橋の控柱(左岸上流側)に継ぎ石 なぜか1本だけ……!?」というおもしろい実証写真付きの研究がある。
 HP「長崎補色 其之参拾伍」の話を参照。 http://f-makuramoto.com/01-nenpyo/02.essay/35/35.html
 以上から、入江氏の「大手橋」という指摘はもっともであろう。長崎大学附属図書館でも研究し、目録番号の具体的な解説修正を早くお願いしたい。

 なお、最後の古写真は、写真集「目で見る 長崎市の100年」株式会社郷土出版社2002年7月発行の57頁に掲載がある「大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)」
 この写真は、本ブログ次を参照。      http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59309442.html
 画像解説は、次のとおり。2本の親柱はこの年代、大手橋を渡った右側に保存展示されていたようである。
 「欄干の柱頭に擬宝珠のついた大手橋から、連合大売出しでにぎわう新大工町商店街を見る。慶長年間
(1596〜1615)に大工職人が集まってできた町といわれているが、周辺の人口増加とともにその後は食料品・日用品などを売る町並みとなり、現在に至っている。(提供:長崎電気軌道株式会社)」

(2014年11月21日 追 記)
 目録番号:5638「新大工町通り(1)」の中央部分拡大は、長崎大学附属図書館に依頼して、写真2の鮮明画像を入手したので差し替えた。なお、画像解説は後段に「写真中央を拡大すると大手橋の擬宝珠の欄干が見えることから、撮影場所は諏訪神社一の鳥居前と思われる。」と挿入し、対処したいとのことである。

 この写真2を見ると、新大工町の奥は坂になっていて、左手に大きな建物が見えます。森田庄屋の跡地に建った長崎県尋常師範学校かもしれませんね。Wikipediaによると「 1889年(明治22年)5月 - 西彼杵郡長崎村馬場郷(現・長崎市桜馬場2丁目、長崎市立桜馬場中学校校地)に校舎を新築し移転」とあります。
 もしその建物であれば明治22年以降に撮影されたことになります。「長崎古写真ライブラリー」の番組の中の写真説明にも明治20年代と書かれていたようでした。(以上は、入江氏見解)

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             高橋信一氏著「古写真研究こぼれ話―真実を求めて―」の新刊案内

 高橋信一氏(元慶応義塾大学工学部准教授)の新刊「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話―真実を求めて―」が、2014年9月15日に渡辺出版から発行されている。
 現在に残された貴重な古写真の数々 知られている人物・年代・撮影者などは 本当に正しいのでしょうか?

 先生の研究には、長崎大学附属図書館が所蔵するテータベースの作品も、数多く取り上げられているから、大学側は真摯な対応をお願いしたい。135〜137頁には、調査に協力している私も紹介されている。
 定価 本体2000円+税。購入申し込みは、ちらしを利用してください。
 
 

 
 

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           古写真展『古写真で見る 1874年、激動の長崎―県庁倒壊と科学の黒船』

 長崎市立図書館イベント情報は、次のとおり。

 古写真展『古写真で見る 1874年、激動の長崎―県庁倒壊と科学の黒船』を開催します!
古写真は彩り豊かな長崎の歴史を切り取った貴重な資料です。
その古写真を通して長崎の魅力をより多くの方に発見してもらいたいと思っています。
 今回は長崎大学附属図書館の古写真コレクションの中から約100点を展示いたします。
開催期間中はオープニングセレモニーや姫野順一氏(長崎大学名誉教授)、松本直弥氏(特定非営利活動法人長崎県天文協会会長)、さるくガイドの川野さん達によるミニトークも開催予定です。
 皆様のお越しをお待ちしております!!

 主  催:長崎大学附属図書館・長崎市立図書館
 日  時:8月27日(水)〜9月15日(月・祝)10時〜18時
      (初日のみ10時30分開場) ※火曜日休館
 場  所:長崎市立図書館 多目的ホール
 申込・参加費:不要

 ポスター「古写真展」(PDF:423 KB)
 トークイベント スケジュール(PDF:99 KB)

 きのう9月3日、写真展を観覧に行った。古写真の解説は、私も事前に協力しているので、あまり問題はなかった。ところが、玄関口にある長崎市立図書館が作成した明治20年代長崎のパノラマ(目録番号: 5615、5616、
5617 3枚続きパノラマ)の表示がおかしい。
 梅香崎の長崎税関岸壁や、対岸側の身投崎・恵美須神社・稲佐崎と稲佐山や岩屋山の説明がない。「初代出島橋」も今、復元が課題となっている出島石橋の「表門橋」とまぎらわしい。

 会場内の作品は、撮影禁止。入口に「あなたが選ぶ!長崎今昔写真No.1」という対比写真コーナーがあった。どなたがどれほど調査した結果だろうか。疑問に思う撮影地の写真が多い。堂々と公開し、トークイベントもされるようだが、市民に誤解を与えないような調査をお願いしたい。
 後ろの写真が、私が調査している撮影地である。URLで参照。どこが違うか?、みなさんも考えてみてください。そのほか数点は疑問を感じた。主催者側でも、もう少し気をつけるべき問題だろう。

 長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/49731730.html (データベースでは、目録番号:4878
 長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 83 戸町の入江 ほか
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/50369330.html (データベースでは、目録番号:3875
 長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2863 大浦川沿い(2) ほか
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66868630.html (データベースでは、目録番号:2879


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