みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎の石・岩・石造物 (県南北)

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                      眼鏡岩  佐世保市瀬戸越町

 佐世保市瀬戸越町に「眼鏡岩」という有名な岩がある。海食洞穴が隆起してできたものらしい。
 国道204号線により平戸方面へ向かう。国道筋に西海学園高校があり、学校が見えたら道路反対側すぐ先の交差点に歩道入口、駐車場入口はまだ先で、案内看板により左折して入る。
 現地説明板は次のとおり。

            ふるさとのみどりをたいせつに  眼 鏡 岩 案 内 図

 大昔、大きな鬼が昼寝をしていた。あたりの騒がしさに目を覚ました鬼が、うーんと手足をのばしたとたん両足が前の岩に当ってポッカリ二つの穴があいた。昔から語り伝えられている眼鏡岩についての民話である。だがこの岩の実際の成因は、数10万年の昔、この辺が海だった時代に、海波によってできた海食洞穴といわれている。
 高さ約十メートル
 長さ凡そ二十メートル
 右の円直径約五メートル
 左の縁直径約八メートル
この眼鏡に似た巨大な自然の岩はまさに人智では計り知れない不思議な造形である。
 平安の頃、たまたまこの地を巡錫した弘法大師が、この奇岩を見て「仏縁の地なり」といい、岩肌に残っている梵字と千手観音像は大師の手になるものと伝えられる。それにここは、旧藩時代には平戸八景の一に数えられ、軍港時代には佐世保名所随一と歌われた景勝地でもあった。千百年にわたる庶民信仰の跡があり、春は桜、秋はもみじの四季それぞれの風情がある。

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        千綿にある「馬加瀬淵」と「龍頭泉道」の標石  東彼杵郡東彼杵町瀬戸郷

 東彼杵郡東彼杵町の千綿川河口に「馬加瀬淵」と「龍頭泉道」と刻んだ古い標石がある。
 HPでは「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・長崎街道」千綿の項が、標石の所在を地図上で示して紹介してある。
 あと1つは「長崎街道ポタポタ道中記」。九州大七三会が「伊能図で甦る古の夢.長崎街道」(河島悦子著)を参考にしながら長崎街道をツーリングした紀行だが、これには標石の写真があり記事は次のとおりあった。

 「…国道34号線に出て、千綿漁港近くで、再び長崎街道へと入ります。
 千綿川岸に建つ「馬加瀬淵標石」です。 橋が架かっていなかったため、雨が続いて水かさが増えると、渡河も命がけだったようです。
 「馬加瀬淵標石」の近くに建てられていました。「龍頭泉道」と書かれていますが、何なんでしょう?。
 このあと、長崎街道は入口が良くわからなくところが多くて、いくつかのパートが不通過となってしまいました。
 「餅の浜踏切」から、再び長崎街道へとはいりました 。…」

 2つの標石がある場所は、現在の国道34号線千綿橋のすぐ上流の右岸である。長崎街道の案内標識によると、道筋は国道の千綿橋下をくぐらせて千綿川を渡り、「馬加瀬淵」標石のあるやや手前川岸に上がらせている。
 街道の道はこれから瀬戸郷の高台へと続き、六地蔵塔を見るのだが、ここら辺りは、今の街道歩きではわざわざ千綿川を渡らず国道の千綿橋を歩かせるため、標石の存在があまり知られていないのではないだろうか。

 4月4日現地へ行って標石を見てきた。確認すると千綿川の川岸に立つ一方は、刻み「馬加瀬淵 従是山下淵三町二十三間」、16cm角×高さ1m。
 龍頭泉へと分れる道角に立つあと一方は、刻み「龍頭泉道 従是四十町餘 四十八潭あり」、27cm角×高さ1.7mであった。
 千綿渓谷蓮華淵近くに残っている同じような古い標石は、風景の項ですでに写真を紹介している。

 なお、最初のHPなどによると、大村市杭出津3丁目の曲角に「これより左そのぎみち」と刻んだ長崎街道辻道標が標識とともにある。私は街道歩きをしてなく知らないので出かけてみたい。

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                     大黒天磨崖仏  雲仙市小浜町雲仙

 温泉山仏教文化のなごりか、自然石に彫られた大黒天像の磨崖仏が、雲仙温泉の別所ダム(鴛鴦の池)北方奥にあり、大黒天神社として祀られている。
 温泉街別所入口から左折。県道そばの駐車場からダムの上を行く遊歩道を400m歩く。
 現地説明板は次のとおり。
                           大黒天磨崖仏

 この鳥居の奥には、自然石に彫られた大黒天像があります。大黒さまは七福神の筆頭神として親しまれていますが、本来はインドでの戦闘の神だったようです。平安時代に日本に入ってから、中国読みのお名前が大国主神に共通する読みをもつことから、福徳の来訪をあらわすめでたい神として信仰されるようになりました。           環境庁・小浜町

 なお、三枯の松ネットワークのブログに次の記事があった。
 
          温泉山の大黒天像     2006−07−19 164517/ 史跡名所

 温泉街から少し離れた所に「オシドリの池」があります。貯水ダムですが冬場になると、多くの冬鳥(カモ類)が渡ってきて湖面を賑わしています。オシドリが長崎県の鳥なので、この名がついたようです。
 大黒天磨崖仏は、このダムの工事のときに発見されたと昭和40年の新聞記事にあります。大黒山が昔の名称として残っており、巨大な岩の固まりに「大黒天」彫られています。400年程前に彫られたという話です。

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                  波佐見金山跡  東彼杵郡波佐見町湯無田郷

 波佐見金山跡は、波佐見町湯無田郷にある。ここは県道1号線の中尾山入口。右折して白山陶器前を過ぎ、上内海住宅バス停に史跡案内板がある。住宅裏の川向こうに金山跡の坑口2つが見られ、1つは完全に扉で塞ぎ、1つは畑のビニールハウス続きの倉庫として利用されているようだ。堤が住宅をはさんで上下にある。

 下流の陶山神社左側の川脇斜面にも坑口があって、石垣で塞いでいると聞いたが、探しきれなかった。この川脇の道は昔の旧道か、堤下で川を渡るところに古い桁橋があり、「中尾橋」と刻んだ銘柱を見つけた。

 陶山神社前に残る赤レンガ造アーチ石橋( http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/34698465.html を参照。切石に「伊東橋」と刻みがあるよう)の解明のため、このあたりはもう少し関連づけて、史料や資料を調べる必要があるだろう。
 「波佐見金山跡」の現地説明板は次のとおり。操業当時の古写真は、波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊70頁から。

                            波佐見金山跡

 明治二十九年、金鉱脈を発見し、翌三十年、鹿児島県祁答院重義により採鉱開始し、日露戦争時(明治37・38年)有望金山として外債募集に役立った。
 坑道は西側に朝日坑をはじめ五坑、東側に三坑、その他に一坑があり、鉱石は電車で精錬所(現在の白山陶器)に運び粉末に砕き、金、銀をとり出していた。電力は初め川上水力発電所からの送電によったが、のち火力発電所(赤煉瓦建物)を設けた。
 明治四十三年、日本興業銀行が直接経営に当り”波佐見鉱業株式会社”となる。
 大正三年八月、貧鉱となって、突然閉山した。この間、金一、〇三三Kg(二七五貫余)、銀二、三九四Kg(六三六貫余)を採掘する。
 その後、金山は三菱鉱業の手に移り、大東亜戦争中、大村空廠が疎開して坑道に地下工場を設けていた。
                  平成四年一月    長崎県波佐見教育委員会

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         雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見る  平成20年2月

 雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見ようという大瀬戸歴史民俗資料館の江越先生の企画行事。平成20年2月13日に参加14人で実施した。コースは、県民の森西ゲートー目一ッ坊岩ー原山ータンポ山ー御用堤ー自然歩道ー西ゲート。
 いつもの調子で、のんべんだらりと後から歩いていたら、最初から道がわからなくなり、また置いてきぼりされた。街道歩きの人は足が早い。携帯は通じない。この日私は何の目的を達せず、時間つぶしだけした。みじめ…。

 快晴の2月16日。ひとりでリベンジ。地図も持たず位置勘だけ。目一ッ坊岩の石鍋跡はわかりにくい場所にある。岩の周辺を3回まわってやっと見つけた。何のことはない。自然歩道を九電鉄塔の方まで行って登ればすぐで、また弁慶岩洞窟や頂上へ立てる。
 石鍋跡は岩裏側の中腹の離れた岩面にある。歩道に今つけている標識は不親切だ。ただ、岩の真下で岩が眺められるからその標識。手前すぎる。ここから登ると石鍋跡まで遠く踏跡不明でたどれない。初めての人は、誰でも迷って探しきれないのでは。

 目一ッ坊岩の尾根を歩き、鞍部で崖面工事中の林道へ出る。左、左と林道を進むと、植林の伐採地で行き止り。先は尾根の作業山道。「大村郷村記」雪浦村・神浦村に記す村境石を連続して8基ほど見る。
 先は踏跡不明となったので、やや明瞭だった小沢へ下り、本流との合流点から今度は本流を遡った。植林地内で作業道があり、つめるとタンポ山広場だった。境石はこの谷にもあった。
 コンクリート林道が御用堤まで出る。林道の途中からは県民の森小道がある。後は九州自然歩道を歩き岩瀬戸渓谷の車道を下って、出発の西ゲートへ戻った。西ゲート付近は「西彼杵半島ふるさと林道」の橋脚架設中。一帯で道路工事が進められている。

 国地院地図は郷土誌から理解のため掲げるが、国有林内がほとんどで一般人は歩いてはいけない。道もわからないだろう。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年刊228〜229頁から次の話だけ紹介する。
                        目一ッ坊の洞窟

 目一ッ坊は、河通川の南岸に聳える、標高三三〇メートルの、峻険な山塊の頂上に近い急斜面にあり、その頂上にある岩山を目一ッ坊岩と呼んでいる。この岩山を遠くから眺めると、ちょうど帽子をかぶったように見える。
 この周辺には、かつての石鍋製作所跡があり、現在もその未完成品が散在し、滑石露頭面にはその痕跡をとどめている。
 なおこの近くには、高さ約六〜七メートルの断層間の間隔に、「弁慶岩」という洞窟があるが、この洞窟については、次のような話が伝えられている。
 「巨岩の内には洞窟があり、この洞窟に近づくと、その身に凶禍が及ぶ」といわれ、この洞窟には誰一人入った者はいないという。また「この洞窟の奥には石棺が置いてある」とも伝えられるが、それをまた見た者はいないといわれる。
 一説には、かつての古代人の住居であったとか、キリシタン信者の隠れ場所であったとかいわれるが、いずれも定かではない。 

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